
FBで過去記事とある方のウォールからの拾い物を紹介しておこう。ボクシの専売特許、「悔い改めよ~」。これが曲者。ニッポンキリスト教の心気臭さはこの「悔い改め」に源があるのだ。
ハイ、わが愛車の「病気」でした。突如、エンジンルームから異音が響き出して、AUTOBACSで診てもらったら、絶望的な診断を貰った次第。要するにAUTOBACSでは手の打ちようがないと言うこと!
これがね、しばしば医療の場面でもあるわけ。嗚呼、ステージIV、もうダメだぁ、とね( ゚Д゚)
要するに言葉のトリック、聴いた言葉をそのまま受け入れてはならないのだ。所詮、人間の言葉。それを受け入れて、同意すると、アダム系マインドのマトリックスにスイッチが入る。で、出てくる回答はしばしばネガティブ。
しかし、私たちはキリストのマインドを持っている(1コリント2:16、これもキリストの「心」は誤訳!)。キリストのマインドがオンするとき、絶望や恐れなどはあり得ない。医者には不可能でもジーザスには可能。
あなたのマインドにキリストのマインドがエミュレートされるようになるのだ。かくしてマインドのメタモルフォーシス(トランスフォーメーション)が鍵となる(ローマ12:2)。
ちなみにわが愛車は20万キロのツワモノ。4WD、V6、3リッター。燃費は市街地で5キロ/㍑。とにかくキビキビとどこにでも行けてしまう(前のトーラスはデカくて不便だった)。写真は色違いの同型車(私のはシルバーメタ)。ハハ、もうカミさんと同じだね
・・・で、本日、無事退院しました。(了)
要するにマインドの使い方が間違っているわけ。この世にアダム系として生み出された古い私たちは自ずと世の価値観や考え方が刷り込まれる(心理学的にはオペラント条件付け)。これに従ったマインドの使い方が諸々の罪(sins)を産み出す。
そこで「悔い改めよ~」とやるわけだが、この原語である”metanoia”は、”meta”+”noieo”。”meta”の意味は「超」とか「高次」とか、いろいろあるが、「共に」や「伴って」の意味がある。”noieo”は”nous”からの派生で、その意味は「マインドを使う」だ。つまり「高次の、伴ったマインドを使う」ことである。簡単に言えば、高次のYWHWのマインドに共に・伴ってマインドを使うこと。そこで自分から主へと「マインドの向きを変える」ことになる。そこでDr.Lukeとしては思い改めとしよう。
ちなみにヘブル語ではこうある-

かくしてStrongによれば、メタノアイアとは
metanoeō
met-an-o-eh’-o
From G3326 and G3539; to think differently or afterwards, that is, reconsider (morally to feel compunction): – repent.
つまり、”repent”とは「悔い」て「改める」などの意味はまったくない。悔いたところで何も変化しないことはクルシチャンたちを見てれば分かることだ。思いを主の思いに沿わせて今までは異なる考え方をすることである。このときに、罪をも自覚するが、それは決して罪責感や悔いるものではない。聖霊が私たちのもろもろの罪をconvictionするとき[1]codemnationではないから注意すること。codemnattionは罪定めであり、サタンの得意なお仕事である。、私たちは実に客観的に自分の罪と向かい合うことできる。そして聖霊はすでにそれは十字架の血潮で洗い流されていること、つまり主の前では実質的にないことを確証される。
For sorrow according to God is producing repentance for unregretted salvation, yet the sorrow of the world is producing death.-2Cor 7:10 (CLV)
神に従った悲しみは悔いる必要のない救いのためのメタノイアを生み出し、世の悲しみは死をもたらすのだ。メタイノは思いを神に従わせることにより、いわゆる悔いる必要がないことは明白であろう。つまりすでにすべての罪々は血によって洗われ、清められていることを実体化する、いわばチャネルがメタノイアである。
この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。-Heb 10:10
すべての根拠はキリストの体がただ一度ささげられたことによる。私たちの何かには一切よらないのだ。ウォッチマン・ニーも、いわゆる内省や反省や自責は不毛であると言っている。それは自分の何かで自分を神に受け入れさせようとするアガキであり、自己救済の努力である。それらにより苦しむ、私の言うクルシチャンは延々とセルフのマトリックスの中で空転して消耗する。
ゆえにパウロはこう勧める-
そしてあなたがたは、この世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって、形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであり、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2(岩波訳)
「形作り直され」すなわち「再構成」とはメタモルフォーシス。meta+morphooである。ここにもmeta(=沿って)、morphoo(=構成・形成される)の意味である。サブコンシャスのレベルから聖霊は私たちのマインドを再構成してくださるのだ。これにより神の御心を知覚することができるようになる。
思いの霊において新たにされ・・・。-Eph 4:23(原語)
思い(nous)の中に霊(spirit)がペネトレイト(浸透)し、再構成されることだ。
思いの表層で「われはナニを信ず~」とか、正統なナントカ神学やカントカ主義を唱えることではない。それは生命現象である。
蝶の幼虫はさなぎの中で一度どろどろに溶ける。そして新しく再構成、すなわちメタモルフォーシス(変態)され、あのまったく形状の異なる蝶へと変貌するのだ[2]ちなみに山での主の変貌もメタモルフォーシスである。。われわれも次のように約束されている-
愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。-1John 3:1
ここの「似る」とある原語は”homoios”、つまり性質と形態において似る存在である。Net Bibleではふたつの理解ができるとして次のように解説している-
(1) believers will really become more like God than they now are, and will do this through seeing God as he really is; or (2) believers will realize that they are already like God, but did not realize it until they see him as he is.
要するにキリストにおいて現れたYWHWのご性質と御心が、われわれにおいて再現するのだ。
私たちニュークリーチャーはすでにキリストのマインドを持っている(1Cor 2:16)。それをアクティヴにすること、それがフェイス。その過程はマインドにスピリットがペネトレイトすることによってトランスフォームされつつ進行する。その時、DNAさえもその傷が修復される(エピジェネティクス)。その入り口がメタノイアである。罪意識から義意識への転換こそ福音である。
For in it God’s righteousness is being revealed, out of faith for faith, according as it is written: “Now the just one by faith shall be living.”-Rom 1:17 (CLV)
なぜなら、神の義はその中で、信から信へと啓示されるからである。「義人は信から生きるであろう」と書いてあるように。(同、田川訳)
もっともらしくしかめっ面をながら、わたしは罪深い人間です・・・とやってる偽善者どもに騙されることなかれ。エクレシアはすでにニュークリーチャー、キリストの充満である(Eph 1:23)[3]繰り返すが、満ちておられる「ところ・場」ではない。充満そのものである!。