iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ

このポストは先のこの記事の続編として具体的事例を紹介する。天下のニッポンキリスト教の象徴たる日本基督教団の歴史である。
ここで主はあえてどんな野菜よりも大きくなると指摘する。考えてみよ、なぜあえてどんな野菜よりもと言われるのか。比較対象として野菜はまことにふさわしくない。なぜなら野菜は決して巨大化はしないからだ。ここで主が指摘されたいことは巨大な木へと変質することである。その木には鳥が安全な場所、つまり自己の生存の担保を求めて集まるのだ。John Darbyは次のようにコメントする:
That which had been sown as a grain of mustard-seed becomes a great tree; a symbol that represents a great power in the earth. The Assyrian, Pharaoh, Nebuchadnezzar, are set before us in the word as great trees. Such would be the form of the kingdom, which began in littleness through the word sown by the Lord, and afterwards by His disciples. That which this seed produced would gradually assume the form of a great power, making itself prominent on the earth, so that others would shelter themselves under it, as birds under the branches of a tree. This has, indeed, been the case.
We next find that it would not only be a great tree in the earth, but that the kingdom would be characterised as a system of doctrine, which would diffuse itself — a profession, which would enclose all it reached within its sphere of influence. The whole of the three measures would be leavened. I need not dwell here on the fact that the word leaven is always used in a bad sense by the sacred writers; but the Holy Ghost gives us to understand that it is not the regenerative power of the word in the heart of an individual, bringing him back to God; neither is it simply a power acting by outward strength, such as Pharaoh, Nebuchadnezzar, and the other great trees of scripture. But it is a system of doctrine that should characterise the mass, pervading it throughout. It is not faith properly so called, nor is it life. It is a religion; it is Christendom. A profession of doctrine, in hearts which will bear neither the truth nor God, connects itself always with corruption in the doctrine itself.
(DeepL訳)一粒のからし種として蒔かれたものが大樹となり、地上の大きな力を表す象徴となったのです。アッシリア、パロ、ネブカデネザルは、このみことばの中で、大きな木として私たちの前に描かれています。主が蒔かれ、その後弟子たちが蒔いた言葉によって、小さなうちに始まった王国は、そのような姿をしていることでしょう。この種が生み出すものは、次第に大きな力を持つようになり、地上で目立つようになり、他の人々は木の枝の下に鳥がいるように、その下に身を隠すようになる。実際、このようなことがあった。
次に、この王国は地上の大木となるだけでなく、教義の体系として特徴づけられ、それ自体が拡散し、その影響力の範囲内にあるすべてのものを取り囲む職業となることが分かる。3つの対策全体が澱んでしまうのです。しかし、聖霊は、澱という言葉が個人の心の中にあって、その人を神のもとに連れ戻す再生力ではないこと、ファラオやネブカドネザル、その他の聖書の巨木のように、単に外側の力によって作用する力ではないことを私たちに理解させてくれるのである。しかし、それは大衆を特徴づけるべき教義体系であり、大衆全体に浸透している。それは、いわゆる信仰でもなければ、生命でもない。それは宗教であり、キリスト教である。真理も神も信じない心で教義を公言することは、常に教義そのものの腐敗と結びついているのです。
まことにこの指摘通りのことがニッポンキリスト業界に起きたのだ。すなわち戦中の日本基督教団である。ちょっと調べればわかることだが、その欺瞞の度合いは唾棄すべきレベルである。以下、WIKIからの引用:
その始まりは伊勢神宮への参拝からだ―
・1941年:6月24日に、日本基督教団が成立する。11月24日附で宗教団体法に基づく宗教団体として文部大臣より認可。教派ごとに部を構成して11部制を採る。
・1942年:教団統理、富田満が伊勢神宮に参拝して日本基督教団の設立を報告し、発展を希願する。12月15日、第1回日本基督教団総会にて部制廃止、皇軍将兵に対する感謝を決議。
まさに自己欺瞞の極み、精神分裂病である。その主義はなんとこうある!(よくもまあ、ぬけぬけと言えるものだが)
公会主義(こうかいしゅぎ)とは、いかなるキリスト教の教派にも属さないキリスト教無教派の理念、理想。日本基督教団は公会主義を継承する唯一の団体である。
いやビックリ。これで柏手叩いて、主にある兄弟を官憲に売ったのだ。自己欺瞞の極致。そして日本基督教団統理富田満曰く、「われら天皇の臣民は自己を否み、自らの十字架を負うて八紘一宇、大東亜共栄圏の建設に邁進すべし」と。柏手を打つ。


