YHWHの計画は種族(genos)を転換すること

いわゆるキリスト教の「福音」は、「人が高価で尊いから、罪のために滅びゆくことを惜しんだ神様が自ら人となって人類の罪を背負って十字架で死んでくださったことを信じれば、地獄から救われて天国に行ける」とするものだ。まあ、間違ってはいないが幼稚園レベルではある。

YHWHエロヒムの当初の意図は創世記に記されている:人をわれわれの型(phantom)と様(likeness)に創造しよう(Gen 1:26)。ところが続く節は「神は御自分にかたどって人を創造された」(Gen 1:27)。つまり「様」が抜けている。「型」は外形、ちょうど手袋のようなもの。「様」はいわば実質たる手である。それはYHWHの被受造のいのちである「いのちの木の実」を摂ることで成就したはずである。が、サタンは先回りして「善と悪を知る知識の木の実」を人のうちに内在化させた。そしていのちの木への道は閉鎖された(Gen 3:24)。

Dr.Heiserは、人は地上におけるYHWHエロヒムの”imager”であると言う。つまり霊なるYHWHエロヒムを地上において表現する存在である。しかし現在、人類はサタンの何かを表現する傾向が強いことは否定できないであろう。なぜか? 内実たるYHWHエロヒムのいのち(Zoe)を欠いているからである。このいのちを欠いたまま、アイオーンやストケイアなどの霊的エンティティの影響を受けつつ(Gal 4:3;Col 2:20)、いわば手袋が勝手に振る舞っている人類がアダム系人類である(1Cor 15:22)。

YHWHエロヒムは内実を欠いたままの人類にご自身のいのちを分与するために、その第二位のロゴスたるお方が肉体を取られ、罪という障害を十字架で処理され、ご自身が道となられていのちの木へのアクセスを可能とし、死と復活を経て肉体に制限されないいのちを与える霊となられ(1Cor 15:45)、聖霊により信じる者たちのうちに生きて下さる(2Cor 13:5)。そのために私たちの霊を新たに生まれさせ(John 3:6;1John 5:1)、ご自分の霊を分けてくださった(1John 4:13)。

神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。-Tit 3:5

Not by works of righteousness which we have done, but according to his mercy he saved us, by the washing of regeneration, and renewing of the Holy Ghost; –ibid

“washing”とは”loutron”、その意味は”bath”であり、バプテスマを象徴する;”regeneration”は”paliggenesia”、その意味は”spiritual rebirth”,”spiritual renovation”;”renewing”は”anakainōsis”、その意味は”renovation”である(Strong)。つまりここでスピリチュアルないのちの転換が起きたのだ。種族(genos)の転換である。このうちなる霊がリノベーションされ、YHWHエロヒムが内住する存在こそが、新創造(2Cor 5:17;Gal 6:15)、新人類(Eph 2:15)、ニュークリーチャーであるキリスト系人類エロヒム属である。これによりYHWHエロヒムの当初の意図であった「型」と「様」を得ることができたのだ。

YHWHエロヒムのご計画とは、ご自身のいのちの増殖である。麦が撒かれたら麦が増殖するように、キリストが撒かれたらキリストが増殖するのだ。対してキリスト教なる宗教では罪赦された罪人が増殖する。事実、コロサイ2章19節の原文は「神(=エロヒム)の成長(増殖)を成長(増殖)する」であることは前にも指摘している(われわれがYHWH(父・子・聖霊)になることではない)。田川訳や岩波訳は正確であるが、他の邦訳のように意訳してはならない。それはアダム系からキリスト系へのいのちの転換であり、キリストのいのちの増殖、拡大、そして支配である。

キリストがあなたがたの内に形づくられる-Gal 4:19

アダムの違反により世に罪が入り、全人類には死が入り、アダムの違反と同じ罪を犯さなかった人も死には支配され、死に支配された全人類は主の目には罪を犯したものとされる(Rom 5:12-21)。

つまり罪に抗するためには死を支配すればよい。それが可能となるのは死に打ち勝ったキリストのいのちを得ることである。その時、私はアダムにあって罪人とされたように、キリストのうちに植えられる(sumphutos,Rom 6:5)ことにより義人とされる。これは自動的である。ここでのポイントは<善か悪か>ではなく、<いのちか死か>である。創世記の初めから啓示録に至るまで、死の道(=善と悪を知る木)といのちの道(=いのちの木)の選択が人類の前には置かれている。新天新地に至り、ついにいのちの木のみの世界が展開する(Rev 21:1-5)。

十字架とは端的に言えば、いのちの交換の手段であり、場であり、根拠である。いわゆる宗教の十字架を負わされることないようにと前にも指摘している。宗教はすべからく<善か悪か>を迫るが、真理は<いのちか死か>を提示する。この十字架を通して私たちには次の聖句が成就する-

自らに備わった栄光と卓越した力(dunamis)によって私たちを召された方を、私たちが知ることにより(epignosis)、イエスの神的な力が私たちに生命と敬虔についてのすべてのことを与えている。この栄光と卓越した力によって、私たちには貴い偉大な約束が与えられている。それは、これらにより、あなたがたが、この世界がもたらす、そして欲望がもたらす滅びから逃れて、〔イエスの〕神的な本性に参与するようになるためである。-2Pet 1:3-4(岩波訳)

この神的な本性と約された原語は”phusis”であり、その意味は”growth (by germination or expansion),extension a genus or sort”、つまり「発芽や拡張、種族や種類の拡大」である(Strong)。その語源をたどると”phuo”、すなわち”to “puff” or blow, that is, to swell up; but only used in the implied sense, to germinate or grow (sprout, produce)”。要するに「拡大し、発芽し、成長すること」であり、上のロマ書6:5における”sumphutos”、つまり”planted together”、「共に植え込まれる」ことである。われわれはキリストのうちにインプラントされたことにより、神性の充満たるキリストの属性をすべて得て、享受する。エクレシアとはキリストの充満(Eph 1:23)。よって、われわれのうちには神性が充満しているのだ。

かくして十字架は新しいSeed(種;DNA)を植え込まれ、Genos(種族)を転換される場、閉ざされたいのちの木への道、自由と解放と喜びと平安と繁栄への道である。宗教の十字架を負わされることなきように。欺かれない者は幸いである。

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