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二重写しの予言か二回の携挙・再臨か?

いわゆるプレ・ミレのディスペンセイション主義の立場ではマタイ24章やルカ21章の終末予言はAD70年のエルサレム陥落と来るべき終末の状況が重ねて記述されていると考えている。

対してポスト・ミレの再建主義者はそれらをAD70年に限定し、その代わりに二回の携挙・再臨を唱える。AD70年に一度目の携挙と再臨があり、その後千年期に入り、千年期の終わりに二度目の再臨をすると。まあ、「再臨=セコンド・カミング」が二回あるというのは御愛嬌だが。

この記事の初出は2013年1月17日である

さて、マタイ24章の預言は、いわゆるプレ・ミレの私はAD70年のエルサレム崩壊といわゆる終末における艱難時代が二重写しになっていると解釈しているが、理由は―

その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。-Matt 24:1

果たしてAD70年のローマによるエルサレム陥落は「かつてなく今後もないような大きな艱難」なのだろうか。それと

彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。-Luke 21:24

現在のエルサレムはどうか。いまだに異邦人によって踏みにじられているだろう。よって異邦人の時、すなわち教会時代、恵みの時代は満ちてはいない1)この意味についても最近異論が出されているが、ここでは触れないで、「定められた異邦人がすべて救われるまで」と普通に解釈しておく。。ゆえにAD70年の事ではあり得ないのだ。

そこでいつものポスト・ミレの再建主義の富井氏によると面白いことが書いてある。ちなみに彼は、AD70年に主は再臨されたとし、再度千年期(今の時代)の終わりに主は再臨されるするのだ。理由は使徒行伝の「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」(Acts 1:11)とあるゆえに、AD70年にこれは成就していないと私が指摘したところ、再臨は二度あると主張するに至ったわけだ。

そして今回、「聖書は明らかに二重の再臨という考えをしています」と言われている!なるほど私たちがマタイ24章は「二重写しの預言」とするのに対して、「二重の再臨」と言うのだ。これは面白い。ちょっと引用しておこう:

聖書は明らかに二重の再臨という考えをしています。
つまり、紀元70年に最初の再臨があり、終末に2度目の再臨がある。
そして、福音書のほとんどが最初の再臨について述べています。
紀元70年にキリストが再臨されて、地上にキリストの主権が確立しました。
そして、弟子たちを通じてその地上王国が発展し、福音が世界中に伝えられる。
全世界の民族が弟子化される。
世界中に福音が支配し、神の国があらゆる領域に拡大し、世界が御言葉によって運営される。
そして、最後にキリストがやって来られ、世界を神の御手にゆだねられる。
それで歴史が完成し、永遠の世界が始まる。
律法において聖めは2段階で完成するとあります。
ですから、世界が聖められるには2段階必要なのです。

彼によると今はすでに千年期。よって全世界が福音化されて、すべての人がクリスチャンとなった後、主は二度目の再臨をされる(それは再々臨でしょう。セコンドの次はサードだ。)。プレ・ミレでは現在は世はサタンの支配下にあるとしており、それは敗北主義であると言われる。そうするとだ、主御自身こそが敗北主義者の頭となってしまうのだ!

しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。-Luke 18:8

おお、主イエスよ、何と言う不信仰なお言葉・・・。そもそも、ここの「来る」時はいつのことを言われるのだろうか。しかも聖書にはこうある:

そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。-Matt 24:14

繰り返すが、終末の時代、リバイバルではなく、サバイバルなのだ。富井氏も「自分にはリバイバルを呼ぶ何かがあると思う」と言われているが、主にある怠惰を愛するDr.Luke的には「リバイバル音頭」の幻想はもう十分だろう、と思うのだ。

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1. この意味についても最近異論が出されているが、ここでは触れないで、「定められた異邦人がすべて救われるまで」と普通に解釈しておく。
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