忌まわしき教団、戦後はGHQにすり寄って生き延び、靖国反対、九条改正反対と左傾化して自己欺瞞を正当化し、種々の利権を得て今日に至る。天皇制廃止、靖国反対、平和憲法維持、九条改正反対と振り子が左へ振れた。自我分裂の典型的症例、根底にあるのは自己欺瞞。自己欺瞞を隠蔽するために表向きは「正義」を掲げ、同じことを繰り返す強迫反復に陥る。まさに白い墓である。対して異端であるエホバの証人などは自身の信条にあくまでも忠実であったため迫害を受けたのだ。
一応彼らの言い訳を聞いてあげましょう―
そもそもニコライ派(教団教職制度)はイエシュアが憎みかつ自ら戦うと言われる。彼らの立つところは恐るべき場なのだが、無視するか、自己正当化するか、真にメタノイアするかが問われるわけ。彼らはすでに主の裁きの元に置かれている。重々しいガウンをまとい、キリストの名を盾に講壇に立ち、自分勝手な説教をする度に主の裁きの燃える炭火を自らの頭の上に積む商売人が牧師なる連中だ。
まことに現在われわれが見ているニッポンキ業界(のみならず世界的にも)の光景は、世において大きな木へと変質し、邪悪な(特に動機において)鳥が自己のアイデンティティやプライド、そして生存の担保を求めて集まる光景そのものである。
だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。-Matt 23:8
イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」-Mark 23:38-40
表向きの看板とその内実が見事に乖離している、まさに白く塗られた墓である。このふたつの絵がニッポンキリスト教の本質を表している。


岸田秀氏の指摘通り日本は自我分裂しているが、その集約的縮図がニッポンキ業界である。その病理については真のメシア・家シュアを否定して自己欺瞞に堕ちたユダヤ人と似ているが、詳細は私の論文を参照されたい。
現在、日本基督教団の牧師たちが嬉々としてワク接種を受けていることから、かつての事態が再現されるであろうことは容易に分かる。彼らは世との結婚(ペルガモ)により、世の価値観とシステムにはめ込まれているのだ。心ある兄弟姉妹よ、忌まわしき者からは自らを分離せよ。キ業界において分離主義者だとかラベルを貼られることは幸いである。なぜなら主はこう言われるからだ-
また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。-Rev 22:10-12

