埴輪の恰好をする再建主義者

どうも実際に衣の房をぶるさげ、鬢髪を伸ばしているご様子。

服装についても聖書に従順であるべきではないか2

たしかに律法に記されたことは、人種民族を超越した普遍的なものとみなければならないと思います。

動物犠牲は、キリストの犠牲という本体が現れたので、廃棄されましたが「律法は永遠の掟」なのです。

動物犠牲が廃棄されたからといって、その本質である贖罪の掟は廃棄されたわけではなく、キリストの十字架という形で残っています。

新約時代の私たちにとって、動物犠牲は、キリストの贖罪の必要性を教える手段です。

罪を贖われるための動物犠牲の儀式を知ることによって、キリストによる贖罪の必要性を学びます。

レビ記11章4-7節の「反芻するが、蹄の分かれていない動物」が不浄とされたのは、蹄が「区別」を意味するからです。

神の民は「善悪の区別をしなければならない」ので「蹄の分かれている動物」がふさわしく、「蹄の分かれていない動物」を食べるべきではなかった。

神の民は「御言葉を繰り返し思い返し、それについて深く考えるべきな」ので「反芻する動物」がふさわしく、「反芻 しない動物」を食べるべきではなかった。

これらは、実物教育だったのです。

実物を通じて、神は御民に霊的な規則や真理を学ばせ給うた。

キリストという本体が現れた以上、このような実物教育は旧約時代において終わり、食物規定は消滅しました。

しかし、「神の民としてあるべき姿」を教えるという意味において、今でも旧約律法は有効です。

私たちはこれらの食物規定によって「御言葉を反芻し、善悪を区別すべき」と学びます。

では、衣の四隅に房をつけるや鬢の毛を伸ばすは、どう解釈すべきか。

「房」は、律法を思い起こす手段です。

聖書において、人間の裸を隠す「衣」は「キリストの贖罪」を象徴します。

また、「四隅」は「すべて」を意味します。

その四隅に房をつけることにより「自分はキリストの贖罪によって完全に覆われている存在だ」と理解し、それと同時に「キリストに属する者として、聖書法に従って歩むべきだ」と思い出します。

私は、四隅に房をつけてから、それを見るたびに、「聖書的に歩まねば」と思うようになりました。

このような規定は、人間を創造された方の「計り知れない知恵」だと思います。

伸ばした鬢の毛も同様で、それが人間に与える効果は、おそらく「神の民としての自覚」だと思います。

鬢の毛が視野の中に入ることにより「自分は神の民なのだ」と自覚が蘇る効果はあるのかもしれません。

これらは、自分の行動を自制し、調整するための助けとして、神が制定されたもので、人智を越えた効果があると思います。

異邦人は、律法によって行動を自制することがなく、それゆえに、神の呪いを受け、繁栄から遠ざけられました。

もちろん、イスラエル人も律法を与えられながら、それに逆らったために滅亡してしまうのですが、しかし、キリストを信じて生き延びた人々もいました。

外形的に律法を守っただけでは、限定的な祝福しかない、というのが聖書の主張です。

しかし、外形的にでも守れば祝福はあるというのも聖書の教えです。

「キリストという実体が現れたから服装規定は廃棄された」というのも事実ですが、だからと言って「神が制定された律法遵守のための助けとしての服装規定に意味はない」とも言い切れないのではないでしょうか。

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