内村鑑三クオーツ

今回、維新からバッチをつけた金子道仁なるボクシが御言葉にではなく、党議決定に従ったという、既定路線の事態が起こったことはすでに知られている。私はこの人物については必ず後悔することになるとここに書いた。安倍の死をも予言したが、まあ、大平正芳の例もあるわけでして。

対して、いわゆる無教会主義の内村鑑三なる人物がかつていた[1] … Continue reading。天皇を拝することを拒否して旧制一高を追われた不敬事件で有名である。なんというコントラストであろうか。

あの「エホバ、モルモン、統一と関係ありません」は私が1983年の東大五月祭のシンポジウムの招待状で使った標語だが、今や全国版となっている。しかし「正統なプロテスンタトの教会です」などを付け加える向きがあり、「あなたの街のお気軽な教会へお気軽にいらしてください」と世に媚びを売る連中も多い。

さて、今回のメッセでも紹介したが、内村のことばを引用しておこう:

教会が社会と和するときに教会も腐敗し、社会また腐敗す。教会が社会と戦うときに教会も健全にして社会もまた健全なり。教会と社会とはもともと敵にして味方にあらず、二者はその本性において相和すべきものにあらず。

エクレシアとは「エク(from)+カレオ(called)」であり、呼び出された者たち、世から分離された者たちの意味である。教会なる単語はまったくハマルティアである。私は「召衆」と呼ぶ。その分離された者が世にへつらい媚びるとは・・・。世(コスモス)は敵であると内村は明確に述べている。今日、それはカルトだ~と叫ぶ向きもあろうが、世の物差しを当てることがそもそもの間違いである。

我かキリストか-我がなすのではない。キリストが我にあってなした給うのである。ゆえに我が事業ではない、キリストの事業である。
我は死んだものである、キリストが我にありて生きかつ働き給うのである。これは信仰ではない、また理想でもない、事実である、何よりも確かなる事実である。
それゆえに我はキリスト者であると言うのである。我がキリストを信じるからではない、我は死してキリストが我にありて生き給うからである。
このことを疑う者はキリスト者ではない。これは世の人から見れば大いなる秘密である、しかしながらキリスト者から見れば何よりも明らかなる事実である。ガラテヤ2章20節

私を通してキリストが生きる、キリストは父を100%現わされた。その方が私たちを通して現れる、すなわち肉において現れるYHWHである。これがエウセベイアの奥義である。ゆえに世の人には秘密である。

そして内村はこう結論する-

キリストの如くなるにあらず、キリストとなるなり。その手となり、足となるなり。われは己に死してキリストをしてわれにありて活かしむるなり。
さらばわれは欲せざるもキリストのごとくならざるをえず。われとキリストの関係は道徳にあらず、生命なり。キリストのわが教師にあらず、わが救い主なり。
わが生命なり、また復活なり。

エペソ5章1節(Eph 5:1)を「神に倣え」として偽善かクルシチャンに落ち込む者たちが多い。この原語の意味がエミュレートであることはすでに述べている。「神をエミュレートせよ」である。

内村にとっては「エロヒム」の概念はまだ開かれていないから、私たち(の霊)はエロヒムであるとまでは言っていないが、実質的には生命現象であるとすることから同じことを指摘している。

メッセでも語ったが、ソドム・エジプト化したいわゆるキリスト教とは分離せよ。

こういった先達がいたことを知り、やや孤独感を覚えていたDr.Luke的には大いなる励ましを受けたところである。

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1 彼は人間による教団などの組織としての教会を否定したのであって、エクレシアを否定したわけではない。ここにあげた引用を読めば明らかであろう。

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