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Dr.Luke的日々のココロ
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TODAY’S CELEBRATION Sep 04, 2022:YHWHをエミュレートする-レビ系からメルキゼデク系への相転換
ワクチンの規制に引っかかり、YouTubeは削除されましたので …
ワクチンの規制に引っかかり、YouTubeは削除されましたので、サイトから配信します。
- 引用聖句:Eph 5:1;1Cor 6:20;Rom 6:5;8:16;9:1;Jas 2:22-23;Eph 4:16;5:30-31;1Cor 12:12 etc.
- 次回:2022年9月11日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-15:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

私たちはエロヒムだと語っている[1] … Continue reading。多分にキリスト教神学のオツムにとっては挑発的だろうと思う。このメッセを聞いて、私の言質を取ったとし、批判や非難、さらに中傷を始めるむきもあろうと思う[2] … Continue reading。が、私は聖書の言葉をそのまま語っているだけだ。今更ながらニッポンキリスト教を相手にするつもりはないが、心ある人々のために一言。
そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々(エロヒム)である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々(エロヒム)』と言われている[3]原語では「エロヒム」である。。そして、聖書が廃れることはありえない。・・・」-John 10:34-35
神に愛される子として神をエミュレートする者となりなさい。-Eph 5:1
私にとって、生きるとはキリストであり・・・。-Phil 1:21
エクレシアはキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の充満です[4]満たしている「場所・ところ」ではない。充満(プレローマ)である。岩波訳では「この方」はキリストを指しているとしている。。-Eph 1:21
See? 私たちはキリストのいのちの霊を吹き込まれた新しい創造、新生命体、ニュークリーチャー。それはキリストの充満であるエクレシア。よく読んでほしい<エクレシア=キリストの充満>。<エクレシア=召し出された者たち(われわれ)>。ならば、<われわれ=キリストの充満>。われわれとは誰か? キリストの充満である![5]キリストがわれわれの中で生きられ、われわれを通して生かし出されるのだ。これがエミュレーションである。 キリストとは誰か? 神であり人であるお方。
エペソ5:1もよく「神に倣う者となれ」と訳される。神をマネする? できるわけなかろう! それはサルがニンゲンのマネをするようなもの、いのちのレベルが異なるのだ。キリスト教徒が神のマネをする。これこそ滑稽であろう。この単語は”mimétés”、語源は”mimeomai”。その意味は”imitate”あるいは”emulate”。ここでは前者よりも後者がよい。神をエミュレートせよ、と言うわけ。
この節の「子として」についてStrongは次のように指摘する:
a child (as produced): – child, daughter, son.
つまり生み出された子である。
御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。-James 1:18
イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。-1John 5:1
神はアダム系の私たちをキリストと共に終わらせ、復活させた。聖霊によるいのちを吹き込まれた。私たちの霊は神から生まれた神属(エロヒム)の霊。
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。-1John 4:13
それは罪を決して犯さない。かくして私たちは新創造とされた(☞エロヒム属の誕生)。はあ? 自分は自分で何も変わっていないですが・・・。こう言う人は騙されている、自分の感覚によって。感覚ではなく御言葉に書いてあることが真理。
メッセでも語ったが、これはちょうど、Windows用のPCにおいてMacのiOSを走らせるようなもの。これをエミュレーション(Emulation)と言う。ハードウエアはWindowsだが、中身はMac。まさにWindowsマシンがMacを体現している。これと同じことが私たちにおいて起きているのだ。
われわれのボディと魂(Soul)はアダム系にあって生まれた。その存在に神は聖霊にあるキリストの復活のいのちを吹き込まれ、私たちの中でキリストが生きる(Gal 2:20)。つまりキリストをエミュレートするのだ。そのキリストのうちには父が生きており、ジーザスは人であったが、父なる神の言葉を語り、父なる神のわざをなされた。ジーザスご自身が父なる神をエミュレートしたのだ。ゆえに、わたしを見た者は父を見たと宣言された。
神が肉において現出されること―これが「Godlinessの奥義(1Tim 3:16)」。ジーザスはそれをデモンストレーションされた。同じことが私たちにもできると言われる。
わたしを信じる者はわたしと同じわざをなし、それよりも大いなるわざをする。わたしが父の元に行くからである。-John 14:2
神は人間性において表現される。なぜ? 人は神の形に創造されたゆえに。人はその実質として内に神を生かす、あるいは神をインストールされるべき存在。そして人間性において神がエミュレーションされるのだ。もっと言えば、ジーザスは父のコピー、エクレシアはジーザスのコピーである。こうして神は人間性において自己増殖されるのだ。
言ってみれば、世の者ではないジーザスがわれわれのうちにインプラントされ、われわれも世の者ではない存在とされた。すなわちエイリアンとしてこの地球上において自己増殖する。こうしてサタンが不法占拠しているこの地上において神の国を増殖、繁栄させるのだ。しかもこうある:
神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-Heb 4:3
ここも天地の基が置かれたとき、それはすなわち受胎したときであり、その時にすべては完成していた。これが時空間の時系列に現出しているだけ。その完成されたみわざに休むこと。これがフェイスである。罪の赦し、病の癒し、必要の満たし、そして勝利など、すべては安息にある。だから安息の神をエミュレートせよと奨められているのだ。
ジーザスはこのミケランジェロの絵の指先のギャップを埋めてくれたのだ!
References[+]
↑1 | ここで重要なのはエロヒムの定義である。これを「神々」と訳すのが罠となる。エルの複数形であるが、これを白いキリスト教は創造主なるYHWHと同一視してきた。が、Dr.Heiserが指摘したように、エロヒムはその他にもいくらでも存在する。それは霊的生命体の総称と言うべきである。もちろんそれを創造したのは最も高きエロヒムであるYHWH。この存在がキリスト教神学で言う三位一体のいわゆる神である。 |
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↑2 | この啓示はサタンがもっとも隠しておきたいこと。だから彼は聖書をしてキリスト教の教典に貶め、エクレシアをキリスト教なる宗教に幽閉している。中傷する者たちは哀れにも告発する者サタンの霊によりドライブされている。その根底にはサタンの嫉妬がある。なぜ? サタンは自分が最も高き存在(神)になりたかったからである。 |
↑3 | 原語では「エロヒム」である。 |
↑4 | 満たしている「場所・ところ」ではない。充満(プレローマ)である。岩波訳では「この方」はキリストを指しているとしている。 |
↑5 | キリストがわれわれの中で生きられ、われわれを通して生かし出されるのだ。これがエミュレーションである。 |

私たちは神々だ、と今回のメッセで語った。多分にキリスト教神学のオツムにとっては挑発的だろうと思う。が、私は聖書の言葉をそのまま語っているだけだ。今更ながらニッポンキリスト教を相手にするつもりはないが、心ある人々のために一言。
そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。・・・」-John 10:34-35
神をエミュレートする者となりなさい。-Eph 5:1
私にとって、生きるとはキリストであり・・・。-Phil 1:21
エクレシアはキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の充満です。-Eph 1:21
See? 私たちはキリストのいのちの霊を吹き込まれた新しい創造、新生命体、ニュークリーチャー。それはキリストの充満であるエクレシア。よく読んでほしい<エクレシア=キリストの充満>。<エクレシア=召し出された者たち>、<召し出された者たち=われわれ>。ならば、<われわれ=キリストの充満>。われわれとは誰か? キリストの充満である!
エペソ5:1もよく「神に倣う者となれ」と訳される。神をマネする? できるわけなかろう!それはサルがニンゲンのマネをするようなもの、いのちのレベルが異なるのだ。キリスト教徒が神のマネをする。これこそ滑稽であろう。この単語は"mimétés"、語源は"mimeomai"。その意味は"imitate"あるいは"emulate"。ここでは前者よりも後者がよい。神をエミュレートせよ、と言うわけ。
神はアダム系の私たちをキリストと共に終わらせ、復活させた。聖霊によるいのちを吹き込まれた。私たちの霊は神から生まれた神属の霊。それは罪を決して犯さない。かくして私たちは新創造とされた。はあ? 自分は自分で何も変わっていないですが・・・。こう言う人は騙されている、自分の感覚によって。感覚ではなく御言葉に書いてあることが真理。
メッセでも語ったが、これはちょうど、Windows用のPCにおいてMacのiOSを走らせるようなもの。これをエミュレーション(Emulation)と言う。ハードウエアはWindowsだが、中身はMac。まさにWindowsマシンがMacを体現している。これと同じことが私たちにおいて起きているのだ。われわれのボディと魂(Soul)はアダム系にあって生まれた。その存在に神はキリストの復活のいのちを吹き込まれ、私たちの中でキリストを生かす。キリストをエミュレートするのだ。そのキリストのうちには父が生きており、ジーザスは人であったが、父なる神の言葉を語り、父なる神のわざをなされた。ジーザスご自身が父なる神をエミュレートしたのだ。ゆえに、わたしを見た者は父を見たと宣言された。
神が肉において現出されること―これが「godlinessの奥義(1Tim 3:16)」。ジーザスはそれをデモンストレーションされた。同じことが私たちにもできると言われる。
わたしを信じる者はわたしと同じわざをなし、それよりも大いなるわざをする。わたしが父の元に行くからである。-John 14:2
神は人間性において表現される。なぜ? 人は神の形に創造されたゆえに。人はその実質として内に神を生かす、あるいは神をインストールされるべき存在。そして人間性において神がエミュレーションされるのだ。もっと言えば、ジーザスは父のコピー、エクレシアはジーザスのコピーである。こうして神は人間性において自己増殖されるのだ。言ってみれば、世の者ではないジーザスがわれわれのうちにインプラントされ、われわれも世の者ではない存在とされた。すなわちエイリアンとしてこの地球上において自己増殖する。こうしてサタンが不法占拠しているこの地上において神の国を増殖、繁栄させるのだ。しかもこうある:
神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-Heb 4:3
ここも天地の基が置かれたとき、それはすなわち受胎したときであり、その時にすべては完成していた。これが時空間の時系列に現出しているだけ。その完成されたみわざに休むこと。これがフェイスである。罪の赦し、病の癒し、必要の満たし、そして勝利など、すべては安息にある。だから安息の神をエミュレートせよと奨められているのだ。
ジーザスはこのミケランジェロの絵の指先のギャップを埋めてくれたのだ!
⇒神をエミュレートする(YouTube)

FBで過去記事とある方のウォールからの拾い物を紹介しておこう。ボクシの専売特許、「悔い改めよ~」。これが曲者。ニッポンキリスト教の心気臭さはこの「悔い改め」に源があるのだ。
ハイ、わが愛車の「病気」でした。突如、エンジンルームから異音が響き出して、AUTOBACSで診てもらったら、絶望的な診断を貰った次第。要するにAUTOBACSでは手の打ちようがないと言うこと!
これがね、しばしば医療の場面でもあるわけ。嗚呼、ステージIV、もうダメだぁ、とね( ゚Д゚)
要するに言葉のトリック、聴いた言葉をそのまま受け入れてはならないのだ。所詮、人間の言葉。それを受け入れて、同意すると、アダム系マインドのマトリックスにスイッチが入る。で、出てくる回答はしばしばネガティブ。
しかし、私たちはキリストのマインドを持っている(1コリント2:16、これもキリストの「心」は誤訳!)。キリストのマインドがオンするとき、絶望や恐れなどはあり得ない。医者には不可能でもジーザスには可能。
あなたのマインドにキリストのマインドがエミュレートされるようになるのだ。かくしてマインドのメタモルフォーシス(トランスフォーメーション)が鍵となる(ローマ12:2)。
ちなみにわが愛車は20万キロのツワモノ。4WD、V6、3リッター。燃費は市街地で5キロ/㍑。とにかくキビキビとどこにでも行けてしまう(前のトーラスはデカくて不便だった)。写真は色違いの同型車(私のはシルバーメタ)。ハハ、もうカミさんと同じだね
・・・で、本日、無事退院しました。(了)
要するにマインドの使い方が間違っているわけ。この世にアダム系として生み出された古い私たちは自ずと世の価値観や考え方が刷り込まれる(心理学的にはオペラント条件付け)。これに従ったマインドの使い方が諸々の罪(sins)を産み出す。
そこで「悔い改めよ~」とやるわけだが、この原語である”metanoia”は、”meta”+”noieo”。”meta”の意味は「超」とか「高次」とか、いろいろあるが、「共に」や「伴って」の意味がある。”noieo”は”nous”からの派生で、その意味は「マインドを使う」だ。つまり「高次の、伴ったマインドを使う」ことである。簡単に言えば、高次のYWHWのマインドに共に・伴ってマインドを使うこと。そこで自分から主へと「マインドの向きを変える」ことになる。そこでDr.Lukeとしては思い改めとしよう。
ちなみにヘブル語ではこうある-

