「第二の再臨が必要だ」と再建主義者

再建主義の富井氏がさらに論を重ねている。どうも、私の記事を意識されている感があるのだが、気のせいだろうか。

この中でマタイ24章と28章の世の終わりは共にAD70であると繰り返しており、「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」 (マタイ16:28)とあるゆえに、弟子たちの中に再臨の時に生き残っている者たちがいるとするわけ。

さて、ここで問題は「人の子が御国とともに来る」とは何のことであろうか? 正確には「御国の中で(in)来る・現れる」である。

さらに富井氏は

さらに、パウロは、携挙が起きるのは、テサロニケの教会の人々が生き残っている間である、と述べた。

ここはおそらく私の指摘、「わたしたち」と言った当のパウロはAD70には生きていないことを意識して、あえて「テサロニケの教会の人々」と言い換えていると思われる。なぜならAD70の富井氏の言う一度目の「再臨」にはパウロはいなかったからだ。この意味で、「わたしたち」と言ったパウロは偽りを語ったことになるわけ。

そして最初のAD70の携挙があり、現在はこの肉体の死をもって、ただちに昇天(=携挙)して、霊の体を与えられるとする。つまり私たちにとっての携挙とはこの肉体の死なのだ。

そして

聖めは二度必要である。 ・・・紀元70年は、「三日目の聖め」なのである。世界の終末は、「七日目の聖め」である。 

と言われる。一度目の「再臨」が三日目の清め、千年期後の二度目の「再臨」が七日目のものであると言われる。「再臨」が二度あること自体がおかしいと指摘しているが、どうしても「再々臨」とは言いたくないらしい。さて、そもそも再臨とは清めなのだろうか?

かくしてできる限り富井氏のパラダイムを理解しようと努めている次第であるが、どうも納得できるだけの論が出てこない[1]前から言っているが、私はあくまでもサイエンティストとして対応している。 … Continue reading。彼はあくまでも、<ゲネア=30年>、よって<世の終わり=AD70>とするドグマから外れることはできないようだ。ここから「再臨が二回ある」、つまり野球でいえば、「セカンドベースの次は二度目のセカンドベース」となるわけなのだ。

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1 前から言っているが、私はあくまでもサイエンティストとして対応している。 一応断ると、私はプレミレに立つが、それは今までのところプレミレを捨てる理由がないからだ。再建主義の主張を詳細に調べても、それを棄却するところまではいかない。もし今後、十分なるエビデンスが与えられれば、私もポストミレに変わるかもしれない。これは数理統計学的思考。すなわちある仮説を立てる。この否定の仮説(帰無仮説)を立てる。帰無仮説の上で今起きている事象の確率計算をして、それが5%未満のとき、帰無仮説を捨てる。これで危険率5%で当初の仮説を否定し得ないとするわけだ(これを「「統計的に5%の有意水準にある」と言う)。
 私の仮説はプレミレ。帰無仮説はポストミレ(この際、ア・ミレは除いておく)。聖書と世界の諸現象からポストミレが成立する確率を推定すると、今のところきわめて低い。よって、なお判断ミスの危険(これを第一種の過誤と呼ぶ)はあることを承知の上で、プレミレは否定できないとしているのだ。これがサイエンティストの思考法なのだ。なお、第二種の過誤とは帰無仮説が間違っているのに棄却しない誤りのこと。

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