霊のいのちのフローを楽しめ

トランスクリプト

フローな状態。それは努力せずに努力がなされる。つまり自分の意志の力とは関係なく、物事が成し遂げられる状態である。意識が何ものにも執着することなく、さらさらと流れている状態。人の苦しみは心が何かに粘着あるいは固着することにより生まれる。そこで信心銘にいわく、

至道無難、唯嫌揀択

それが揀択(ケンジャク)。道を究め、難を逃れるには、ただ事の善悪や損得を離れること。何物にも心を留めないことだという意味。主も言われる、野の花を見よ、空の鳥を見よ、彼らは何も努力せずとも天の父が着飾り、養ってくださっている、と。アダムは善と悪を知ったことがその罪の本質だったのだ。

神の栄光に与ること。それは善悪を知る知識の木の路線ではなく、いのちの木の路線に跳躍すること。神のエコノミーの鍵はいのちにある。このいのちの次元の理解と経験がないと、あのややこしい不毛な神学論争に落ちるわけです。ナチュラルな五感の領域とスーパーナチュラルな霊の領域にイエシュアというポータルを通して出入りする経験である。


私たちの召しは失っていた神の栄光に与ること。私たちの務めはこのいのちを流し出すこと。ガリラヤ湖のように水が流れ込み、それが流れ出ること。この霊的いのちのフローが滞ると死海と化します。かくしてクリスチャンが煮詰まってしまい、死海のように硫黄の悪臭を放ちます。腐ったクリスチャンは不信仰の者たちより扱い難くなります。塩気を失った者は人に踏みつけにされ、しかも自分がいかなる状態にあるかも分からなくなり、ただ悪臭を放ちます。かくして死海のように自分の中での堂々巡りで妄想と欲求不満だけを膨らませるわけです。

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川々(複数形)となって流れ出るようになる。-John 7:38

ニッポンキ業界の聖霊派のように、「聖霊様の充満~、油注ぎ~」ってヒスるのはやめよ。主のわざはインサイド・アウト。うちなるいのちの流れが私たちを通して溢れ流れ出ることだ。

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