かくしてStrongによれば、メタノアイアとは
metanoeō
met-an-o-eh’-o
From G3326 and G3539; to think differently or afterwards, that is, reconsider (morally to feel compunction): – repent.
つまり、”repent”とは「悔い」て「改める」などの意味はまったくない。悔いたところで何も変化しないことはクルシチャンたちを見てれば分かることだ。思いを主の思いに沿わせて今までは異なる考え方をすることである。このときに、罪をも自覚するが、それは決して罪責感や悔いるものではない。聖霊が私たちのもろもろの罪をconvictionするとき[1]codemnationではないから注意すること。codemnattionは罪定めであり、サタンの得意なお仕事である。、私たちは実に客観的に自分の罪と向かい合うことできる。そして聖霊はすでにそれは十字架の血潮で洗い流されていること、つまり主の前では実質的にないことを確証される。
For sorrow according to God is producing repentance for unregretted salvation, yet the sorrow of the world is producing death.-2Cor 7:10 (CLV)
神に従った悲しみは悔いる必要のない救いのためのメタノイアを生み出し、世の悲しみは死をもたらすのだ。メタイノは思いを神に従わせることにより、いわゆる悔いる必要がないことは明白であろう。つまりすでにすべての罪々は血によって洗われ、清められていることを実体化する、いわばチャネルがメタノイアである。
この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。-Heb 10:10
すべての根拠はキリストの体がただ一度ささげられたことによる。私たちの何かには一切よらないのだ。ウォッチマン・ニーも、いわゆる内省や反省や自責は不毛であると言っている。それは自分の何かで自分を神に受け入れさせようとするアガキであり、自己救済の努力である。それらにより苦しむ、私の言うクルシチャンは延々とセルフのマトリックスの中で空転して消耗する。
ゆえにパウロはこう勧める-
そしてあなたがたは、この世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって、形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであり、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2(岩波訳)
「形作り直され」すなわち「再構成」とはメタモルフォーシス。meta+morphooである。ここにもmeta(=沿って)、morphoo(=構成・形成される)の意味である。サブコンシャスのレベルから聖霊は私たちのマインドを再構成してくださるのだ。これにより神の御心を知覚することができるようになる。
思いの霊において新たにされ・・・。-Eph 4:23(原語)
思い(nous)の中に霊(spirit)がペネトレイト(浸透)し、再構成されることだ。
思いの表層で「われはナニを信ず~」とか、正統なナントカ神学やカントカ主義を唱えることではない。それは生命現象である。
蝶の幼虫はさなぎの中で一度どろどろに溶ける。そして新しく再構成、すなわちメタモルフォーシス(変態)され、あのまったく形状の異なる蝶へと変貌するのだ[2]ちなみに山での主の変貌もメタモルフォーシスである。。われわれも次のように約束されている-
愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。-1John 3:1
ここの「似る」とある原語は”homoios”、つまり性質と形態において似る存在である。Net Bibleではふたつの理解ができるとして次のように解説している-
(1) believers will really become more like God than they now are, and will do this through seeing God as he really is; or (2) believers will realize that they are already like God, but did not realize it until they see him as he is.
要するにキリストにおいて現れたYWHWのご性質と御心が、われわれにおいて再現するのだ。
私たちニュークリーチャーはすでにキリストのマインドを持っている(1Cor 2:16)。それをアクティヴにすること、それがフェイス。その過程はマインドにスピリットがペネトレイトすることによってトランスフォームされつつ進行する。その時、DNAさえもその傷が修復される(エピジェネティクス)。その入り口がメタノイアである。罪意識から義意識への転換こそ福音である。
For in it God’s righteousness is being revealed, out of faith for faith, according as it is written: “Now the just one by faith shall be living.”-Rom 1:17 (CLV)
なぜなら、神の義はその中で、信から信へと啓示されるからである。「義人は信から生きるであろう」と書いてあるように。(同、田川訳)
もっともらしくしかめっ面をながら、わたしは罪深い人間です・・・とやってる偽善者どもに騙されることなかれ。エクレシアはすでにニュークリーチャー、キリストの充満である(Eph 1:23)[3]繰り返すが、満ちておられる「ところ・場」ではない。充満そのものである!。

我々が五感の領域で経験するあれこれ、それは何によって生み出されているのだろう。「あれこれ」とはアイオン(αἰών)、Strongによればこうある:
From the same as G104; properly an age; by extension perpetuity (also past); by implication the world; specifically (Jewish) a Messianic period (present or future): – age, course, eternal, (for) ever (-more), [n-]ever, (beginning of the, while the) world (began, without end). Compare G5550.
Vincentはこう解説している:
Lit. the ages. The world or worlds as the product of successive aeons.
つまりわれわれの時系列的経験、五感によって感知される諸事象を意味する。そしてヘブル書はアイオンは目に見えるものから生じるのではなく、見えないものから生じると証言する:
信仰によって、この世が神の言葉によって造られたこと、したがって見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解している。-Heb 11:3(岩波訳)
Through faith we understand that the worlds were framed by the word of God, so that things which are seen were not made of things which do appear. (KJV)
「言葉」はレーマ、「造られ」はフレーム化あるいはレンダー、すなわち五感の領域にあらしめるの意味(田川訳では「整える」)、「理解している」の原意はヌース(思い)により把握する、である。信仰という単語は不適切であるとすでに繰り返しているが、フェイスとは五感を超えたシックスセンスであり、スーパーナチュラルなスピリチュアル・パワーである。
現代量子論によると、量子は波動でもあり粒子でもある。ド・ブロイは物質は波であるとして、λ=h/mv=h/p (p=mv)とした。λは波長である。これを波動方程式に組み込むことによりシュレディンガー方程式が構成され、それは実験結果ときれいにフィットした。ところがその意味が問題となった。波動関数φとは何か。ボーアやアインシュタインとの論争の中で、それは粒子の発見確率を意味するとされた[1]φの絶対値の二乗|φ|2が確率密度関数を表すとするもの。。つまり波動は局所的実在としての波ではなく、確率分布という情報であるとするのだ。
これは局所的実在を否定するペル不等式の破れと言う形で証明されることになった。詳細は省略するが、二つの波動関数を共有する量子は距離に関係なく一方のスピンが決まると他方のスピンが決定してしまう。すなわち光速を超えて情報が伝達するという、相対性理論と合致しない現象の存在が証明されてしまったのだ。これをエンタグルメントと呼び、アインシュタインはspooky(不気味)な現象と呼んだ。
つまりこの量子は「五感で感知される時空間を超えて存在する何か」とするしかなくなるわけだ。このことを「局所的実在性が否定された」と言う。なんとも不思議ではないか。この世界を造る物質を分解していくと、分子→原子→電子・中性子・陽子→クオーク→弦となるのだが[2] … Continue reading、その電子などの量子は局所的実在ではない何かなのだ。では私たちの体はいったい何なのだ? 確かに五感によって知覚されているではないか、しかしその究極的構成要素は五感の領域を超える何かであるとは???
まさに「見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解」せざるを得ないのだ。それはレーマすなわち言葉すなわち情報がフレーム化したもの、あらしめられた(レンダーされた)ものなのだ。パワーポイントで投影された映像は、もとをただせば0と1の集合体、あるプロトコル(規則)に従って構成されたマトリックス、すわなち情報である。それがPCとプロジェクターによりフレーム化(レンダー)されたものである。0と1の集合体はわれわれはその意味をすぐには理解できないが、フレーム化(レンダー)されるとき、五感で感知し得る意味が生じるのだ。これと同じことをヘブル書は説いてる。
さらに、もっと原意に正確に訳すと
By faith we are apprehending the eons to adjust to a declaration of God, so that what is being observed has not come out of what is appearing.(CLV)
アイオンは神の宣言に適合するようにあらしめられるのだ。神の宣言とは語り出されたロゴス、ヘブル語ではダバー(dabar)、それは実質・実体そのものである。われわれが五感の領域で感覚/知覚して経験する事象はYHWHエロヒムの発出したロゴスそのものに適合するあり方とされたアイオンである。
そしてヘブル書は宣言する:
神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって(の中で)、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって(を通して)、もろもろの世界を造られた。 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質(ヒュポスタシス)の真の姿であって、その力ある言葉(レーマ)をもって万物を保っておられる。-Heb 1:1-3
御子とはYHWHエロヒムのロゴス(John 1:1)、すなわちダバー(dabar)、実質・実体である。ここで大切な点は、YHWHエロヒムは御子にあって語られた(アオリスト)ことである。すでに語られた(過去形)。つまりYHWHエロヒムは御子にあってすでに宣言されたのである。何を?
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。-1Cor 2:9
五感では知覚できない、思いにも浮かばないことである。そしてそれは
なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって(あって)「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ(確立し)、油をそそいで下さったのは、神である。-2Cor 1:20-21
For as many promises as are of YAHWEH, in Him they are yes, and in Him are Amen, for glory to YAHWEH through us. But He confirming us and anointing us with you in Messiah is YAHWEH, even He having sealed us, and having given the earnest of the Spirit in our hearts.(HRB)
旧約において提示された神の約束はことごとくキリストにあって「アーメン」とされた。これは単に「アーメン」というセリフを唱えることではなく、その原意「アマン(אָמַן)」、すなわち「現わしむる・レンダーする」ことである。キリストこそはYHWHエロヒムの約束の成就された実体そのものなのだ。その方は死と復活を経ていのちを与える霊となられ(1Cor 15:45)、われわれのうちに聖霊により内住され、われわれもその方にあって確立される。
キリストの内に〔こそ〕神性の全き充満が形態化して宿っており、あなたがたはキリスト-すなわちあらゆる支配と権威の頭-にあって満々と満たされているのだから。-Col 2:9-10(岩波訳)
For in Him the whole fullness of Deity (the Godhead) continues to dwell in bodily form [giving complete expression of the divine nature]. And you[f] are in Him, made full and having come to fullness of life [in Christ you too are filled with the Godhead—Father, Son and Holy Spirit—and reach full spiritual stature]. And He is the Head of all rule and authority [of every angelic principality and power]. (Amplified)
ここの[f]の注としてVincentはこう説いている:
Rev., made full…. Not, ye are made full in Him, but ye are in Him, made full. In Him dwells the fullness; being in Him, ye are filled.
YHWHエロヒムの充満であるキリストが内住されるゆえに、われわれもその方の充満とされているのだ。詳訳ではこう訳されている:
というのは、彼のうちにこそ神性の全充満<神という方>が肉体の形をもっていつまでも宿られる<神性の完全な表現がなされている>からです。そしてあなたがたは彼のうちにあり、満ち満ちた者とされる<満ち満ちたいのちになる>のです<<キリストにあってあなたがたもまた、神、すなわち父、子、聖霊に満たされ、霊的に完全な身たけに達するのです>>。また、彼は、すべての支配と権威<あらゆる天使的主権と力>のかしらです。
かくしてわれわれを通してその神のすべての約束が「アーメン」とされる、つまり実体化されるのだ。キリストがなされたことをわれわれも再現、あるいは追体験するのである。ゆえに主は言われた:
わたしを信じる者はわたしのわざをなし、さらに大いなる業をなす。わたしが父のもとに行くからである。-John 14:12
ジーザスは父の元に行かれ聖霊をわれわれに注がれた。そしてその内住の聖霊はキリストの御霊としてわたしたちのいのちとして充満する。キリストの御霊はわたしたちの霊から魂へと浸透し(ペネトレーション)、わたしたちの魂をキリストの魂の形へと再構成し、死ぬべき体にすらいのちを与え、われわれはキリストの再現となる。われわれのうちにキリストが構成(モルフォー)されるのだ(Gal 4:19)。ゆえに―
この教会(エクレシア)はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているもの(Gk.充満)に、ほかならない。-Eph 1:23(口語訳)
新改訳などにあるように満ちておられる「場所」とか「ところ」ではない(口語訳はまだ良心的に訳している)。充満そのものがエクレシアである(岩波訳では正確に訳されている)。すなわちキリストである。われわれの体と魂はいわばガンダムスーツ、それは本質ではなく、キリストの充満そのものがエクレシアなのだ。白いキリスト教の神学などは捨てよ!
お分かりだろうか? YHWHエロヒムはご自身のいのちをまずキリストにあって実体化し、この五感の領域にあって現わされた。キリストは死と復活をとおしていのちを与える霊となられ、物理的存在に拘束されない霊としてわたしたちのうちに時空間を超えて内在される。そのキリストの成就されたすべてが五感の領域にある私たちの体と魂をとおして再現されるのだ。これがエロヒムをエミュレートすることであり(Eph 5:1)、その増殖である(Col 2:19)。
エロヒムの成長(増殖)を成長(増殖)する。-Col 2:19(原意、田川訳と岩波訳は正確)
かくして地上においても天になるとおり御旨(=五感で知覚できない意志のサブスタンス)が現出するのだ(=実体化されて知覚されるリアリティーとなる)。天には罪も病も貧困もトラブルもない! われわれはそのリアリティーを<今・ここで>享受する。フェイスはそのサブスタンスであり、エビデンスである(Heb 11:1)。それは永遠のNOW体験。PTL✨

