エネルギー源泉の切り替え-十字架はいのちの交換の場-

前回のメッセで「努力が必要」と言われたが、努力は不要とも言っているけど、これはどう理解すべきかとのお問い合わせがあった。明日のメッセで語る内容とちょうどかぶったので、その内容を少しだけ―

小池百合子の動機はすべて自己粉飾にあり、その根底には満たされていない基本的欲求が潜んでいる。マズローの五段階欲求は有名だが、もちろんこれに霊的欲求は含まれていない。まあ、あえて言えば、自己超越が相当するかもしれないが。

このチャートは借り物だが、下位の欲求が満たれていない場合、上位の社会的あるいは承認欲求をもって埋め合わせをしようとする。が、これはあくまでも外形のものであるゆえに、つねに取り繕いをせざるを得ない。

この根本的な欲求が満たされていない場合、それがコンプレックス(感情観念複合体)となり、その人の生きる動機あるいは動力となることがある。フラストレーションや憎しみをバネにする生き方である。それは常に取り繕いであるために、小池氏のように関係する人々とことごとくトラブルを起こし、真実な人間関係は築けない。

クリスチャンはアダム系のいのち(体-魂複合体)において死んだものであり、キリストと共なる復活により新しい霊のいのち(Zoe)をインヒュージョンされ、新しい霊的パワーの源泉が設置された存在である。

神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1Cor 15:10

「今日のわたしがある」とは”I am what I am”であり、テトス2:14(Titus 2:14)にある”peculiar”に対応する言葉である(☞われわれのアイデンティティーはI-AMの領域で定義される(テトス2章14節))。詳細はメッセにて。

さて、ここでパウロは「働いたのはわたしではなく、共にある神の恵みである」と証しする。「共にある」は”sun”であり、恵みは”charis”、ヘブル語では”chen”である。ピクトグラムはヘトはテント・壁の意味、ヌンは種・子孫・継続の意味である。すなわち恵みとは、テント(壁)の中で種が永続することである。

ポイントは何か。ガラテヤ2:20にあるとおり、生きているのはもはやわたしではなく、キリストである。今、肉にあって生きているわたしは御子のフェイスにあって生きるのである。この新しいエロヒム属の霊の中に聖霊によりYHWHが住まわれる(John 14:23)[1] … Continue reading

主は言われた、

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。-John 14:18-19

お分かりだろうか。ジーザスが生きるので私たちも生きる、つまり、私の古いアダム系のいのちのエネルギーによるのではなく、キリスト系の新しいいのちのエネルギーによって生きるのだ。ここにいのちの交換が行われる。その場が十字架である。

この時、聖霊の伝達されるYHWHエロヒムのいのちのエネルギーが私の生きる力の源泉となる。

それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ。-Jer 2:13

YHWHの力あるいはフォースには四種類があることは前にも語っている(☞Yahawehのフォースは4種類ある)。このフォースが私の生きる原動力となる。このフォースが私の霊の内から流れ出て、私の魂と体を通してアウトプットされる。これがクリスチャンのいわゆる働きとなるのだ。決してアダム系のいのちのパワーによるのではない。それはむしろYHWHの業を阻害する。

事実、ジーザス自身もそのようにして生きた。

わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。-John 14:12

彼は父を生きる原動力としてその業を行った。ゆえに-

つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。-Acts 10:38

彼はあくまでも人として振舞った。神として振舞ったのであれば、どうしてその業の理由を「神がご一緒だったから」と言えるのか。つまり彼の業は内なる聖霊による御父の働きの現出であったのだ。

御子は神のサブスタンスの現れであり(Heb 1:3)、神性が余すところなく形をとってそのうちに住んでいる(Col 2:9)。その方は今やいのちを与えれる霊として聖霊にあって私の内におられる(1Cor 15:45)。よって私たちエクレシアはキリストの充満である(Eph 1:23)[2] … Continue reading

かくして私たちの生きる原動力はいのちなるキリストそのものであり(Col 3:4)、キリストは御父の完全なる表現である(John 14:7)。私たちが「かみっさまのために何かをするとかしない」とかではない。私たちが「かみっさまの御心に従って生きるとか生きない」とかの問題でもない。生きる原動力が何かである(☞信仰と精神分析について)。

わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。-Phil 1:21

かくして私たちというテント(壁の中)において、撒かれた種であるキリストが増殖するのである。まことにエロヒムの増殖を増殖するとあるとおりである(Col 2:19)。

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1 聖霊が来られるとき、父と子が共に来られるのである。すなわち三一(Triune)なYHWHエロヒムが内住される。聖霊派が言うような聖霊様が地上におられるのではない。
2 邦語訳の「満ちている場・ところ」は誤訳であると繰り返している。充満そのものである。つまり、エクレシアとはキリストである。「たい焼きは餡子の充満」と言ったら、その皮ではなく、餡子がその実質であろう。いわゆる教会、ひいてはエクレシアに関する先入観が真理の理解を阻害する最たる例である。

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