また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、 それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。-Matt 13:31-32
この譬えは何を意味するのだろうか。いわゆるキリスト教が全世界に拡大し、神の国が地上に出現することを言うのだろうか? しかし、イエシュアはこう言われている:
しかし、人の子が来るとき、地上に信が見られるであろうか。-Luke 18:8
ああ、主よ、なんという不信仰なお言葉・・・。このふたつの聖句のコントラストはいったい何であろうか。カギは聖句は聖句によって解き明かすことだ。
まず、マタイの聖句は、天の国に毒麦が混じる警告の文脈にあり(Matt 13:24-30)、続いてからし種→野菜→木→鳥が宿る、と展開する。カギは野菜が木に変質することだ。野菜は食することが可能であるが、木は不可能である。つまり生命を支える養分となるか否かの違いである。エクレシアは神の国の地上における派出所のような存在であり、それは新しい生命体である。その生命を保つためには養分が必要である。木はそれにふさわしくない。
次に鳥である。聖句を見ると-
種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。-Luke 8:5
道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。-Mark 4:15
鳥が何を意味するか明らかであろう。また啓示録には
倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。 すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである。-Rev 18:2-3
つまり大バビロンは鳥の巣窟である[1] … Continue reading。それはエクレシアを養うどころか、汚れた霊どもの巣窟である。そもそもこの主の譬えはダニエル書に起源がある。ネブカドネザルのこの夢についてダニエルはこう解き明かす―
あなたがご覧になった木、すなわち、生長して強くなり、その高さは天に届いて、地のどこからも見え、その葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があり、その下に野の獣が住み、その枝に空の鳥が宿った木、王さま、その木はあなたです。あなたは大きくなって強くなり、あなたの偉大さは増し加わって天に達し、あなたの主権は地の果てにまで及んでいます。-Dan 4:20-22
まさにバビロンである。ネブカドネザルはこの後、7年間狂気に落ちる。ちなみにScofieldはこの譬え話についてこう注釈している―
The parable of the Mustard Seed prefigures the rapid but unsubstantial growth of the mystery form of the kingdom from an insignificant beginning Act 1:15; Act 2:41; 1Co 1:26 to a great place in the earth. The figure of the fowls finding shelter in the branches is drawn from Dan 4:20-22. How insecure was such a refuge the context in Daniel shows.
(DeepL訳)
「からし種のたとえは、王国の神秘的な形態が、取るに足らない始まりから(使徒1:15;2:41;1コリ1:26)、地上の大きな場所へと急速に、しかし実体のない形で成長することを予言するものです。鳥が枝に隠れ家を見つけるというのは、ダニエル4:20-22から引用したものです。そのような避難所がいかに不安定であったかは、ダニエルの文脈が示しています。」
これこそ現代の社会化された世の組織としてのキリスト教の姿である。エクレシアはからし種から成長し(エペソ=好ましい)、ローマの迫害を受けて(スミルナ=苦難)後、コンスタンチンが公認し、さらにローマ国教会として政治形態と結合し(ペルガモ=結合)、カトリックによる中世の暗黒時代を経て(テアテラ=香の祭事)、いわゆる宗教改革でプロテスタントの諸教派が生じ(サルデス=少数者)、分裂を繰り返して現代に至る(フィラデルフィア=兄弟愛からラオデキヤ=大衆の意見へ)。そして今やあらゆる宗教を統一しようとするNew World Religionへと突き進んでいる。
エペソにはニコライ派の実行があったが、ペルガモではニコライ派の教えへと組織化され、そこにはサタンの王座が置かれ、宗教としてのキリスト教が確立する。この後は世界史に言われる通りのキリスト教史が展開する。ニコライ派とは「ニカオ(民)+ラオス(支配・管理)」の合成語、つまり今で言う教団教職制度にほかならない。主は「あなたがたはみな兄弟だから先生と呼ばれてはならない」と戒めた(Matt 23:8)。エクレシアの関係性はいのちのつながり、兄弟性にある。対して教団教職制度は組織として、ちょうど官僚制度におけるキャリアとノンキャリアのような相を設定するものであり、主はこれを憎みかつ戦うとまで言われるのだ(Rev 2:6;16)。

かくして七つのエクレシアは当時の断面的エクレシアのあり方のみでなく、時系列的なあり方をも提示しているのだ。イエシュアはキリスト教の教祖でもなければ、聖書はその経典でもない。教団教職制度に基づくキリスト教なる宗教は世に組み込まれた大バビロンの構成要素である[2] … Continue reading。世から救い出されたらそこはキリスト教なる宗教の捕囚地だったと。エクレシアは生命に満ちたみずみずしい野菜なる存在、人目には立派な木へと変質してはならない。かくしてセコンド・エクソダスを勧める次第。
References[+]