プロテスタントは自分をセンターにおいて、私が律法を行うことではなく、キリストを信じることにより救われると説く(☞ルターの誤り)。その中心は自分。ゆえに私の信仰をもっと強めてくださいと求め、また逆境を経た人の信仰は素晴らしいと褒めそやす。ここにあるのは私だ。これをセルフ教と呼ぶ。よってキリスト教徒は常に私の状態が気になる。だからあゆみが安定しない。「アイ・マイ・ミー・マイン」のマトリックスに幽閉されている。
対して聖書(邦誤訳を当てにしないこと!)は何というか。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた御子のフェイス(信)のうち(in)です。-Gal 2:20
私は生きていない、が、肉において生きている私がいる。その私は御子のフェイスにあって生きているのだ。この私は「肉にある」、すなわち五感における私である。具体的には体(soma)と魂(pshche)としての私である。
フェイスはスピリット(霊)である(2Cor 4:13)。使徒信条告白~、われはナントカを信ず~、といった式文ではない。そのフェイスは御子のフェイス、すなわち御子の霊のうちに肉にあって生きる私が生かされている。いのちを与える霊となられたキリスト(1Cor 15:45)、御子のフェイスが私の霊の中で働き(エルゴン)、霊のうちから魂のうちへ、さらに死ぬべき体の中へとペネトレーションして(☞聖霊のペネトレーション)、私たちの肉において御子が現れる(☞聖霊は腹から流れ出る)。私の魂はナチュラル(五感)領域にある肉体とスーパーナチュラルな領域の霊の狭間にあって、つねにどちらのバイブレーションによってドライブされるかの選択を迫られている(☞デュアル・ワールドに生きる)。
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。-Rom 8:9
本来、この肉体はニュートラルである。ゆえにパウロはこう勧める:
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと仕分けしなさい。 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。-Rom 6:11-13
不義の道具として罪に委ねるか、義の道具として主に捧げるか。ボディをいかに管理するか、このところのメッセでも語っている通りである。私たちの責任はここまでである。いったん御霊に委ねれば、自動的にスーパーナチュラルな御子のフェイスがオンとなり、そのフェイスが私たちの魂と体をとおしてワークアウトされる(☞フェイスをワークアウトする)。私たちキリストの体はキリストの体性メモリーで生きるのだ。フェイスは私のものではない!
同様に義も聖も私のものではない。
神によってあなたがたはキリスト・イエスのうちに置かれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。-1Cor 1:30
この「なられた」は”ginomai”である(☞”ginomai”の秘密)。ヘブル語の”Haya”(I-AM)と同様に、存在・生成・活動を意味する(☞アバンダント・ライフへのポータル=ジーザス=)。現在、キリストは肉体の束縛を解かれて、いのちを与える霊となられた。
「最初の人アダムは生きる魂となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。-1Cor 15:45
ここの対比は重要。最初のアダムは物理領域に生成されたナチュラルな存在、最後のアダム(=キリスト)は霊の領域に存在するスーパーナチュラルな存在とされたのである。今やその霊と私たちの霊はひとつである。
しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。-1Cor 6:17
ここの「結びつく」は”kallao”、英語で”glue”である。私たちの霊と主の霊は離れがたく接着されている。ゆえに私たちの霊はすでに完全である。
天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊-Heb 12:23
この霊はエロヒムの霊、この霊を受けたものはYaHaWeHエロヒムの霊的DNAを組み込まれたニュークリーチャー。この霊こそが新しいアイデンティティであり、これからすべての天的なものが流れ出るのだ。聖も義もフェイスも、あらゆるYaHaWeHエロヒムのすべてがそこにすでにある。その方はHAYA ASHER HAYA=I-AM THAT I-AM=であるゆえに。そのI-AMが私にとってのXとなられる(ginomai)。ゆえにI-AM THAT I-AM X。このXに私たちのあらゆるニーズを代入することができる(☞I-AMのパワー)。これが「わたしの名にあって祈り求める」の意味である。
十字架はこのソースの切り替えの場である(☞十字架って何でしょう)。すでに終わったアダム系の私の痕跡が魂と体に残るゆえに、これを溶かされ、あるいは砕かれ、マインドがトランスフォームされるほどにキリスト系の新しい私(=霊)が体と魂を支配する。カギはマインドのリニューアル、私の言う霊感情観念複合体の解消にある(☞霊精神身体医学)。
肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。-Rom 8:5-6
自分のナントカに絶望した人は幸いである。自分のカントカをナントカしようと信仰に励む人々がキリスト教徒、あるいはクルシチャンである。真のフェイスは絶望から生まれる。なぜならすべては私のものではなく、キリストのものが私において実体化されるからだ(☞神をエミュレートする)。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ見ていないことのエビデンスである。-Heb 11:1(私訳)
キリスト教なる宗教体系、マトリックスをエクソダスし得た者は幸いである。残りたい向きはご自由にどうぞではあるが。

聖書は宗教本ではないことはすでに繰り返し、繰り返し強調している。いわゆるキリスト教なるマトリックをエクソダスせよとも。
見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもう、「イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる」と言わず、「イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる」と言うようになる。わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる。-Jer 16:14-15
エジプトはファラオ(世の君)が支配するこの世、追いやられた国々(捕囚の地)とは宗教である。どこへ帰還されるのであろう。先祖に与えた良き地(カナンの地)、すなわちキリストご自身である。そのキリストは十字架の死において、その血をもってわれわれのすべての罪々(sins)を洗い清め、古い私を終わらせ、その復活において新しい在り方となられた。
「最初の人アダムは生きる魂(Gk)となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。-1Cor 15:45
旧創造であるアダムは生きる魂(a living soul)となったが、最後のアダムにして、第二の人であるキリストは命を与える霊(a life-giving spirit)となられた。魂次元から霊の次元への跳躍である。もちろんキリストは肉体をもって復活し、今や天に上げられているが、同時に肉体に制限されない在り方を得たのである。ゆえに聖霊が来られるとき、キリスト・イエスご自身が私のうちで命となられる。
あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。-Col 3:4
それが新創造であるエロヒム属である。YHWHエロヒムの命を分与された存在。
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。-1John 4:13
さらにわれわれはキリストの思い(マインド;nous)を得ている。
「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。-1Cor 2:16
われわれは自分の魂由来の思いを聖霊から独立して用いることはしない。魂を否み、聖霊のもたらすキリストの思い、すなわちキリストの言葉とわざをもって意識するのである。
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。・・・あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。・・・しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。-John 14:23-26
聖霊が来られるとき、父と子が来られるのである。すなわちYHWHエロヒムの全パースンが私たちのうちに内住される。この聖霊はイエスの言葉とわざを証しし(実体化)、イエスが私のうちに実感をもって生きられる。そしてそのお言葉を意識に上らせ、私たちはその言葉によって、すなわちキリストの思いによってすべてを意識するのだ。これを聖霊のメモリーと呼ぶ。
聖霊はちょうどOSのような存在であり、ご自分を証しされることはなく、聖霊にあって、ちょうどアプリのようにイエスが生き、イエスは御父の言葉とわざを証しされる。こうしてYHWHエロヒムが私を通してエミュレートされるのだ。
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神をエミュレートする者となりなさい。-Eph 5:1
ここの子供とは養子ではなく、生み出された者、すなわち命を共有している存在(Strong)、さらに「倣う」とある原語の本来の意味はエミュレートである。Windowsマシンにエミュレーターをインストールすれば、Mac iOSを走らせることができるようになる。無骨なWindowsマシンで洗練されたMacのソフトが走るのである。これと同様に、無骨はわれわれの肉体を魂を通して、霊のうちにおられるYHWHエロヒムがエミュレートされる。ゆえに
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子の信にあってです。-Gal 2:20
肉にあって(=体と魂)生きているわたし(自己意識)は、自分の資源によって生きるのではなく、神の子のフェイスにあって生かされるのである。フェイスとは霊的実体(サブスタンス)であり、その現出である(Heb 11:1)。かくして霊のリアリティが私の肉体と魂を通して五感の領域へと実体化される。こうして五感で感知できない霊のリアリティ(サブスタンス)が、五感で感知できるようになる。あたかも目に見えない電波に乗せられた映像や音声やメールがスマホにより五感の領域に現わされるのと同様である。
この時、私たちは五感の領域における事実や経験を自己意識で判断したり、評価したり、意思決定したりしないようになる。すなわちキリストの意識とバイブスが共鳴することにより、キリストの意識によって処理することが可能となる。地上におられたキリストの内的経験が私の魂と体に再現されるのである。この意味で私たちはキリストの意識の追体験をする。
これはすなわちYHWHエロヒムの命(Zoe)の増殖であり、キリストの自己形成である。
わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで・・・-Gal 4:19
キリストが私のうちにモルフォー(形成)される。すなわちキリストがエクレシアとして増殖するのだ。ゆえに
エクレシアはキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の充満です[1]満ちておられるところとか場ではない。ところや場に満ちるといった考え方がキリスト教を生む。キリストの充満である。。-Eph 1:23
神の成長を成長する[2]あるいはエロヒムの増殖を増殖する。。-Col 2:19(岩波訳;田川訳)
かくしてエクレシアとはキリストである! 人間が組織した宗教団体などでは毛頭ない。それは生ける有機体であり、YHWHエロヒムの命と意識を共有する存在である。エクレシアはオーガニックに成長する(Mark 4:26-29)。
聖書は生命現象の書である!

今回のメッセにおいて、「われわれはキリストである」と言った。「いよいよDr.Lukeも自分を再臨のキリストと言い出したとか、自分を神格化している」とかいきり立つむきがあるであろう。このような人々のマインドのマトリックスは白いキリスト教神学によって汚染されている。
キリストとは元々「油注がれた者」の意味。この称号をメサイア(=救い主)と同一視できるのは、あのナザレのジーザスにおいてのみである。つまりナザレのジーザスはメサイアとして油注がれた者である。エクレシアはひとりの新しい人(Eph 2:15)。そのエクレシアの頭なるキリスト・ジーザスに注がれた油が、御体であるエクレシアにもしたたり流れており、キリストの充満として、われわれも油注がれた者(=キリスト)なのだ[1] … Continue reading。が、メサイアではあり得ない。
エクレシアはキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の充満です[2]ここを「満ちておられる場」とか訳すので真理から外れる。<エクレシア=キリストの充満 ∴エクレシア=キリスト>であろう。。-エペソ1:23
そもそもわれわれの霊はエロヒムの霊であり、そのうちにYHWH(I-AM)が住まわれる。
神の言葉を生じさせられた人たちが、『エロヒム』と言われている(原語)。そして、聖書が廃れることはありえない。-ヨハネ10:35
イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。-ヨハネ14:23
そのI-AMがわれわれの体と魂を通してエミュレートされる。このことをナザレのジーザスはデモンストレーションされた。
確かに偉大なのは、この敬虔(エウセベイア)の奥義である、「神は肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた」。-1テモテ3:16
これがエウセベイアの奥義。彼は自分からは何もすることなく、うちにおられる御父の言葉を業をデモンストレーションされたのだ。そしてこう言われる:
わたしを信じる者はわたしと同じ業をなし、さらに大いなる業をする。わたしが父の元に行くからである。-ヨハネ14:12
今、父の元にいますジーザスは、いのちを与える霊として(1Cor 15:45)、聖霊にあって私たちのうちにもおられる。その方のうちには御父もおられる。かくしてもっとも高きエロヒムである相互内住(ペリコレーション)の父・子・聖霊にいますYHWHが、私たちのうちで語りまた業をなされるのだ。ゆえに主は、わたしたちはご自身から離れては何もなし得ないと言われる(John 15:4-5)。
御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。-ヨハネ16:14-15
かくしてあのキリスト(The Christ)がなされたことがキリスト(christ)であるわれわれにおいて再現される。ただし、私はわれわれがナザレのジーザスとは言っていないし、エロヒムであると言っているが、YHWHであるとも言っていないことに注意すること。何度も指摘するようにエロヒムとは霊的領域あるいはカテゴリーである(Dr.Heiser)。
国債を国の借金(政府の借金である)とすることからPBバランスなどの狂気の政策が生まれ、貧困化の道をひた走るニッポンと合わせ鏡として、聖書の単語を曖昧なまま霊的貧困化の道をひた走るニッポンキリスト教。なんでも愛して許して、細かいことに目くじら立てず一致を守って・・・・と。が、真理を棄損した霊的成長などはあり得ない。
戦後GHQの監督下でブームになったキリスト教業界で現在看板を張っているセンセイ方の残された負の遺産は、聖書翻訳の問題も含めて、かなり大きいものがある。再度繰り返す:
キ業界よりエクソダスせよ![3] … Continue reading
エレミヤ書にはエクソダスは二回。エジプト(世)からと捕囚(宗教)からのそれだ(Jer 16:14-15)。
References[+]
↑1 | からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である(1Co 12:12)。ここでパウロは「キリストの体の場合も同様である」とはしていない。「キリストの場合も同様である」だ。つまりパウロはキリストと体を同一視している。彼が迫害者であったとき、天からの光で打ち倒されたときに聞いた言葉は、「サウルよ、なぜわたしを迫害するのか」だった(Acts 9:4)。 |
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↑2 | ここを「満ちておられる場」とか訳すので真理から外れる。<エクレシア=キリストの充満 ∴エクレシア=キリスト>であろう。 |
↑3 | これは別に業界と縁を切れと言っているのではない。まずマインドを白いキリスト教またニッポンキリスト教のマトリックスから解き放つ必要があるのだ。 |

