「再臨は二回ある」と再建主義者-イエスは都合三回地上に来る?!
いつもの再建主義の富井氏の論。リンク先の彼の理解によると、再臨とは裁きを意味するようだ。
旧約世界への裁き→第1の再臨(紀元70年)→第1の新天新地 (現在の世界)
新約世界への裁き→第2の再臨(未来)→第2の新天新地(未来)この図式が理解できていないと、いろいろ頭の中で混乱が生じる。
マタイ24章、ペテロの手紙や黙示録19章までは、第1の再臨に関する預言である。これを第2の再臨と誤解しているところに、プレ・ミレの誤謬がある。
うーむ、一回目は旧約世界に対する裁き、二回目は新約世界に対する裁き。再臨が二回あるとするのは、再試験が二回あるようなものだと思うのだが。普通、それは再々試験と呼ぶのだ。聖書はこう証言している-
もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。・・・キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。-Heb 9:26-28
どこに三度来られるとあるのだろうか? この二度目とは再臨であることは明白であるが、富井氏は再臨が二回あると? つまりだ、キリストは都合三回地上に来られることになるのだ?! 一言、論理破綻[1] … Continue reading。
また彼がリンク先で触れている-
まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」(Matt 16:28)
イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」(Mark 9:1)
については、御国/神の国が到来するのを見る者がいるわけだが、これは再臨の時の事件ではない。それは変貌の山でおいて主がその栄光を現わされたときに成就した。もちろんヨハネ、ペテロ、ヤコブがそれを見た(Matt 17:1-5)。 また主はこうも言われている-
しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。-Matt 12:28
神の国はイエスがバプテスマを受けられたとき、天が裂けることにより地に介入した(Mark 1:10)。イエスはその事実をご自分の言葉とわざ、そして変貌によって証明したのだ。そして今もなお、私たちのうちに到来しつつあり、いずれ再臨とともに完全に現れる。その時に、主の御国が物理的に確立する。現在はその前味わい(foretaste)を経験しているのだ。だから、現在においては「天に御心がなるとおり、地にもなるように」と祈る必要がある。時系列の中にあるわれわれは、この三つの時制<has come>, <has been coming>,<will come>を常に意識する必要があるのだ。
tomi 2018/12/05(水) 08:54
パーシャルプレテリズムだけが正しい終末論である
1.
旧約律法において「清めは2度必要であり、2度目に完成する」とある。
その者は三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。
身のきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられる。その者は、衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方にはきよくなる。
あなたがたは七日間、宿営の外にとどまれ。あなたがたでも、あなたがたの捕虜でも、人を殺した者、あるいは刺し殺された者に触れた者はだれでも、三日目と七日目に罪の身をきよめなければならない。(民数記19・12、19、31・19)
世界も2度の清めが必要である。
イエスの第一回目の再臨(紀元70年)と、千年王国が終わり、大宣教命令が完成する第二回目の再臨において「全体が清くなる」。
第一回目の再臨では「旧約の世界」に審判が下り、第二回目の再臨では「新約の時代」に審判が下る。
世界の諸民族が弟子化され、キリスト教が世界を覆い、今のすべての民族がクリスチャンの民族に変わるまで、御霊はわれわれとともに働き続ける。
これから、世界は徐々にキリスト教の影響は拡大されていくだろう。
聖書に記されている大患難は、第一回目の再臨の前に実現した。
そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。(マタイ24・9)
この預言は「この時代に起きる」とイエスは明言された。つまり、大患難は紀元1世紀に成就した。
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マタイ24・34)
しかし、伝道に患難はつきものであり、われわれは第二の再臨まで戦い続けなければならない。
イエスはすでに「天地の一切の権威はわたしに与えられた」と宣言しておられるので、われわれの戦いは必ず勝利するように運命づけられている。
2.
フルプレテリズムは、第二の再臨を認めない。
紀元70年の再臨において「完全な新天新地」が到来したという。
つまり、われわれが今生きている時代が「完成された世界」だという。
パーシャルプレテリズムは、われわれが生きている時代は「完成された世界」ではなく、「戦いの時代」「千年王国」であるという。
なぜパーシャルプレテリズムが正しいのか。
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21・4)
「完成された世界」には「死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」からである。
もちろん、われわれはこのような世界には生きていない。
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。 ・・・
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20・12-15)
フルプレテリズムはこの最後の審判すらもすでに起きたという。
「悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」、「死とハデスとは、火の池に投げ込まれ」、「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」ということが紀元70年に起きたのだろうか。
では、なぜ、悪魔は働いているのだろうか。なぜ、われわれは死ぬのだろうか。なぜ今われわれの周りに無数の異教徒がいるのか。
彼らは火の池の中にいるのか?
フルプレテリズムの解釈では、死もサタンも異教徒も永遠にこの世界に、今のような状態で存在し続けると結論する以外にはなくなる。
パーシャルプレテリズムは、これらのことが、第二の再臨と最後の審判の後に起きると考える。
パーシャルプレテリズムでは、「悪魔は火の池に投げ込まれるので、永遠には活動し続けない」と考える。
しかし、フルプレテリズムでは、「永遠に活動し続ける」と考える。
つまり、「悪の永続性」を唱えることになる。
これは、ゾロアスター教やマニ教の「善悪二元論」と同様であり、聖書的ではない。
聖書では「永遠の世界が訪れる前に最後に審判が来る」と教えている。
悪魔は永遠には活動し続けることはなく、惑わしや誘惑が完全になくなる時が来ると。
リフォームドでは、フルプレテリズムは異端として扱われている。
パーシャルプレテリズムだけが正しい終末論である。
References
↑1 | 再度断っておくが、私はプレミレに立つが、それは今までのところプレミレを捨てる理由がないからだ。再建主義の主張を詳細に調べても、それを棄却するところまではいかない。もし今後、十分なるエビデンスが与えられれば、私もポストミレに変わるかもしれない。これは数理統計学的思考。すなわちある仮説を立てる。この否定の仮説(帰無仮説)を立てる。帰無仮説の上で今起きている事象の確率計算をして、それが5%未満のとき、帰無仮説を捨てる。これで危険率5%で当初の仮説を否定し得ないとするわけだ(これを「「統計的に5%の有意水準にある」と言う)。 私の仮説はプレミレ。帰無仮説はポストミレ(この際、ア・ミレは除いておく)。聖書と世界の諸現象からポストミレが成立する確率を推定すると、今のところきわめて低い。よって、なお判断ミスの危険(これを第一種の過誤と呼ぶ)はあることを承知の上で、プレミレは否定できないとしているのだ。これがサイエンティストの思考法なのだ。なお、第二種の過誤とは帰無仮説が間違っているのに棄却しない誤りのこと。 |
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