現代では「キリスト教の会」はちんまりと社会化されて、無害無益なる世のひとつの宗教組織に堕している。「正統」なる看板を掲げて、ぼくのオリジナル標語「エホバ、統一、モルモンとは関係ありませーん」、「あなたの街のお気軽な教会へどなたでも歓迎します~」とね。
「そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった」(19:23)。
「さて、この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります」(24:5)。
まことの福音を宣べるなら必ずただならぬ騒動を起こし、疫病のような人間、異端者の烙印を押される。今のように、いつもニコニコボクシ顔、なんでも愛して赦してみんなでおててつないで仲良くね~ってなものではない。
この点、かつての不敬事件を引き起こした内村鑑三などはその模範である。対して世に迎合した日本基督教団などは柏手を叩き、それにどころか主にある兄弟姉妹たちを官憲に売ったのだ。まことに主の目に忌まわしき存在である。
「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」。-ルカ16:15
時代も相当に煮詰まり、各分野において倒錯現象が起こり、善を悪、悪を善とする世相が当たり前になっている中で、真の福音を語るには官憲に売られるリスクすらあるのだ。
まことに腹をくくる時代である。

- 引用聖句:Exo 27:4-6;2Sam 22:6;Job 18:8;Ps 9:16;Prov 1:17;Eze 47:10;Matt 4:20;13:47-48;John 21:6-11 etc.
- 次回:2022年11月20日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。


この記事はおもしろい。われわれは常に時間を意識、時間に追われていると感じている。だが、現代物理学の最前線では時間は幻想であると言う。過去・現在・未来は共にあるのだ。
われわれのフェイスも時空間を超える永遠のNOW。創世記の「はじめに」は時間の端点だが[1]この「はじめに」はベレシート、その中に全福音がコード化されていることは著書でも紹介している(☞「初めに神は」の秘密@YouTube)。、ヨハネの「はじめに」は時空を超える。我々は世(時空連続体)にはいるが、イエシュアと同じに世のものではない(ヨハネ17:14)。このデュアリティを意識することが世に飲み込まれない秘訣。
キリスト教なども世に属する宗教にすぎない。エクレシアはキリストの充満(Eph 1:23)、エロヒムの増殖(Col 2:19)。それはフィジカルな時空間を超えるスピリチュアルな生命現象である。世で何かを達成しようとか、世で自分を建て上げようとか、もがくのはやめよ、それは病むだけだから。スピリチュアルなアイデンティティを確立すること。
この完成している永遠のスピリチュアルなリアリティーを<今・ここ>で実体化することこそがフェイスである。すなわちそれは永遠が時空間に切り込む瞬間ともいえる。
道元の時間論は前後ありといえども裁断せり。現在に生きること。これを鈴木大拙はやはり永遠が切り込むと表現している。ただし彼の永遠はわれわれの意味での永遠ではないが。意識の流れを言うのだ。さらさらと流れ、何物にも心を留めおくことのない状態である。心は何かに固着する時に煩悶するものだ。
ちなみに左脳の梗塞でその機能を失った脳科学者の体験についてはこちらを参照されたい。左脳はシーケンシャルであるが、右脳は一瞬ですべてを把握する。過去を悔い、未来を案ずるのは左脳のシーケンシャルな機能のためだ。この意味でフェイスするときには多分脳の機能にも何か特徴的な現象が出現するものと思われる。
かくして私たちがキリストのうちにインプラントされ、キリストがうちに生きる経験は、まさに<今・ここ>におけるリアリティーであり、それは永遠の領域において生きているともいえるのだ。なぜならキリストは今、いのちを与える霊として(1Cor 15:45)、<今・ここ>に介入してくださるからである(Gal 2:20)。
References[+]
↑1 | この「はじめに」はベレシート、その中に全福音がコード化されていることは著書でも紹介している(☞「初めに神は」の秘密@YouTube)。 |
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- 引用聖句:2Tim 3:16;Rom 6:6-8;Gal 5:24-26;2Cor 10:4;Col 2:8;3:1-5 etc.
- 次回:2022年11月13日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