さて、この聖句、岩波訳だと-
自らに備わった栄光と卓越した力によって私たちを召された方を、私たちが知ることにより、イエスの神的な力が私たちに生命と敬虔についてにすべてのことを与えている。この栄光と卓越した力によって、私たちには、貴い偉大な約束が与えられている。それは、これらにより、あなたがたが、この世界がもたらす、そして欲望がもたらす滅びから逃れて、〔イエスの〕神的な本性に参与するようになるためである。
さらに田川訳によれば-
我々をご自身の栄光と徳によって招き給うた方を認識することによって、生命及び敬虔へといたる一切の事柄を、その方の神的な力が我々に贈って下さったので、その栄光と徳によって尊く偉大な約束が我々に贈られたのであるが、それは、その栄光と徳によってあなた方が神的な質にあずかる者となるためでなのであれ、あなた方は此の世で欲望において朽ちることから免れるのであるが。
第一の「力」は”aretē”、意味は
From the same as G730; properly manliness (valor), that is, excellence (intrinsic or attributed): – praise, virtue.(Strong)
つまり、男らしさ、すなわち洗練さや徳。Thayerによれば
1) a virtuous course of thought, feeling and action
1a) virtue, moral goodness
2) any particular moral excellence, as modesty, purity
徳のある考え方、感じ方、行為を言う。第二の「力」は”dunamis”、
1) strength power, ability
1a) inherent power, power residing in a thing by virtue of its nature, or which a person or thing exerts and puts forth
1b) power for performing miracles
1c) moral power and excellence of soul
1d) the power and influence which belong to riches and wealth
1e) power and resources arising from numbers
1f) power consisting in or resting upon armies, forces, hosts
つまり魂の洗練性による力・能力であり、”aretē”とも重なる。単なるいわゆる力とかパワーではない。そこで続いて、「神の本性」あるいは「神的な質」に参与できるのである。この「本性」とか「質」とされているのは”phusis”、意味はStrongによれば
From G5453; growth (by germination or expansion), that is, (by implication) natural production (lineal descent); by extension a genus or sort; figuratively native disposition, constitution or usage: – ([man-]) kind, nature ([-al]).
Thayerでは
1) nature
1a) the nature of things, the force, laws, order of nature
1a) as opposed to what is monstrous, abnormal, perverse
1b) as opposed what has been produced by the art of man: the natural branches, i.e. branches by the operation of nature
1b) birth, physical origin
1c) a mode of feeling and acting which by long habit has become nature
1d) the sum of innate properties and powers by which one person differs from others, distinctive native peculiarities, natural
characteristics: the natural strength, ferocity, and intractability of beasts
まとめると「発芽による増殖・自然の生殖」また「事の性質・力・法則・秩序」である。ゆえに「神的な本性」とは「神から生み出された種の増殖とその力や法則」のことである。つまりエロヒム属の増殖である(⇒エロヒム属の誕生)。
神の増殖を増殖する。-コロサイ2:19(原文)
事実、Strongによれば”a genus”、すなわち「属」だ。エロヒム(Elohim)とYHWHの違いについてはすでに何度も指摘しているが、エロヒムは生物の分類のような一種の霊的生命体のカテゴリーを指す。Dr.Heiserによれば「領域(sphere)」である。対してYHWHは父・子・聖霊にいます最も高きエロヒムの固有名詞だ。その意味は「ある(I-AM)」あるいは「在」である。他のエロヒムはもちろんYHWHにより創造された(⇒神の新創造セミナーII)。
かくしてヤコブやヨハネはこう証言する-
主は意図して我々を真理のロゴスによって生み出し給うたのだ。-ヤコブ1:18(田川訳)
神から生まれた者はみな罪をなすことがない[1] … Continue reading。神の種がその者の中にとどまっているからである。だから罪をなすことはありえない。神から生まれたからである。-1ヨハネ3:9(ibid)
大切なのは生まれること。それは生命現象であり、われわれはYHWHエロヒムの霊のDNAを分かち与えられたエロヒム属である。
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。-1ヨハネ4:13(新共同訳旧版)
イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたはエロヒムである』と書いてあるではないか。神の言を託された人々が、エロヒムといわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)・・・-ヨハネ10:34-35
この「託された」と訳されている単語は”ginomai”で、Thayerによれば
1) to become, i.e. to come into existence, begin to be, receive being
2) to become, i.e. to come to pass, happen
2a) of events
3) to arise, appear in history, come upon the stage
3a) of men appearing in public
4) to be made, finished
4a) of miracles, to be performed, wrought
5) to become, be made
「あらしめられる」あるいは「なる」と言うべきであり、ロゴスがうちにあらしめられるようになった者たちはエロヒムである。ロゴスとは種、すなわち”sperma”、精子である。その本質はDNA。すべてはこのYHWHエロヒムのDNAが発現することによってなされる(Mark 4:26-29)。神のわざはわれわれのうちに生きるYHWHが私たちの魂と血肉とを通して現れ出ることによるのだ[2] … Continue reading。ゆえにパウロはこう証する-
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1コリント15:10
究極的にジーザスは言われた-
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。-ヨハネ14:12
それは内なる神を働き出すこと。これが恵みのわざである。敬虔(eusebeia)の奥義とは[3] … Continue reading、肉において現れる神である(1Tim 3:16)。これを初穂としてデモンストレーションされたのがジーザスその方である。
神に愛される子供として、神をエミュレートする者となりなさい。-エペソ5:1
ここは通常は「神に倣う者」とあるが、それでは人間の真似をする猿である(⇒生み出された子として神をエミュレートする)。いのちのレベルが異なる。エロヒムなるYHWHを人間のいのち(=アダム属のいのち)でどうして真似し得ようか。この聖句の意味は「生み出された子としてエロヒムをエミュレートする」のである。
それはちょうど無骨なWindowsマシンにおいてハイセンスなMacOSを走らせ、Macのソフトを働かせることができる。これをエミュレートと言う。われわれの肉(体-魂複合体)において、エロヒム属の霊のうちに住まわれるYHWHエロヒムが生きてくれる。私の魂と体を通してYHWHの思い・意志・感情が言動として表出されるのだ(⇒霊の機能と魂・体との相互作用について)。
人間ジーザスは100%父を現された(John 1:14)。ここの「現された」の原文は”exēgeomai”、意味は”to consider out (aloud), that is, rehearse, unfold: – declare, tell”(Strong)、”to lead out, be leader, go before”(Thayer)である。つまり父を導き出し、リハーサルしたのだ。これこそエミュレートの意味である。ジーザスの言葉と業が彼由来のものではなく、父のものであったように(John 14:10)、われわれの言動すべては、いのちを与える霊となられたキリスト由来のものである(1Cor 15:5)。そのために聖霊が与えられた-
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」-ヨハネ16:13-15
聖霊はジーザスの言葉とわざを私のうちで証しされる霊である(⇒聖霊のメモリー)。父と子の関係を、キリストと私の関係に平行移動すればよろしい。だからジーザスは言われた-
父がわたしを愛されたのと同じ程度にわたしもあなたがたを愛する。-ヨハネ15:9(修正は私による)
父がわたしをお遣わしになったと同じ程度に、わたしもあなたがたを遣わす。」-同20:21(同)
かくして聖書が啓示するのはキリスト教なる宗教体系などでは決してなく、十字架の死と復活を通し、アダム系人類のわれわれの死んでいた霊にご自分のいのち(Zoe)をインプラントし、新しいキリスト系人類として生み出し、そのいのちが私たちの霊のうちから魂、さらに体へと成長し、われわれを通して表現されることである。こうしてわれわれは地上におけるYHWHエロヒムのミラー(The Mirror Bible)あるいはイメージャー(Dr.Heiser)とされるのである。YHWHエロヒムはご自身のDNAを地上において拡大増殖されるのだ。これこそがキリストの充満たるエクレシアであり(Eph 1:23)、神のオイコノミヤであり(Eph 1:10)、神の国の拡大である。

これからのテレビは4K。つまり横約4,000ドット、縦約2,000ドット、800万画素の超細密映像の時代だ。原理は縦糸と横糸のマトリックスのクロスポイントの液晶が色を発する仕組みだ。霊的真理もこれと同じ。
人はオツムで考えたがるもの。例えば、有名なカルバンVS.アルミニウスの論争。カルバンは神の予定(二重予定説)によりある人は救われ、ある人は滅びへと至るとし、人の自由意志の介在を一切認めない。アルミニウスは人の自由意志がその人を救いへともたらすとする。単純に言えば、確定論VS.偶然論の対立。これについては、すでに人の認知能力として、確定と偶然を識別することはできないことを指摘している。
あるいは行いと信仰(あえてこう言っておく)の対立。パウロは人が救われるのはただ信仰によるとし、ヤコブは信仰のみではなく行いによるとする。これについてもシナジー効果として、まことのフェイスは自ずと行い(エルゴン)を内包するものであると指摘した。
関連して、フェイスの由来も、「神を信じる」ではなく、「神のフェイス」(Mark 11:22)、「御子に対する信仰」ではなく、「御子のフェイス」(Gal 2:20)であることも指摘した(⇒記事群)。この対格による理解がルターの過ちであり、プロテスタントの根本的誤謬の原因であるも指摘した(⇒記事群)。カギは、「私ではなくキリスト」である(Gal 2:20)。キリストご自身が義と聖と贖い、さらに知恵、すなわちフェイスとなってくださったのだ(1Cor 1:30)。
かくして人間のオツムにおいては矛盾対立する要因が、実は縦糸と横糸のクロスポイント=十字架=においては何ら葛藤することなく成立、証しされている。だから、<今・ここ>において私は救われ、ニュークリーチャーとされているのだ(2Cor 5:17)。オツムによる納得ではなく(=弁証)、霊的法則に乗ることによりこの霊的ファクト(=実証)が重要なのだ(Gal 6:15)。この霊的ファクトを私の身体と魂(知・情・意)を通して表出すること。これが神をエミュレートすることだ(Eph 5:1⇒神をエミュレートする-God-OS)。
この縦糸と横糸の霊的マトリックスの密になればなるほど、霊的理解力、ビジョン、啓示の解像度がアップする。神の声や幻は、聖霊派がよくやるような「主はこう言われます~」といったものではない。よく「霊を見る」とか、「声を聴く」とか、自慢気に吹聴するむきがあるが、これは単なる霊能力、恐山のイタコか沖縄のユタのようなものだ。TVが液晶の縦横のマトリックス上において映像や音声が実体化されるように、啓示も御言葉の縦横のマトリックス上において幻や声として実体化されるのだ。御言葉をバイパスした霊的現象は危険であると指摘しておく。クリスチャンは神のロゴスであるジーザスというポータルを通して霊的領域とコンタクトするのだ。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。-John 10:9
かくして私たちのマインドの中に組み込まれる御言葉のマトリックスが細密になればなるほど、正確に神の意志を把握し、あらゆる問題に対してキリストのマインドが応答するようになる。御言葉の粗雑な理解はむしろ有害、御言葉を勝手に解釈して自滅する者がいるのだ(2Pet 3:16)。内側に御言葉を密に組織構成されること。これこそが神の豊かさを享受するカギである。
キリストの言葉(ロゴス)があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。-Col 3:16-17

ホモ・デウス、i.e., God-Man。人類はヘビによって誘惑された、この木の実を食べれば善と悪を知り、エロヒムのようになれると。これが原初的誘惑(Gen 3:1-5)。
が、元々、ホモサピエンスであるわれわれはエロヒムの形と様に創造されている(Gen 1:26-27)。そのうちにいのちの木の実を食べることにより、YHWHエロヒムご自身が内在化されることが当初の意図であったのだ。そこにヘビに化体したサタンが先回りをして、阻害したのだ。彼は元々いと高き者になりたかったから。
かくして、エデンの園から追放されたホモサピエンス、YHWHエロヒムから分離されて善と悪の二元論的世界観(マトリックス)に幽閉されたホモサピエンスは、自己の意義・生存・資源、そして生きる意味を自己の努力により探し求める存在となった。その根底にある動機は自己努力により神のようになること!否、神になることなのだ。
しかしYHWHエロヒムはご自身が受肉し、God-Manであるジーザスというホモサピエンスにあってご自身を現わされた。そのジーザスのあり方をわれわれにおいて再現あるいは追体験すること。神をエミュレートすること(Eph 5:1)。これがフェイスである。時空を超えた十字架の死と復活を経て、われわれエロヒム属スピリットが生み出されたエクレシアはニュークリーチャー。それはジーザスとまったくアイデンティカルなネオ・ホモサピエンス、スーパー・ヒューマンである。
フェイスによりわれわれはエロヒム属(神属)とされるのだ。その意味で、エクレシアこそが真のホモ・デウスである。
敬虔(エウセベイア)の奥義とは肉において現れる神である。-1テモテ3:16[1] … Continue reading

