本日の一冊:『日本思想史マトリックス』

茂木さんの本書、実におもしろい。文系独特のスパゲッティ状態をクリアカットに解きほぐしてモデル化している。

いわゆるアニミズムの精霊信仰的(ジブリの世界)な日本に仏教なる絢爛豪華なる宗教が伝来し、いわゆる記紀の神々と争いが起きた。これをうまく調停したのが聖徳太子。これで神仏混交が起きた。

さらに天皇の位置づけを決めたのも彼だ。天皇は祭司であり、政治力は有しないの立場、つまり権威を有するが権力は持たない存在だ。これで二千年に渡って継続しているわけ。

仏教もそもそもは礼拝対象などは持たず、その意味で宗教ではなく、現実認識論だった。釈迦自身、自分は人間であり、礼拝対象ではないと言っていたのだが、徐々に変質し、釈迦を、その他ナントカ仏を拝み、ついに死者を拝み、先祖を拝むようになった(これは私論)。

この日本古来の神々と外来の仏の相克が日本の歴史上、本地垂迹説(仏>神)から神本仏迹(神>仏)と推移してきた。諏訪では縄文のミシャグジ様と出雲から逃げて来た弥生のタケミナカタ神が同居しており、ついに神と仏がコラボした神宮寺なるものもできたわけ。この意味で諏訪は日本の象徴的な存在である。

極私的に言えば、茂木さんの解説もやや訂正しておきたい。

日本の記紀の「神々」はYHWHエロヒムではないが、エロヒムの一種ではある。聖書は「一神教」と言われるがそれは違う。マルチ・エロヒムの世界である(エロヒム自体が複数形だが)。つまり日本の神々は日本に配置されたエロヒムと言える。

そもそもYHWHエロヒムをして「神」とする訳が不適なのだ。ちなみに英語のGodはバビロニアの神名である。ニッポンキ業界のボクシたちの「かみっさまわ~」チャント、これをメタイノアする必要がある。ニッポンキ業界には神を創造主とか造物主とか置き換えた聖書もあるようだが、これも不適。「名を名乗れ」と言いたい。というわけで聖書の神がホンモノであなたがたの神は偽物だ、とすることはハマルティアなのだ。

「名は体を現す」とあるとおり、われわれはイエシュアの御名を唱えるべきなのだ(1Cor 1:2)。なぜならイエシュアは御名を現わされ(John 17:6)、イエシュアとは「YHWHがわが救い」と言う意味であるから。「聖霊様~」とか「かみっさま~」とかチャントするのはハマルティアと知るべきである。

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