神のようになるふたつの道-いのちの木と知識の木-

いわゆる白いキリスト教では、創世記3章の誘惑の本質を「人が神のようになれる」とそそのかしたことであるとします。よって、神のようになりたいこと自体が罪とされるのです。

しかし、YHWHエロヒムは、他の動植物は「種に従って」創造されましたが(Gen 1:21)、人は「ご自身の型と様にしたがって」創造しようと言われ(Gen 1:26)、実際は「型にしたがって」創造されました(Gen 1:27)。「様」はどうしたのでしょう?

ここでいのちの木の意味が浮上します。それは被受造のYHWHエロヒムご自身のいのちを象徴します。つまりこの木の実を食べていれば、内実としてYHWHエロヒムご自身の「様」を得ることができたのです[1] … Continue reading。ポイントは、神のようになる道(方法)の選択です!

そうです、いのちの木の実を得ていれば、YHWHエロヒムの意図に従って人は神のよう(様)になれたのです! アンドリュー・マーレーはこの経緯を次のように説いております。


『キリストの御霊』第9章からの引用

楽園において神のようになるべきふたつの道が人の前に置かれていました。それら二つの道は、二つの木に象徴されていました。いのちの木と知識の木です。神の道は前者であって、いのちを通して知識と神の像がもたらされます。神の御心の内におり、神のいのちにあずかって、人は完成されるべきものでした。

ところがサタンは、他のの道にそそのかして、知識こそ神のようになるために慕うべきものだと思わせました。そして人が服従によるいのちのよりも知識の光の方を求めたときに、恐ろしい死に至る道に入ったのでした。知ろうとする願望は人の最大の誘惑となり、その性質のすべては腐敗し、知識は人にとって、服従よりもいのちよりももっとまさったものと思われるようになりました。

霊的真理でさえも御霊のいのちによらず、人間の知恵によって保持するとき、その力は奪い去られてしまうのです。真理が神の望んでおられるように、人間のうちなる心にはいってくる場合は、そこで霊のいのちとなるのです。

しかし、それが心の外面的な部分、つまり知能とか理性にだけ達し、そこにとどまってしまうと、真理はもてあそばれて慰み物となり、そこから出てくるものとは、人の議論と想像にとどまり、決して霊のいのちにまでは届かないのです。そこにあるのは神の真理の影に過ぎず、人間的な理解や感情に屈するたぐいのものです。・・・真理の影と形と理想だけなら律法からも与えられます。ユダヤ人の宗教がつまりそれだったのです。

実質の真理、神のいのちとしての真理は恵みとまことに満ちていたひとり子イエスがもたらしたものです。イエスご自身が真理なのです。

私たちの主は、聖霊をご自分の弟子たちに約束されたとき、それを真理の御霊と呼びました。この真理、イエスご自身であり、また私たちに与えるために天から携えてきた霊的実体である真理と恵みといのちとは、神の霊の中にその存在を保っていたのです。聖霊こそ神の真理の内的生命である霊であって、私たちが聖霊を受け、聖霊にゆだねるに応じて、聖霊はキリストと神のいのちを私たちのうちに、真理として現実に現わしてくださいます。・・・聖霊は私たちのいのちの隠れた根源に入ってきて、神の真理を種としてそこに植え付け、神のいのちとしてそこにお住みになるのです。

 そこで信仰と期待と明け渡しの中に、この隠れたいのちは抱かれ養われ、いよいよ成長してその全存在を通じて枝を広げるようになります。こうして外からではなく内から、ことばによってではなく力といのちと真理によって、聖霊はキリストと聖霊みずからが持っているすべてのものを私たちに啓示します。聖霊は私たちにとって一つの映像、一つの思想、外にあり、しかも上にある救い主に過ぎなかったキリストを、私たちのうちにある真理としてくださるのです。

聖霊は、まず思想や感情に語りかけるのではなく、人の心の内奥、人の霊の奥底に語りかけるのです。その教えは、ただ信仰によってのみ認めることができるものです。

そして真理の御霊をうちに持っているという確信は、私たちのうちにキリストの像を形づくらせ、私たちを主の啓示してくださるいよいよ深い真理の悟りに至らせることでしょう。


このようにして私たちは神の栄光の反映であり、その本質の姿である御子(Heb 1:2)の形へと同型化されていきます。

愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。-1John 3:1

ここで創世記をおさらいしておきましょう。YHWHエロヒムは人を創造された後、園のすべての木から取って食べて良いと言われました。その木々についてはこう言われております:

また主なる神は、見て美しく食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。-Gen 2:9

食べて良い木の性質は、見て美しく、食べるに良い、です。一方、禁じられた知識の木は人がYHWHエロヒムとは関係なく善と悪を知ることができるものであり、

女がその木を見ると、それは食べるに良く目には美しく賢くなるには好ましいと思われた-Gen 3:6

お分かりでしょうか? 許された木々にない性質があります:賢くなるには好ましい。もっと分かり易く言えば、esirable to make one wise、つまりを人をして賢くしてくれる木だったのです。これが許された他の木々と異なる点でした。

賢くなりたい! この欲求は人類普遍の欲求であり、知識を求め続けて、現代ではDNAを操作し、新しい生命すら生み出せる可能性があり、踏み込んではならない領域に入ってしまった感があります。

ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう。-Dan 12:4

この言葉とは「預言の言葉」のことですが、同じことを人類は人文科学、社会科学、自然科学の各領域で行っていることは誰しも容易に理解できるでしょう。終わりの時代には知識が増大するのです! まさに現代はその臨界点に来ていると感じざるを得ません。まさに知識により神のようになる模索です[2]これが「トランスヒューマニズム」であり、ハラリ氏の言う「ホモ・デウス」です。

しかしYHWHエロヒムの道はいのちの木にあって、うちにYHWHエロヒムの形(アイコン)である人となられた御子が人間生活をすべて経験され、その経験の記憶を持つ聖霊、つまり神人の霊である御霊が私たちのうちに内住され、御言葉(ロゴス)が内在化されることによって、私たち(の霊)はエロヒムとなるのです(John 10:35)。これがYHWHエロヒムの当初の意図でした。

サタンは主の意図を理解すると必ず先回りをしてフェイクをもって主のご計画の疎外を図ります。善悪を知る知識の木はそのためにもちいられたのです。しかるに私たちの判断基準はこの木によるのではなく、いのちの感覚によるのです。

しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。-Heb 5:14

感覚はいのちから生み出されます。そしてこの霊の感覚は聖霊の感覚であり、それはすなわち御子の感覚、すなわち御父の感覚にほかなりません。こうしてYHWHエロヒムの判断が私たちのうちに実体化されるのです。この御霊の与える霊の感覚によって生きることこそ、いのちの木による歩みなのです。

このようにYHWHエロヒムのいのちが成長、増殖することこそ、当初のYHWHエロヒムのご計画でした。こうして地上においてご自身の像(イメージャー)であるYHWH家の家族たるエロヒム属が増え広がるのです。

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1 アダムの違反により、この木に至る道は閉鎖されました。後にアブラハムに「女の種(単数形)」の約束が与えられ、もちろんそれはキリストですが、キリストが贖いの御業により閉鎖された道を開いてくださったのです。
2 これが「トランスヒューマニズム」であり、ハラリ氏の言う「ホモ・デウス」です。

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