イエスは日々十字架を負い、自分を捨て、魂のいのちを否めと言われた(Luke 9:23-24)。何度もここで書いているが、それは魂の機能である知性・感情・意志の活動を停止し、私の意識が消失することではない[1]こういった状態を「悟り」とか勘違いする向きがあるようだが、それは宗教。。それはナンセンス。しかし、こう勝手に解釈して、自分が死なない、死のうとするとますます生きてしまうと葛藤し、自作自演的にクルシチャン化する者がいる。真理は霊から独立して機能する魂を否めと言うことであり、私たちの魂はキリストに依存するとき、ますます栄えるのだ。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子のフェイスによるものです。-Gal 2:20
パウロは明確に、生きているのは私ではないとしつつ、肉において私が生きていると証ししている。キリストのフェイスに頼るとき、私(の自意識)も生きているのだ。この二つの「私」の間には十字架の死と復活がある。だからヨハネはこう祈っている:
愛する者よ、あなたの魂が栄えているように、あなたがすべての面で栄え、健康であるようにと祈っています。-3John 1:2
ヨハネ書簡において、邦訳では「恵まれて」となっているが、ヘブル語は”euodoō(栄える)”だ。人類はいのちの木の実を取り損なった。その実体はキリストご自身。その方のフェイスによって生きるとき、
待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。・・・願望がかなえられれば魂は快い。-Prov 13:12;19
かなえられた願いはいのちの木、すなわち信仰の実の一要素である喜びを生む。イエスご自身がこう約束されている:
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。・・・これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。-John 15:7-11
喜びは魂の感情の機能であり、霊的サブスタンスにタッチする時、天の喜びが私たちの霊に反映し、それは魂の感情に触れて、喜びとして体験することできる。いつも喜んでいなさい、は単なる標語や絵に描いた餅ではない。リアルである(1Thess 5:16)。ハレルヤ! キリストのフェイスに頼って生きる魂はますます栄え、神の国を表現するのだ。その霊に満たされた魂が語り出す言葉(レーマ)は、霊であり、いのちである(John 6:63)[2]私はこれを<ロゴス×フェイス=レーマ=霊=いのち(Zoe)>と定式化している。聞いたロゴスにフェイスを混ぜること(Heb 4:2)。。ゆえにパウロはこう勧めている:
そして思いの霊において新しくされなさい[3]邦訳では「心の底から」とか意味不明の訳になっているので注意。-Eph 4:23
はっ? 思い(mind)は魂の機能では? 確かにそうだが、ここの思いには霊が浸透しているのだ。これがトランスフォームされた思い(Rom 12:2)。私たちの魂、特に思いはもはや霊から独立して勝手に彷徨うことはない[4]思い煩い、後悔、自責感、抑うつ、焦りなどは彷徨う思いの兆候だ。もちろん敵の放つ火矢もある。。それは霊と御言葉にしっかりと根付いている:
だから、あらゆる汚れやすべての悪から離れ去り、移植された御言葉(logos)を素直に受け入れなさい。それは、あなたがたの魂を救うことができます。-James 1:21
魂が栄え、すべてにおいて健全であること。これはまず思いのトランスフォーメーションから始まる。思いが霊と真理に基づいているならば、感情は安定し、健やかかつ豊かであり[5] … Continue reading、意志もそれによって言動を決める。こうして私たちは神の国のポータル(門)として、地上に神の国を現出させるのだ。ゆえにハデスの門もエクレシアに打ち勝つことはできない(Matt 16:18)。ますます大胆にイエスの名によって求め、願いをかなえていただこうではないか!
さて、ここでカギになるのは霊と魂の切り分けである(Heb 4:12☞霊と魂の分離について)。多くのクリスチャンが混乱するのは霊と魂が切り分けられていないから。魂の声を主の声として信じてもそれは実現しない。霊に響き渡る声を聞く必要があるのだ。
例えば、年老いたアブラハムとサラは子供ができると聞かされたとき、共に笑った(Gen 17:17;18:12)。彼らの魂の思い(mind)はその告知を受け入れることができなかった。なぜ? 地的な常識あるいは知識に反するから。しかるに、へブル書にはこうある:
信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。-Heb 11:11
ここでポイントは、神の言葉(レーマ)を聞くとき[6]ロゴスは真理を固定的かつ客観的に説明する言葉であり、レーマは即時的かつ主観的に語られることばである。、思いは必ずしもその内容を納得することはできないのだ。「はあっ?」という反応がほとんどであろう。それはアダム系の価値観の体系-マトリックス-をはるかに逸脱するからだ。が、フェイスはある。なぜなら、神が語ったから。神が「光よ、あれ」と語ると、光があったのだ。それは私たちが納得するとか、私たちが改めて信じるとかの問題ではない。この点、使徒行伝で、ペテロとヨハネが美しの門にいた足萎えを癒したとき、こう証している:
ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や清さ[7]この原語は”eusebeia”、ふつう「敬虔」と訳されている(1Tim 3:16☞神をエミュレートする)。で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。-Acts 3:12
つまり、その癒しは彼らの何かによるものではないというわけだ。フェイスは聞くことから、聞くことは神の言葉(レーマ)による(Rom 10:17)。この部分を、聞くことによりフェイスを「生み出す」と解する向きがあるが、これは意訳の結果だ。原語では
αρα η πιστις εξ ακοης η δε ακοη δια ρηματος θεου
「よって/その信仰/から/聞く/その/また/聞く/経由/レーマ/神の」となる。サラの場合も「聞く即フェイス」だったのだ。私があなたに「今日は暑いですね」と語る。それを聞くことそのものがフェイス。つまり「今日は暑い」というサブスタンスを得るのだ。このとき私たちの思いがどうのこうのは関係ない。神の声を一旦聞けば、それはどうあがいても否定しようがない。あとはそれに従うだけ。するとその実体(サブスタンス)が現出するのだ。
問題は思いがトランスフォームされていないと[8] … Continue reading、御言葉自体もスルーしてしまうし、神に聞く姿勢も起きない。さらに思いが聞いたことばをあえて拒絶するならば、もちろん従うこともない。ゆえに実を得ることはできない。あるいは思いが自分のことや何か特定のことでイッパイ・イッパイの場合、霊は抑圧され、聖霊の働く余地がない。感情も同じだ。そこで一度、魂が死ぬ必要がある[9] … Continue reading。
このとき、魂のマインドは透明にされ、御言葉の光はスッと通過する。あたかもカメラのレンズが透明であり、しかもシャッターが開いていれば、自然と光を受けるのと同じ。これをフォティーゾと呼ぶことはすでに述べている。するとその霊の光は私たちの霊に感光し、それを魂が思いにより言語化あるいは映像化し、語り出すあるいは行動に移すとき、それは五感の領域に実体化される。カギは魂がしゃしゃり出ないこと。魂はあくまでも霊に服することである(☞聖霊による魂と霊の分離オペ)。
References[+]
↑1 | こういった状態を「悟り」とか勘違いする向きがあるようだが、それは宗教。 |
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↑2 | 私はこれを<ロゴス×フェイス=レーマ=霊=いのち(Zoe)>と定式化している。聞いたロゴスにフェイスを混ぜること(Heb 4:2)。 |
↑3 | 邦訳では「心の底から」とか意味不明の訳になっているので注意。 |
↑4 | 思い煩い、後悔、自責感、抑うつ、焦りなどは彷徨う思いの兆候だ。もちろん敵の放つ火矢もある。 |
↑5 | イエスが笑ったかとか議論する人々がいる。イエスは実に感情豊かだった。人前でもよく泣いた。しかめっ面とフェイスは反比例するのだ。あと、目が笑っていない牧師の笑顔とも、ね💦 |
↑6 | ロゴスは真理を固定的かつ客観的に説明する言葉であり、レーマは即時的かつ主観的に語られることばである。 |
↑7 | この原語は”eusebeia”、ふつう「敬虔」と訳されている(1Tim 3:16☞神をエミュレートする)。 |
↑8 | しばしばレーマを得てからその現出までにタイムラグがある場合が多い。この間に私たちの思いは揺れる。自分の聞いたことが勘違いだったのではとか、思い込みだったのかとか。あるいはある種の待ち時間が必要となるのだ。私たちの魂は待つことが苦手なのだ。 |
↑9 | 先に述べたように、魂の諸機能が機能停止することではない。凝り固まった魂のエネルギーが一度抜かれるとでもいうべき状態に入る事。これは「脱魂的エネルギー状態」とも言えるかもしれない。もちろん十字架の働きによる。 |

今回の英国のキャンプでも語られたテーマ:ニュー・クリエイション。
最初のアダムは失敗した。そのため全地は呪われ、旧創造として虚無に服している(Rom 8:20)。しかし、神ご自身が受肉されたジーザスは最後のアダムとしてその死により旧創造を終わらせ、第二の人、新創造の初穂として復活された。私たち信じる者はその死と復活にあずかり、今やキリストを長兄とするYHWH家の一員にしてエロヒム属とされている。うちにYHWHエロヒムを宿し、その方がわれわれの肉を通して生き出て下さるのだ。これが敬虔(Eusebeia)の奥義(1Tim 3:16)。われわれはYHWHをエミュレートする(Eph 5:1)。
元々神[1] … Continue readingは人を内側も外側もご自身に似せて創造された。この時点で、人は神のような存在だった[2]サタンはこの事実に不足があるかのようにエバを誘惑した。またモーセはパロに対してとエロヒムとされている(Exo 7:1)。。そして地を統治することを委託され、すべての生物に名をつける権威を与えられた。
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。-Gen 1:26;2:19
この命名する行為は、実はそれぞれの生き物にとってのリアリティを創り出すことに他ならない。例えば、「ライオン」と命名された動物はコレコレの特徴があり、アレコレの行動をし、コウコウであると。これが私たちのマインドのうちに構築された「ライオン」のリアリティである。あるいは「ガン」。DNAが損傷され、異常なタンパク質が勝手に増殖し、生体を死に至らしめる。ステージ4ともなるとほとんど助からない、治療法は・・・云々。こうして私たちのマインドにとっての「ガン」というリアリティが構築され、いざガンと診断されると、このリアリティがマインドに展開され、その中に自分を閉じ込め、最悪死を覚悟する。つまりその名前がつけられたリアリティを信じて、「ライオンは怖い」、「ガンは致命的病だ」とマインドは受け入れてしまう。よって信じた通りになるのだ。
かくのごとく、名前を付ける行為は神から委ねられた権威であるが、これが善悪を知る木の実を食べた人類にとっては自縄自縛の結果を生むことになった。人は現象や事象に名前をつけて、フレームにはめ込まないと不安を抱くのだ。「○○主義」とか、「××派」とか・・・。こうしてマインドの中でリアリティを作り出し、それに基づいて意思決定をし、言動を決める。たとえそれが真実ではなかったとしても、その人にとってはあくまでもリアリティなのだ。
ところがイエスにとってのリアリティはわれわれのそれとは相当に異なっている。たとえば、男だけで五千人を五つのパンと二匹の魚で飽かせた事件。弟子たちはそんなパンと魚の数ではとても無理と焦った。が、イエスは悠々としていた。彼の信仰にとってはそれで十分だったのだ。あるいは嵐の中の船でも悠々と寝ていた。弟子たちは焦りまくったが、イエスにとっては一言で解決する事態に過ぎなかった。
イエスにとっての目に見えるリアリティはその信仰によっていくらでも変え得るものであった。彼はつねに霊的領域における真理を見ていたからだ。目に見えるものは目に見えないものが実体(フレーム)化されるものだからだ(Heb 11:3)。その目に見えない領域に働くのがフェイスだ(Heb 11:1)。かくしてイエスのマインドは常に親密なる父なる神との関係によって、その御父の能力とパワーが介入することを知っていた。かくして「地上に御心がなる」ことを実証したのだ(Rom 12:2)。ゆえにイエスを見た者は父を見た(John 14:9)。私たちの病気や問題を神がどう見ておられるかは、イエスの言動を見れば十分に理解できる[3] … Continue reading。
地上において神の国を現出させるためには、イエスの言動でわかるとおり、マインドのトランスフォーメーション、すなわちイエスのマインド(1Cor 2:16)がわれわれのマインドを占めることと;フェイスによって権威をもって語り出すことがポイントになる(2Cor 4:13)。語り出された言葉(レーマ)には神の国の力(デュナミス)があるのだ。アダムが喪失した権威と能力をイエスはその血によって贖い取られた。イエスの血の値段がどの程度のものか考えて欲しい(1Peter 1:19)。その血によって贖われた権威と能力がどれほどのものか!
私たちは新しい創造物として、十字架の前には存在しなかったまったく新しい種である(Gal 6:15)。ニュー・スピーシーズ。うちにキリストを死から蘇らせた聖霊、さらに父と子の内住を得ている存在(Rom 8:11;John 14:23)。YHWHエロヒムがうちに生きている存在。それはスーパーナチュラル! その内にいます神が語り出せば、ないものがあるようになる(Rom 4:17)。私たちが何かに名をつけることによりリアリティを作り出すことは、そのことの影(型)なのだ。
御心が天になるとおり、地にもなるように。この祈りはまさしく、アダムが喪失した統治を、今・ここで、現出させることに他ならない[4]ただし、再建主義との違いは前に指摘したので、繰り返さなさい。。キリストにある私たちはニュー・クリエーションであり、イエスの血の代価によって得られたその権威と能力を有している。だからパウロはコリントで肉的な騒乱にある兄弟姉妹に対して
相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、
ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。-1Cor 3:3
と叱責する。邦語訳では「単なる人として」のニュアンスであるが、原文にはそのような修飾はない。「人として歩んでいる」となっている。え?! ということは、本来人ではないことになる!? そう、私たちは新しい創造物、エロヒム属。イエスの血と脇腹の水により、御霊から生み出された、それまでは存在していなかった創造物。ホモサピエンスではなく、ネオ・ホモサピエンスである。今回のメッセでは光の国から来たウルトマンであるとなぞらえたが、そのとおりなのだ。ジーザスと同じにこの世のものではない。エイリアンである! その有する権威と能力はキリスト教が教えるようなものではない。死んだら天国に行けるといった幼稚園を卒業せよ! 今・ここで、自分のアイデンティティー・ポジション・アビリティー・インヘリタンスに覚醒せよ!(☞iPAIの覚醒)
ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ・・・-Ps 8:5
YHWHエロヒムはミケランジェロの絵画にあるギャップを埋めて下さったのだ。
References[+]
↑1 | この神概念は聖書の概念とは微妙にずれていることはすでに何度も指摘している。言語はYHWHエロヒムである。エロヒムとは霊的生命体の総称。その最も高きエロヒムがYHWH、つまり父・子・聖霊にいます創造主なるお方である。 |
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↑2 | サタンはこの事実に不足があるかのようにエバを誘惑した。またモーセはパロに対してとエロヒムとされている(Exo 7:1)。 |
↑3 | 病気や問題や貧困は私たちを清めるために神が与えしものと言ったキリスト教の考え方を捨てよ! 主の祈りは「天になるとおり、地にもなるように」だ。果たして天に病気や問題や貧困があるだろうか? |
↑4 | ただし、再建主義との違いは前に指摘したので、繰り返さなさい。 |

