究極の実在とは何か-知覚し得るものとし得ないもの-

我々が五感の領域で経験するあれこれ、それは何によって生み出されているのだろう。「あれこれ」とはアイオン(αἰών)、Strongによればこうある:

From the same as G104; properly an age; by extension perpetuity (also past); by implication the world; specifically (Jewish) a Messianic period (present or future): – age, course, eternal, (for) ever (-more), [n-]ever, (beginning of the, while the) world (began, without end). Compare G5550.

Vincentはこう解説している:

Lit. the ages. The world or worlds as the product of successive aeons.

つまりわれわれの時系列的経験、五感によって感知される諸事象を意味する。そしてヘブル書はアイオンは目に見えるものから生じるのではなく、見えないものから生じると証言する:

信仰によって、この世が神の言葉によって造られたこと、したがって見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解している。-Heb 11:3(岩波訳)

Through faith we understand that the worlds were framed by the word of God, so that things which are seen were not made of things which do appear. (KJV)

「言葉」はレーマ、「造られ」はフレーム化あるいはレンダー、すなわち五感の領域にあらしめるの意味(田川訳では「整える」)、「理解している」の原意はヌース(思い)により把握する、である。信仰という単語は不適切であるとすでに繰り返しているが、フェイスとは五感を超えたシックスセンスであり、スーパーナチュラルなスピリチュアル・パワーである。

現代量子論によると、量子は波動でもあり粒子でもある。ド・ブロイは物質は波であるとして、λ=h/mv=h/p (p=mv)とした。λは波長である。これを波動方程式に組み込むことによりシュレディンガー方程式が構成され、それは実験結果ときれいにフィットした。ところがその意味が問題となった。波動関数φとは何か。ボーアやアインシュタインとの論争の中で、それは粒子の発見確率を意味するとされた[1]φの絶対値の二乗|φ|2が確率密度関数を表すとするもの。。つまり波動は局所的実在としての波ではなく、確率分布という情報であるとするのだ。

これは局所的実在を否定するペル不等式の破れと言う形で証明されることになった。詳細は省略するが、二つの波動関数を共有する量子は距離に関係なく一方のスピンが決まると他方のスピンが決定してしまう。すなわち光速を超えて情報が伝達するという、相対性理論と合致しない現象の存在が証明されてしまったのだ。これをエンタグルメントと呼び、アインシュタインはspooky(不気味)な現象と呼んだ。

つまりこの量子は「五感で感知される時空間を超えて存在する何か」とするしかなくなるわけだ。このことを「局所的実在性が否定された」と言う。なんとも不思議ではないか。この世界を造る物質を分解していくと、分子→原子→電子・中性子・陽子→クオーク→弦となるのだが[2] … Continue reading、その電子などの量子は局所的実在ではない何かなのだ。では私たちの体はいったい何なのだ? 確かに五感によって知覚されているではないか、しかしその究極的構成要素は五感の領域を超える何かであるとは???

まさに「見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解」せざるを得ないのだ。それはレーマすなわち言葉すなわち情報がフレーム化したもの、あらしめられた(レンダーされた)ものなのだ。パワーポイントで投影された映像は、もとをただせば0と1の集合体、あるプロトコル(規則)に従って構成されたマトリックス、すわなち情報である。それがPCとプロジェクターによりフレーム化(レンダー)されたものである。0と1の集合体はわれわれはその意味をすぐには理解できないが、フレーム化(レンダー)されるとき、五感で感知し得る意味が生じるのだ。これと同じことをヘブル書は説いてる。

さらに、もっと原意に正確に訳すと

By faith we are apprehending the eons to adjust to a declaration of God, so that what is being observed has not come out of what is appearing.(CLV)

アイオンは神の宣言に適合するようにあらしめられるのだ。神の宣言とは語り出されたロゴス、ヘブル語ではダバー(dabar)、それは実質・実体そのものである。われわれが五感の領域で感覚/知覚して経験する事象はYHWHエロヒムの発出したロゴスそのものに適合するあり方とされたアイオンである。

そしてヘブル書は宣言する:

神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって(の中で)、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって(を通して)、もろもろの世界を造られた。 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質(ヒュポスタシス)の真の姿であって、その力ある言葉(レーマ)をもって万物を保っておられる。-Heb 1:1-3

御子とはYHWHエロヒムのロゴス(John 1:1)、すなわちダバー(dabar)、実質・実体である。ここで大切な点は、YHWHエロヒムは御子にあって語られた(アオリスト)ことである。すでに語られた(過去形)。つまりYHWHエロヒムは御子にあってすでに宣言されたのである。何を?

しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。-1Cor 2:9

五感では知覚できない、思いにも浮かばないことである。そしてそれは

なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって(あって)「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ(確立し)、油をそそいで下さったのは、神である。-2Cor 1:20-21

For as many promises as are of YAHWEH, in Him they are yes, and in Him are Amen, for glory to YAHWEH through us. But He confirming us and anointing us with you in Messiah is YAHWEH, even He having sealed us, and having given the earnest of the Spirit in our hearts.(HRB)

旧約において提示された神の約束はことごとくキリストにあって「アーメン」とされた。これは単に「アーメン」というセリフを唱えることではなく、その原意「アマン(אָמַן)」、すなわち「現わしむる・レンダーする」ことである。キリストこそはYHWHエロヒムの約束の成就された実体そのものなのだ。その方は死と復活を経ていのちを与える霊となられ(1Cor 15:45)、われわれのうちに聖霊により内住され、われわれもその方にあって確立される。

キリストの内に〔こそ〕神性の全き充満が形態化して宿っており、あなたがたはキリスト-すなわちあらゆる支配と権威の頭-にあって満々と満たされているのだから。-Col 2:9-10(岩波訳)

For in Him the whole fullness of Deity (the Godhead) continues to dwell in bodily form [giving complete expression of the divine nature]. And you[f] are in Him, made full and having come to fullness of life [in Christ you too are filled with the Godhead—Father, Son and Holy Spirit—and reach full spiritual stature]. And He is the Head of all rule and authority [of every angelic principality and power]. (Amplified)

ここの[f]の注としてVincentはこう説いている:

Rev., made full…. Not, ye are made full in Him, but ye are in Him, made full. In Him dwells the fullness; being in Him, ye are filled.

YHWHエロヒムの充満であるキリストが内住されるゆえに、われわれもその方の充満とされているのだ。詳訳ではこう訳されている:

というのは、彼のうちにこそ神性の全充満<神という方>が肉体の形をもっていつまでも宿られる<神性の完全な表現がなされている>からです。そしてあなたがたは彼のうちにあり、満ち満ちた者とされる<満ち満ちたいのちになる>のです<<キリストにあってあなたがたもまた、神、すなわち父、子、聖霊に満たされ、霊的に完全な身たけに達するのです>>。また、彼は、すべての支配と権威<あらゆる天使的主権と力>のかしらです。

かくしてわれわれを通してその神のすべての約束が「アーメン」とされる、つまり実体化されるのだ。キリストがなされたことをわれわれも再現、あるいは追体験するのである。ゆえに主は言われた:

わたしを信じる者はわたしのわざをなし、さらに大いなる業をなす。わたしが父のもとに行くからである。-John 14:12

ジーザスは父の元に行かれ聖霊をわれわれに注がれた。そしてその内住の聖霊はキリストの御霊としてわたしたちのいのちとして充満する。キリストの御霊はわたしたちの霊から魂へと浸透し(ペネトレーション)、わたしたちの魂をキリストの魂の形へと再構成し、死ぬべき体にすらいのちを与え、われわれはキリストの再現となる。われわれのうちにキリストが構成(モルフォー)されるのだ(Gal 4:19)。ゆえに―

この教会(エクレシア)はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているもの(Gk.充満)に、ほかならない。-Eph 1:23(口語訳)

新改訳などにあるように満ちておられる「場所」とか「ところ」ではない(口語訳はまだ良心的に訳している)。充満そのものがエクレシアである(岩波訳では正確に訳されている)。すなわちキリストである。われわれの体と魂はいわばガンダムスーツ、それは本質ではなく、キリストの充満そのものがエクレシアなのだ。白いキリスト教の神学などは捨てよ!

お分かりだろうか? YHWHエロヒムはご自身のいのちをまずキリストにあって実体化し、この五感の領域にあって現わされた。キリストは死と復活をとおしていのちを与える霊となられ、物理的存在に拘束されない霊としてわたしたちのうちに時空間を超えて内在される。そのキリストの成就されたすべてが五感の領域にある私たちの体と魂をとおして再現されるのだ。これがエロヒムをエミュレートすることであり(Eph 5:1)、その増殖である(Col 2:19)。

エロヒムの成長(増殖)を成長(増殖)する。-Col 2:19(原意、田川訳と岩波訳は正確)

かくして地上においても天になるとおり御旨(=五感で知覚できない意志のサブスタンス)が現出するのだ(=実体化されて知覚されるリアリティーとなる)。天には罪も病も貧困もトラブルもない! われわれはそのリアリティーを<今・ここで>享受する。フェイスはそのサブスタンスであり、エビデンスである(Heb 11:1)。それは永遠のNOW体験。PTL✨

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1 φの絶対値の二乗|φ|2が確率密度関数を表すとするもの。
2 この万物の素は「弦の振動(バイブレーション)」であるとする超弦理論が詩編19編に示唆されている。その響き(バイブレーション)は全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶとある(詩編19:1-5)。さらに創世記1:2の神の霊が水の表を動いていたの原意は「バイブレートしていた」である。

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