この記事は面白い。われわれが外界を認知し、認識し、構成する世界モデルは常に世の影響により無意識に書き換えを受けているのだ。これでね、ありもしない証言によって冤罪が起きるているわけ[1]ちなみに認知のバイアスと呼ばれる現象により、これが天使の羽と主張するニッポンクリもいるのだ。。
私たちは聖霊のメモリー(=ジーザスの記憶)でマインドを書き換えるわけ。マインドのトランスフォーメーション(メタモルフォーシス)。このとき神をエミュレートする。生きているのは私ではなく、キリスト。
We Christians are being re-wrote our mind with the memory of the Holy Spirit which is of Jesus Christ. The Holy Spirit reveals not Himself but Jesus to our spirit and remind us of Jesus’ words and deeds to glorify Jesus. Then we are being transformed into His likeness. We are not imitator but emulator of Christ, i.e. Christ living in us reveals Himself through our soul and body. It is the New Creature in Christ. We are Neo-Homo-Sapiens!!!
そしてあなたがたは、この世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって造り直され・・・ローマ12:2

数年前、ベニー・ヒンが自分の聖霊論が誤りであると悔い改めたことはすでに書いている。私は『リバイバル新聞』に記事を書くことになって、それまでまったく無縁であったニッポンキリスト教と関わらされた。で、目が点になる経験をたくさんさせられた[1]実に、感謝なことであります。
そのひとつが、「聖霊様、聖霊様、聖霊様」とチャントしてる人たちの存在。これは実に意外というか、違和感を覚えた。私にとっては霊的経験はすべて「キリストにあって(In Christ)」であり、呼び求めるべき御名は「ジーザス」のみ[2]イエシュアとは「YHWHが救い」の意味だ。つまりその名を呼ぶことは三位一体のエロヒムを崇めることである。1コリント1:1-2(1Cor … Continue reading。ワーシップもただジーザスにフォーカスせよ、と英国のColin Urquhartに指導された。
ちなみに私たちがジーザスを褒めていることに対して、ニッポンキ業界のある人が「一人の人だけを崇めるのは危険だ」とおっしゃった人もいたくらいだ。やれやれ・・・。どうも、この「聖霊様」はチョウ・ヨンギ辺りにルーツがありそうだが、ある種の臭いを感じるのだ。キムチ臭というか・・・。
「天に父がいて、隣にジーザス、地上には聖霊様、すでにジーザスの時代は終わり、今は聖霊の時代とか」-これは三神論だとかねてより指摘している。聖霊はジーザスの言葉とわざを証する霊、ジーザスは父のうちにおり、父はジーザスのうちにおり、聖霊により父と子が私たちのうちに住まわれる[3]これを神学用語ではぺリコレーションと呼ぶらしい。。ジーザスは父をエミュレートし、聖霊はジーザスをエミュレートする。聖霊はジーザスのメモリーを私たちのうちに実体化してくださる(☞聖霊のメモリー)。わたしたちはアダムにあった自分のメモリーによってアイデンティティーを確立するのではなく、新創造として聖霊によるジーザスのメモリーによって生きるのだ。この辺はアンドリュー・マーレーが『キリストの御霊』で説いているが、最近の業界出版界の劣化現象により(それは読者のレベルの反映であるが)、絶版らしい。
当時、『リバ新』に掲載した私の記事に対して、編集部にえらい剣幕で抗議の電話が来たり、一部で不買運動が起きたりもした。彼らは聖霊を知っているとのプライドがものすごい。だから私ごときに言われる筋合いはないのだろう。が、その反応がすでに何かを証明しているわけ。かくして私は論説委員を下ろされ、私の著書『真理はあなたを自由にする』は絶版となった。この本は聖霊派には実に不評であったようだ。
当時から私は「聖霊様」がおかしいと指摘していたが、ようやくベニー・ヒンが悔い改め、業界の空気も変わることを期待していたが、どうも相も変わらずの模様だ。これもなんとも情けないことだが、そもそも自分で聖書をキチンと読んでくださいな・・・。
かくして「聖霊様チャント」を唱えているうちにおかしな霊を招き寄せ、どうみても野鳥の羽であろう「天使の羽」とかで舞い上がる向きもあるわけ。せめてキチンと出るところに出て鑑定してくださいな。舞い散る「金粉」とかもね・・・。それから証ししましょう。そうでないと、神の栄光どころか、主の御名を貶めることになるでしょう。世の人はもっと冷静ですから!
追記:この機会に-私はいろいろな雑誌や新聞に記事を書いたりしておりますが、ニッポンキリスト教のいかなる教団・教派・組織・学校・メディア、さらにナントカ派やカントカ主義とは一切関わりがありません。あちこちの先生たちに義理もなければ、気を遣う必要もありません。よって言いたいことは言わせていただくのスタンスであります。そこんとこ、ヨロシク

YHWHW(=I-AM)は私の受ける分です。-Ps 119:57;Lam 3:24
前にメッセでも語ったが、使徒行伝では「恵みと知恵」とか、「恵みと力」といった表現が多い。つまり「恵みとX」。恵みの実体はジーザス、イエシュア(「I-AMはわが救い」の意)(John 1:14;17)。このXにはあなたが必要とするものを代入し得る。例えば、「恵みと癒し」、「恵みと必要の満たし」・・・。イエシュアは「わたしはI-AMだ(エゴ・エイミ)」と宣言された(John 8:58)。
神の名はYHWH。これは発音が忘れられているため、JehovahとかYahavehとか言われる。意味は”I AM THAT I AM”、「わたしはありてある」だ。そこでこの名前の使い方だが、I AM THAT I AM Xとして、このXに何かを代入するのだ。
わたしの名にあって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。-John 14:13
たとえば「X=癒し」ならばJehovah Rapha;「X=必要の満たし」ならばJohovha Jireh;「X=共にいます」ならばJehovah Shammah;「X=避けどころ・旗印」ならばJehovah Nissiだ。I AMなる方、つまりYHWHは私たちのXとなられるお方。究極には「X=わたし」だ。すでに私たちは神から生まれその種(スペルマ)を宿すエロヒム属(1Pet 1:23;James 1:18)(☞エロヒム属の誕生;神の新創造:神の霊的遺伝子工学)。
Whereby are given unto us exceeding great and precious promises: that by these ye might be partakers of the divine nature, having escaped the corruption that is in the world through lust. –2Pet 1:4
ここのdivine natureはStrongによるとこうある:
growth (by germination or expansion), that is, (by implication) natural production (lineal descent); by extension a genus or sort; figuratively native disposition, constitution or usage: – ([man-]) kind, nature ([-al]).
また別の辞書ではessence;native condition, birth;native species, kind,…。つまりそれは「属」あるいは「種」の意味であり、神属あるいは神種と言える。かくして私たちはエロヒム属にして、YHWH家のメンバーなのだ。繰り返すがエロヒムをGodとか神とか訳し、YHWHをLORDとか主とするところに問題があるのだ。
かくしてI AM THAT I AMが私たちのすべてとなられ、私たちはYHWHの本性、性質、属性を共有する。こうして私たちは神をエミュレートするのだ(Eph 5:1)。
YHWH、すなわちI AMのパワーに覚醒せよ(☞I-AMのパワー)。神はわれわれを通して現れたいお方。エウセベイアの奥義とは肉において現れる神(1Tim 3:16)。WindowsマシンでMacOSをエミュレートするように、人間性[1]すなわち、体と魂(知・情・意)。極私的にはこれを「五感のスーツ」と呼んでいる。において神性がエミュレートされる(☞神をエミュレートする-God-OS)。これがニュークリーチャー、神の新創造。
ただし、ウィットネス・リーが言うように「神と人が混ざって人が神となる(mingling)」のではないから注意。Windowsマシンは別にMacマシンになるわけではない。ソフトがMacをエミュレートするのだ。われわれの人間性が神になるわけではない。私たちの新しく生まれた霊がエロヒム属であり、その霊がいわばGod-OSとして働き、私たちの魂と霊を通して神をエミュレートするのだ。
あなた(=五感のスーツ)に欠乏や欠点があればあるほど幸いなのだ。それはI AMがそのXになるためだから! かくしてジーザスがデモンストレーションされたように神は肉においてマニフェスト(現出)する(1Tim 3:16)。そのとき、この主の言葉が成就する―
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。―John 14:12

キリスト教界には種々の教団や教派があり、これらがみなキリスト教会を名乗っている[1]これらのモノは人類の歴史において人間が勝手に組織してきた団体に過ぎない。。いまさらながらだが、キョウカイなる訳はもう手垢が着き過ぎで、エクレシアと言いたいことは前々から書いている。が、改めてエクレシアって何?・・・よく言われるのは、建物でもなく、教団や教派や宗教団体でもなく、召し出された人々の集合体。確かに、そうだ。
パウロ・・・が、コリントにある神の教会、〔すなわち〕キリスト・イエスにおいて聖められた者たち、召された聖なる者たちに〔この手紙を書き送る〕―私たちの主イエス・キリストの名を[2]呼び求める名は「聖霊様~」ではない。イエス・キリストであることに注意されたい。、いたるところで呼び求めているすべての者たちと共に―・・・-1Cor 1:1-2(岩波訳)
しかしながら、それは地上の五感の世界のオハナシである。では、エクレシアの霊的定義とは―
このエクレシアはキリストの体、すべてのものをすべてのものの中に満たす方の充満である。-Eph 1:23(岩波訳改)
ここを通常の邦語訳では、「・・・満ちているところ」とか「場」としてしまう。聖霊派ではその場に聖霊様の油注ぎがあり、聖霊様が充満されるとする。そこで「聖霊様の油注ぎ~」と強迫的に求め続ける。これがワナである。エクレシアとはキリストの充満そのものである(岩波訳注参照)。つまり、キリストである。See?
さらにこうある―
なぜならば、からだが一つでありつつも多くの肢体をもつように、また〔逆に〕からだに多くの肢体がありつつも一つのからだであるように、キリスト〔自身〕もまたそうだからである。-1Cor 12:12(岩波訳)
この節を用いて、しばしば、「私たち教会はキリストのからだであるから、それぞれに機能が違っているが、みんなで争わず一致しましょう・・」的な説教がなされる。さて、パウロはそう言っているであろうか?
ここをよく読んでほしい。「キリストのからだの場合もまたそうだから」とは書いていない! 「キリスト〔自身〕もまたそうだ」とある! 前者ならば確かによくキリスト教でなされる説教となるであろう[3] … Continue reading。が、パウロはここでキリストご自身とからだを区別していないのだ! つまりエクレシアはキリストなのだ。これがエクレシアの霊的アイデンティティーだ。
はあ? と言われる人にはひとつ質問しよう:あなたのからだは誰か? あなた自身であろう? 胴体と首を切り分ける人があろうか?それは死を意味するのだ。それらは同じいのちを共有し、同じ血液やリンパ液、そして神経系によって維持されている。
エクレシアとは霊的な宇宙的生命体であり、ひとりの新しい人である(Eph 2:15)。それはZoeそのものであり、われわれはその霊的生命体の中にバプテスマされたのだ。
主に接合させられる者はしかし、〔主と〕一つの霊なのである。-1Cor 6:17(岩波訳)
RWPはこうコメントする-
One spirit (hen pneuma). With the Lord, the inner vital spiritual union with the Lord Jesus
われわれの霊は主イエスとの霊的結合である、と。しかもキリストは二千前に十字架につけられたのではない。
And all those dwelling in the earth will worship him, those of whom the names had not been written in the Book of Life of the Lamb having been slain from the foundation of the world.-Rev 13:8
この「世の基が置かれる時から」を「いのちの書に名前の書かれていない者たち」にかけるのが通常の邦訳であるが、これは「屠られた小羊」にかかるべきである。つまり小羊は世の基が置かれる時からすでに屠られていたのだ! これが時空間を超えた霊的サブスタンス。それが神のフェイスにより時空間の中で実体化されたのがあの二千前の十字架である。霊の世界はこの時空間を超える! フェイスは永遠のNOWの実体化である! すべてはすでに完成していたのだ。これが神のフェイス。ジーザスはそのフェイスを持てと言われるのだ。
神のフェイスを持て。-Mark 11:22
これは通常、「神に対する信仰」と訳されるが違う。対格ではなく、属格。つまり、「神のフェイス」。WOW!!! 神はすべてを語り出すことにより創造された。それはフェイスのパワーだ。イエスは言われた、
わたしが話した言葉(レーマ)は霊であり、またいのちである。-John 6:63
このフェイスに生きる者たち、つまりエクレシアとはキリストの充満そのものなのだ。それはキリストであろう? なぜ? キリストのいのちの息吹を吹き込まれた存在だから(John 20:22)。この体(Body)と魂(Soul)はアダム由来であるが(極私的には「五感のスーツ」と呼んでいる)、それはわれわれのまことにアイデンティティーではない。われわれは新しい創造、すなわち神から生まれた霊であり、エロヒム属のもの、ヤーヴェ家の一員なのだ。ゆえにジーザスは詩編を引いて言われた―
そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々(エロヒム)である』と書いてあるではないか。神の言葉(ロゴス)を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。-John 10:34-35
ここで、YHWHを「主」と訳し、Elohimを「神」と訳したことが罠になると繰り返している。そのままにせよ。神のロゴスを受けた人は(1Pet 1:23)、もっと言えば、神のロゴスから生まれた者たち(James 1:18)はエロヒムである、とジーザスが証言したのだ。YHWH(I-AM)は父・子・聖霊なるお方であり、もっとも高きエロヒム。われわれはその神格を共有しないが、同じZoeのいのちを共有するエロヒム属なのだ[4]要するに磯野家に生まれた者は磯野波平のDNAを共有するが、カツオ君は波平氏とは人格を異にすることと同様である。。
が、YHWH(父・子・聖霊)なる神(エロヒム)は私たちの内に住まわれる。聖霊だけが内住されるのではない(John 14:23参照)。かくして神の霊から生まれた子供、God-OSをインストールされた私たち、つまりエクレシアは神をエミュレートするのだ(Eph 5:1☞神をエミュレートする-God-OS)。キリストは父をエミュレートされた、すなわち彼は自分からは何もせず、父が語ったことを語り、なさることをなした。そのキリストを聖霊が私たちのうちにおいて実体化、すなわちエミュレートする。かくして私たちをとおして、父がエミュレートされるのだ! ゆえにジーザスは言われた-
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名にあって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名にあって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。-John 14:12-14
YHWHエロヒムはこうして自己増殖されるのだ。これこそが神の国の増殖に他ならない。まことにこのとき、
天の父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天になるとおり、地にもなりますように・・・
との祈りが成就するのだ。
Glory be to God!!!

私は、日本語で聖書の真理を考えるな、それはニッポンキリスト教を生み出すだけだ。言語自体がマトリックスであり、霊的真理をそのマトリックスの回路に乗せて考えてはならない、と常々言ってきている。その最たる例が神の名前である。いわゆる「神」とか”God”とか、最近では「創造主」とかするむきもあるが、同じ罠に陥っている。
In the beginning God created the heaven and the earth.
もちろん創世記1章1節だ。これはKJVだが、このように英語に置き換えた時に、すでに真理は削られている。神はヘブル語の言語体系の中に霊的真理を啓示された。これをHebraic Roots Bibleを見るとこうある―
In the beginning Elohim created the heavens and the earth;
英語では”God”とされている単語は”Elohim”、それは複数形。メッセでも語ったが、通常、この複数形は父・子・聖霊の三位格を含意しているとする。現に動詞は単数形で受けている。ところがこの”Elohim”はあちこちに散見するのだ。通常、”gods”とか「神々」と訳され、それは人間が生み出した偶像の神々であるとする。ところがだ、詩編にこうある―
[A Psalm of Asaph.] Elohim stands in the company of the Almighty El; He judges in the midst of Elohim.
Until when will you judge unjustly, and lift up the faces of the wicked? Selah.
Vindicate the poor and fatherless; do justice to the afflicted and needy.
Deliver the poor and needy; and save out of the hand of the wicked.
They neither know nor will understand; they walk in darkness; all the foundations of the earth are shaken.
I have said, You are Elohim, and all of you are sons of the Most High.
But you shall die as men, and fall like one of the rulers.
Rise, O Elohim, judge the earth; for You shall inherit in all the nations.―Ps 82:1-8(HRB)
人間が作り出した偶像の神々ならば、何故会議など開くのだ? 直訳すると―
エロヒムは最も高きエル(単数形)の会議において立ち、エロヒムの間で裁きを行われる(1節)。
わたしは言う、あなたがたはエロヒムだ。最も高き方の息子たちである。しかし、あなたがたは人として死ぬ。支配たちのひとりのように落ちる。起きよ、おお、エロヒム、地を裁け。なぜなら、あなたがたは国々を受け継ぐのだから(6-8節)
この部分を受けて主イエスはこう言われる―
イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない) –John 10:34-35
と言われ、ましてやご自分が神の子であることを論証している。
さて、ここで問題は、私たちは人ではないか、なぜ神になれるのだ? よく「神化(Theosis)の教理」と呼ばれ、東方教会では普通に信じられている。西方ではいわゆる「聖化」だ。このときに、「人が神になる?」と考える人のマインドには<神=God>なる等式があるのだ。しかも、その<God=父・子・聖霊の三位格にいまして本質においてはひとりの神>とのマトリックスができている。ゆえに、「あり得ない!」となるわけ・・・。前に私がウィットネス・リーと同じことを言い出したとコメント欄に書かれた方がいるが、リーは神性と人性を混ぜ合わせて、神格は持たないいのちと性質において神になると言うのだ。まったく違うと言っておく。彼の”mingling(混ぜ合わせ)”の教理はナンセンスである(こちらを参照)。
さて、ここでカギになるのは、ジーザスは自分を「わたしはある(エゴ・エイミー)」と言われた(John 8:58;18:6)。この箇所は日本語訳では間の抜けた表現になっているが、ジーザスは「I-AM」と言われたのだ。つまりYHWH! モーセにご自分の名を明かされたとき、主は「わたしはありてある者」と言われた。これが最も高きエロヒムであるYHWHなるお方だ。ポイントがお分かりか? 創造主なるお方(いわゆる三位一体の神/God)はエロヒムであり、いろいろおるエロヒムの中の最も高きお方、その御名がYHWHである!
HRBの詩編82章の注にはこうある―
1節について―
A clear description showing the plurality of the Elohim family and Yahweh judging in the heavenly court.
6節について―
It is the wonderful potential of human beings to repent of their sins and be baptized in the family name of YHWH and have an elder lay hands on them for the receiving of the Ruach H’Chodesh (Holy Spirit) and become a literal child of Elohim, Joh 10:34, Rom 8:14-17.
一応訳しておくと―
罪々を赦され、ファミリーネイムYHWHの中にバプテスマされ、エルダーによりルアハ・ハ・コデシュ(聖霊)を受けるために手を置かれ、エロヒムの文字通りの子とされた人類の素晴らしい可能性である。
これが私たちがエロヒムである、と私が言う意味である。が、「私たちはYHWHである」とは言っていないことに注意してほしい! ヘブル語の回路に入るのだ。「私は神(God)である」と英語や日本語のマトリックスの中で考える人にとっては、トンデモ発言になろうが、それはその人のマインドのマトリックスを顕わにしているに過ぎない。勝手にオツムが空転加熱化するだけである。
私は前々から、私たちの霊は神の霊から生まれ、神のDNAを得ており、それは神聖な存在であり、神属(族)であると言ってきた(☞神属人類の誕生)。まことにこの理解はヘブル語の原典に忠実であったことがHRBやDr.Heiserの著書により、今回、証明されたのだ。これまでの白いキリスト教神学、特にニッポンキリスト教のマインド・マトリックスを大きく逸脱する言説とは思うが、彼らが聖書から外れているに過ぎない。
私たちはすでに完全であり、神聖な存在、神属人類であり、ニュークリーチャー、新生命体なのだ! それは神をエミュレートする。神のわざは天地創世の時にすでに完成されており(Heb 4:3)、十字架もすでに終わっていたのだ(Rev 13:8)[1]ここの邦訳は不正確。「天地創世の時からほふられた小羊」とすべきである。。それが時系列の中に現れたのがあの二千年前の十字架である。まったく新しい種であるから、これまでのマインドのフレームをはるかに逸脱する。ゆえに古いフレームから判断することなかれ。それは神の言葉を裁くことになるから。
and to the congregation of the first-born, who are enrolled in heaven and to YAHWEH the judge of all; and to the spirits of the just, who are perfected;-Heb 12:23(HRB)
詩編82編にはエロヒムの会議が描写されていた。そこでは最も高き方(比較表現があること自体が他にエロヒムが存在することを意味するのだ)が裁定を行っている。そしてここのヘブル書においては私たちが得た(完了形!ここも邦語は誤訳)のは、
シオンの山、生ける神(エロヒム)の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神(YHWH)、全うされた義人の霊
なのだ。これもエロヒムの会議である! 私たちのいのち(Zoe)はキリストと共に神のうちに隠されている(Col 3:3)。考えて見よ。なぜ不完全な汚れた地的な存在が神のうちに隠されることがあろうか。血肉は神の国には入れない。なおさら、神のうちにあり得るはずがない! 私たちの本質は霊であり、それはYHWHなる家名を持つ神(Elohim)なのだ。われわれ神の霊から生まれた存在は神属人類、エロヒムである! WOW!!!
神の敵、サタンはこのことが開かれることを恐れ、また嫌悪する。ゆえに躍起になってこの真理を攻撃し、封印しようとするのだろう。このことに関して彼は歯ぎしりをする。なぜ? それは彼自身が神になりたかったからだ。ゆえにその嫉妬と妬みが燃えるのだ。確かにこれは挑発的でもある。果たしてあなたはこの真理にアーメンするであろうか、それとも異端・カルト思想として拒絶するであろうか?これによりそれぞれの内にある霊の本質が明らかにされ、その後の霊的歩みを決定するであろう。ルアハ・ハ・コデシュならばそれは大いなる喜びにして、興奮を覚えるはずである。
キリスト教神学などのマトリックスから解放されよ[2]ヘブル語のマトックスについてはたとえばこちらをどうぞ。。五感によって見ることなかれ、判断することなかれ。この体は罪を宿す旧創造、また魂はいろいろと欠けがある。極私的にはこれを五感のスーツと呼ぶが、至聖所の形である立方体で象徴される霊はパーフェクト! 聖書はそう言っている。そのパーフェクト性がこの肉において現れるのだ。もちろんフェイスによる!

われわれはいわゆるキリスト教徒ではない。今週のメッセでも語ったが、キリスト教徒であっても、クリスチャンすなわち新しくエロヒムから生み出されたニュークリーチャーではない者たちが当たり前に存在する。聖書は宗教書ではなく、生命現象の書であると何度も繰り返している。新しい生命体として生み出され、新しい種とされること。これが聖書の啓示するところだ。
しかし、いわゆる白いキリスト教の教義や正統神学から見ると、ヤバいとみなされるであろう。が、聖書は元々ヤバいことを語っているのであり、人間のマインドに神をはめ込むことなどは到底不可能と知るべきである。
「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」とあるとおりです。-1Cor 2:9
私たちの体と魂は地のもの、それは五感の領域の存在であり、極私的には五感のスーツと呼んでいるが、これは神の国に入ることはできない(1Cor 15:50)。が、私たちの霊はすでに完全であり、それは神聖なもの、神の種(DNA)を宿す神から生まれた存在、つまりエロヒムである(☞Dr.Heiserの解説)。ここで注意してほしいのは最も高きエロヒム、父・子・聖霊の3パースンズにいますYHWHではない。パースンとして父・子・聖霊とは別の存在である。これはある家に生まれた子供は同じDNAを共有するが、人格としては両親と異なるのと同じである。
すべて神から生れたすべては、罪を犯さない。神の種が、そのうちにとどまっているからである。また、それは、神から生れているから、罪を犯すことができない。-1John 3:9[1] … Continue reading
この新しく生み出された霊については次のように言われている―
天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊・・・-Heb 12:23
私たちはすでにこの完全なる霊を有している! 神から生まれ、神のDNAを宿す、完全な霊こそがエロヒムの本質である。それはYHWHのファミリーである。こうしてジーザスはわれわの長子となられた(Rom 8:29)。肉の兄弟であっても、人格はそれぞれ異なるが、同じDNAの系列を共有している。それが発現するとき、同じ性質と同じ能力を発揮する。そしてわれわれ、ニュー・スピーシーズはさらにコロサイ書(AMPC)によるとこう定義されている―
For in Him the whole fullness of Deity (the Godhead) continues to dwell in bodily form [giving complete expression of the divine nature].
というのは、彼のうちにこそ神性の全充満<神というかた>が肉体の形をもっていつまでも宿られる<神性の完全な表現がなされている>からです。
And you are in Him, made full and having come to fullness of life [in Christ you too are filled with the Godhead—Father, Son and Holy Spirit—and reach full spiritual stature]. And He is the Head of all rule and authority [of every angelic principality and power].
そしてあなたがたは彼のうちにあり、満ち満ちた者とされる<満ち満ちたいのちになる>のです。≪キリストにあってあなたがたもまた、神、すなわち父、子、聖霊に満たされ、霊的に完全な身たけに達するのです≫。また、彼は、すべての支配と権威<あらゆる天使的主権と力>のかしらです。
これは『AMPC(詳訳聖書)』におけるVincentの注に基づいた訳である。いのちとはもちろんZoeであるが、私たちはYHWHの三位格(The Three Persons)とはもちろん異なるが(親と子の人格が異なるのと同じこと)、同じ成分と性質を有するエロヒム、つまり神属(族)である。カギは何か。「キリストにあって」だ。私たちのアイデンティティーと経験はすべてGodhead(神格)の全充満を宿す方との一体化による(Rom 6:5)。
このロマ書の「一体とされる」の原義は”sumphutos”、語源は”soon(結合)”+”phuo(育つ)”であり、KJVでは”implant together”と訳される。こうしてキリストと結合されて、キリストの内にインプラントされるとき、私たちもまたGodheadすなわち父・子・聖霊によって満たされ、霊的に完全な身たけに達するのだ。
考えても見よ、いかにして神の完全な身たけに達することができよう。それはスーパーナチュラルなのだ! それは体と魂の五感によらず、シックスセンスである霊から神のエネルギーによって生み出されるフェイスによる。弟子たちは、神のわざを行うために何をすべきかと聞いたが、ジーザスはこう答えた―
神がつかわされた者を信じること、これが神のわざである。-John 6:29
フェイスは神のわざであると! まさにスーパーナチュラルであろう。ここの「わざ」の原語は”ergon”、energyの語源だ。神のエナジーがそれを生み出す。信じます、信じます、信じます、とお題目を唱えることは無意味。あるいは「使徒信条告白、我はナントカやカントカを信じず・・・」もナンセンスとは言わないが、所詮宗教のお題目に過ぎない。ジーザスは、フェイスはあなたの何かではなく、神のわざだと言われるのだから!
かくして私たちはキリストの内において父・子・聖霊の神格の交わりに与り、神性満たされる。
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。-1John 1:3
神の性質にあずからせていただくようになるためです。-2Pet 1:4
私たちの霊から生まれたフェイスは、五感のスーツである魂と体において実体化され、Godheadが私たちを通して現出するのだ。これが肉において現れる神であり、これが敬虔(eusebeus)の奥義だ(1Tim 3:16)。敬虔を日本語のマトリックスで考えてはならない。かくして私たちは神のエミュレーターとなる―
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。-Eph 5:1
この「倣う」も日本語で考えると、顔を引き攣らせたいわゆるクルシチャンか偽善者を生み出す。それはサルがヒトの真似をするようなもの。いのちの次元が異なる。この原義は”mimētēs”、つまりエミュレートするの意味。前にも指摘したが、Windowsマシンのハードにおいて、Mac のiOSを走らせることができる。これをエミュレーションと言う。するとハードはWindowsマシンであるが、その表現・機能・能力・資質・属性などのスペックはまさにMacなのだ。お分かりだろうか? 私たちの肉体と魂は人間だ。が、神のDNAを宿す霊は神のスペックを有している。それはGodheadによって満たされており、キリストの身の丈に至るのだ(Eph 4:13)。そもそも神の新創造である新しいひとりの人、エクレシアはキリストの充満そのもの(Eph 1:23)[2] … Continue reading。
こうしてわれわれの体と魂という、いわばハードウェア(五感のスーツ)に神の霊、しかもGodhead(三神格)がOSとしてインストールされて、私たちがGodheadに満ちるとき、私たちを通して神が現出する(☞神をエミュレートする-God-OS)。WOW!!! これが、われわれはエロヒムである、という意味である。
ある種の人々が言うように、人性と神性が混ぜ合わされて(mingling)神化されるのではないから注意してほしい。あるいはニューエイジのように十字架の死と復活を経ずして、もともと神(god)であるというのでもない。われわれの本質はすべてキリストとのsumphutosによるのだ! キリストの属性・経験・資質・能力・資産などはすべて私のもの。御子を得た者はすべてを得ている(Rom 8:32)。私たちはいのちと敬虔にかかわるものはすべて得ている(2Pet 1:3)! 現在のもの、未来のもの、全世界は私たちのものである(1Cor 3:22)!
聖書をマジ受けしたら、これはヤバいのだ! 哲学やその影響下で組織されたキリスト教神学などに騙されてはならない。パウロはこう警告している―
だれもあなたがたを、彼のいわゆる哲学<主知主義>という内容のない欺き事<むだな空想、全くのたわごと>によって、戦利品として運び去る<あなたがた自身を捕虜とする>ことのないようにしなさい。〔それは〕人間の言い伝え<〔霊的な世界よりはむしろ〕物質的な世界についての人間のいろいろな観念>に従うものであって、宇宙についての初歩的な<基本だけの>教えに従い、キリスト<メシア>〔の教え〕を無視する粗雑な教えに過ぎないものです。-Col 2:8(詳訳聖書)
要するにニッポンキリスト教にありがちなオツムの空転現象に陥るな、ということである。繰り返すが聖書は生命現象の書、あるいは霊的いのちの取り扱いマニュアルである。神は十字架以前には存在していなかったまったく新しい種を生み出されたのだ。
霊のことは霊によって理解する!
References[+]
↑1 | ここを神から生まれた「者」とか、「その人」と訳されているが、誤訳である。原語は”pas”、つまり「すべて」である。それは霊である(☞神の新創造:神の霊的遺伝子工学)。 |
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↑2 | ここを「満たしているところ/場所」と訳すのは誤訳。「ある場があってそこに神の霊が満ちる」という聖霊派のイメージは誤り。エクレシアとはその方の充満(プレローマ)そのもの。岩波訳ではこれはキリストのことであるとしている。すなわちエクレシアとはキリストの充満である。私はこれをたい焼きで説明する。エクレシアとは餡子を入れる皮ではなく、餡子の充満そのもの。つまり餡子である。つまりエクレシアとはキリストである。 |

この詩編の御言葉はジーザスご自身も引用されている(John 10:34-36)。そして実に理解困難な聖句である。神の言葉を委ねられた者たちは神々である。神々?! はあ? 聖書は一神教でしょ? こう考えるであろうのが白いキリスト教神学のマトリックスだ。
さて―
神に愛されている者として、神に倣う者となりなさい。-Eph 5:1
この「倣う/imitate」と訳された単語の意味が重要であることを前から指摘している。すなわち猿が人間を真似ることがナンセンスであるように、人が神に倣うこともナンセンスである。この原語を見ると”mimétés”、語源は”mimeomai”。その意味は”imitate”あるいは”emulate”。ここでは前者よりも後者がよい。神をエミュレートせよ(Eph 5:1)。WindowsマシンにおいてMacOSを走らせることをエミュレーションという。ハードはWindowsだが、その機能・性質・属性、すなわちスペックはMacだ。
神は肉において現れる-
敬虔(eusebeia)の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、神は肉において現れ・・・―1Tim 3:16。
ジーザスはこれを初穂としてデモンストレーションされた。そしてわれわれ[1] … Continue readingも長兄ジーザスに従う者として同じことを行う(John 14:12)。そのためにわれわれをキリストと共にエロヒムのいのちにインプラントし、ご自身がわれわれを通してマニフェストする。
あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。-Col 3:3
わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。-John 15:26-27
すなわちわれわれはエロヒム属であり、YHWHの家族なのだ。
【賛歌。アサフの詩。】エロヒムはエルの会議の中に立ち、エロヒムの間で裁きを行われる。・・・わたしは言った「あなたたちはエロヒムなのか。皆、エルヨンの子らなのか」と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。エロヒムよ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。-Ps 82:1-8
ジーザスご自身がここを引いておられる(John 10:34-36)。くれぐれも聖書の真理を日本語で考えることなかれ。それはニッポンキリスト教というマトリックスを生み出す。エロヒムとは霊的生命体の総称である。その最も高きエロヒムがYHWH―エロヒムを神、YHWHを主(LORD)と訳すのがトリックである―この方が創造主であり、父・子・聖霊のホモウシオスにして三つの神格にいますいわゆる神(GOD)である[2]“GOD”なる単語も元々はバビロニアの神の固有名詞であったことをDr.Heiserは指摘している。。
この6節についてはHebraic Root Bibleの注が次のように述べている。
It is the wonderful potential of human beings to repent of their sins and be baptized in the family name of YHWH and have an elder lay hands on them for the receiving of the Ruach H’Chodesh (Holy Spirit) and become a literal child of Elohim, Joh 10:34, Rom 8:14-17.
つまりわれわれエロヒムから生み出された者たちはエロヒム属のYHWH家のメンバーとされるのだ。ちょうどFrancis Frangipaneが同じことを説いているので紹介しておく。これを外したら、キリストが内に生きることも単なる宗教と化す、と。
You see, there is not a different Jesus in Heaven than He Who dwells in us. This means that the Spirit of Jesus Christ, the lover and redeemer of mankind, reveals Himself through us. This unveiling of Christ in us is the only thing that satisfies our quest to know the substance of God. Anything less than, or other than, Christ living in us is mere religion.
お分かりだろうか、天にいますジーザスと私たちのうちに住まわれるジーザスには何らの相違もない。これは、愛であり人類の贖い主であるジーザス・クライストの御霊が彼ご自身を私たちを通して現わされることを意味する。この私たちの内なるキリストの現れこそが神のサブスタンスを知りたいという私たちの探究心を満足させる。うちに生きるキリスト、これ以下のものあるいはこれ以外のものは、単なる宗教に過ぎない。(強調はDr.Lukeによる)
聖書は宗教の書でもなく、キリスト教の教典でもなく、倫理道徳の書でもなく、人生論の書でもない。それは生命現象の書なのだ。
References[+]
↑1 | 私はジーザスのユニーク性を否定していない。神の独り子あるロゴスは第二神格、その方が肉体を取られた存在がジーザス。これを二性一人格論と呼ぶ。ジーザスは元より神の独り子であるが、われわれはアダム系において死に、キリスト系において復活しジーザスと結合された者、ニュークリーチャーとしてYHWHを内に宿し、その方をボディと魂を通して現わす存在である。だからジーザスはわれわれを兄弟と呼ばれる。すなわちわれわれは人格においてはもちろん異なるが、霊的生命体として同じDNAを共有する存在である。 |
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↑2 | “GOD”なる単語も元々はバビロニアの神の固有名詞であったことをDr.Heiserは指摘している。 |

邦語訳聖書はターミノロジーがいい加減で、訳が恣意的であると常々指摘している。サイエンスではターミノロジーをこのように扱うことはあり得ない。例えば、いわゆる「盲腸を切る」といったセリフは医学的には不正確だ。「虫垂を切る」が正解。盲腸と虫垂は異なる! 同様に霊と魂、また心も異なるのだ。
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、
心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。-エペソ4:22-24
ここにある「心の底から」とか、「心の深みまで」とかいう訳は違う。岩波訳は「あなたがたの〔思念を規定する、神の〕霊でもって新しくされ」となっている。いつも言っているが、日本語で真理を理解してはならない。ギリシャ語を当たるのが一番だが(これも写本の問題があるが・・・)、KJVでは
And be renewed in the spirit of your mind; –Eph 4:23
つまり、思い(nous)の霊(pneuma)において新しくされる、だ。ここでポイントは、心と思い(マインド)は異なること。このあたりが日本語のあいまいさで、なんとなく分かったつもりになるだけの人がほとんど。私の著書『神の新創造-聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー』でも指摘したが、マインドは霊的領域と物理的領域の接点である。霊的な存在は私たちのマインドに働きかけることができるのだ。
同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。-Gal 4:3
この諸霊(stoicheion)は新改訳では「世の教え」、岩波訳では「宇宙の諸力」と訳されている。それは霊的体系であり、私たちのマインドにアイデアとしてまかれ、その想念の種は膨らみ、体系化され、思想となり、共産思想のように政治体制や国家をすら生み出す。つまり霊はマインドの深くに侵入し、時に浸食することすらある。だから、霊的な「死ね」という声を聴いて、自殺する人々も出るのだ。
神の霊も同じように、私たちのマインドに入り込みたい。神の霊によってドライブされたマインドは、すなわちキリストのマインドである。私たちはすでにキリストのマインドを持っているのであるが(1Cor 2:16)、それは神の霊、すなわち聖霊によってエネルギーを得て、ドライブされる。私たちのマインドが肉によってドライブされるとき、すなわち肉の思いは神に敵対する(Rom 8:6-7)。ゆえに私たちのマインドをドライブする源は神の霊であるべきなのだ。
では、自分が今、肉によってドライブされているのか、霊によってドライブされているのか、どうやって知るのか。単純である。
肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。-Rom 8:6
死の感覚を覚えるのか、いのちと平安の感覚を覚えるのか。私たちの体は本来中立である。義の武器ともなり、不義の武器ともなる(Rom 6:12-13)。注意すべきは、パウロの述べる肉(flesh)は、別に肉体のことだけを指すのではない(☞肉について)。神の霊から分離された肉体と魂(思い・感情・意志)のあり方を言うのである。マインドは肉体の大脳(ブレイン)と同期している。が、大脳の機能のみではない。先にも書いたが、想念はブレインを超えて存在している。だから、霊の領域にタッチできる人はその想念を受信できるのだ。イエスはよく人の考えをご自分の霊で見抜かれた。
かくしてこの世の体系は人々の想念の体系でもある。私は時に本屋などで、うるさいと感じることがある。別に雑踏や騒音がうるさいわけではない。そこには想念が渦巻いているのだ。ちょうど客引きから声をかけられるように、アレコレの本からそのような誘いを受ける。かくして世の想念を受信し、それを思いめぐらしたりするならば、たちまち死の感覚を覚えるであろう。が、ワーシップや聖書の言葉に触れ、主を想いめぐらすとき、内側は甘く、温められて、いのちと平安、そして愛と希望とフェイスが沸き上がるのを感じることができる。ゆえにパウロはこう勧めている:
ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。-2Tim 2:8
この「思っていなさい」の原語はμνημονεύω、Thayerによれば、”to be mindful of”、つまり思いを満たすことである。このとき、神の霊は私たちのマインドにペネトレート=浸透する。要するに私たちのマインドは神の霊のペネトレーションを受けるのだ。こうして私たちの魂(Soul)、つまり思い・感情・意志はキリストのそれを反映するようになる。
彼はその魂で思う通りの人間だ。-Prov 23:7(原語)
もっと言えば、メッセでも語ったが、私たちのハードウェアとしての人間性にキリストのソフトウエアがインストールされるようなものだ(☞神をエミュレートする-God-OS)。ジーザスはその人間性から神を現された。私たちも同じ。私たちの人間性を通して、神が現れるようになる。WOW!これが敬虔の奥義(1Tim 3:16)。「敬虔」なる単語はよく分からないが、英語ではgodliness、原語はeusebeia、簡単に言えば神性の表現である。神は人間性を通してご自身を現される。これがエクレシア、キリストの復活のいのちを吹き込まれた新生命体であり、神の新創造だ(⇒神のエコノミー)。
最近、欧米ではマインドフルネスなる用語をよく聞くが、問題は何によってマインドフルにするか? その答えは・・・ご自分でどうぞ
キリストの言葉を豊かに住まわせなさい。-Col 3:16
追記:最近ではマインドのあり方がDNAをすら変化させることが報告されている。