今年のノーベル賞の受賞テーマの一つがエンタングルメント(量子もつれ)の立証だった。波動関数を共有するふたつの量子が時空間を超えて相関するというものであるが、これで局所的実在性が否定されたのだ。つまり時空間に存在するものであれば、相対性理論によって支配されるので、互いの情報は光速を超えて伝達することは不可能。ところが量子もつれの状態にある量子は高速を超えて互いに関係し合うことができることが証明されたのだ[1]このためアインシュタンインはSpooky(気味の悪い)減少だとため息をついた。
白いキリスト教神学の論争にカルバンVSアルミニウスなるものがある。救いは神の定め(確定論)によるのか、人間の自由意志によるのか(偶然論)と争って、互いに異端~とやりあっている愚かなテーマである。これについてはかつて再建主義の故富井氏とディスカッションしたことがある(⇒ログ)。
結論を言えば、判断不能。人間の認識能力には確定と偶然を識別することは不可能なのだ(⇒過去関連記事)。さらにいわゆる自由意志なるものが幻想であることも分かってきている。
では救いとは何だったのか。かつてこんな記事をモノしたことがあるが、さらに進んで議論したい。
エンタングルメントなる現象は確定していない2つの量子状態の重なりが観測によって確定するとするものだが、スピリチュアルな経験もまったく同じ。救われた状態と救われてない状態が霊的領域では重なりとなっており、私がフェイスした瞬間に救われた状態が私において確定する。フェイスは聖霊のプロンプトに私が応答した結果である。自由意志と思っているものは実は後付けなのだ。
われわれはキリストとスピリチュアルな波動関数を共有し、エンタングルメント(もつれ状態に)されている。よってイエシュアは言われた、「地で解くことは天でも解かれており(完了形)、地で縛るものは天でも縛らえれている(完了形)[2] … Continue reading」(Matt 16:19)。それは時空を超えたスピリチュアル・リアリティあるいはサブスタンス。YHWHのわざは天地創生のときより完成されている(Heb 4:13)。われわれは肉体にておいてはこの物理的な五感領域に生きているが、霊においてはすでにキリストとともに御座についている(Eph 2:5)[3]だからパウロは肉体的には離れている者を霊においてっ裁くことができたのだ(1Cor 5:3)。。まさにエンタングルメントである。
重なり状態にある量子は観測によってひとつの状態に確定する。それと同様にあらゆる可能性の重なり状態としてスピリチュアル・サブスタンスは存在しているが、それをフェイスはこの五感の領域において確定する。それがわれわれの経験である。
いま、信(フェイス)とは願われる実質(サブスタンス)、まだ観測されていないこと(プラグマ)の現出(エビデンス)である。-ヘブル11:1(私訳)
キリストとエンタングルメントし、御子の信(pistis)のうち(en)に生きるってこんな安楽はないでしょう。
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信のうちで、生きているのである。-Gal 2:20(改)
邦誤訳の問題点はすでに指摘しているが、たとえば「洗礼」なる訳語も大変にまずい。これは単なる儀式だ。真理はバプテスマ、それは浸し込むこと。我々はキリストにインプラント(Gk.sumphutos)されたからキリストとひとつ(Rom 6:5;1Cor 6:17)。
そもそもフェイスは霊(2Cor 4:13)(☞過去記事群)、エンタグルメントによりキリストと私はその霊を共有している。「使徒信条告白~」なんてものは単なる式文に過ぎない。
かくして私たちはキリストとバイブレーションを共有しているだけでよいのだ(☞バイブレーションについてhこちらの記事群を参照)。
その時、聖霊は霊の感光またプロンプト(促し)を与えてくださり、それに応答する形(これを自由意識と思っている)で私たちが語り、また働くとき、天のサブスタンスが地に実体化する。まさに天になるとおり地にもなるのだ。このメカニズムはフォティーゾと言われることはすでに説いている。
キリストと私たちはその人間性、死と復活、昇天、そして着座を共有しているのだ。この事実をサタンは隠しておきたい。だから信仰に励め~、聖化~、奉仕伝道、献金、会堂建造、教勢拡大、日本民族総福音化の決起集会~と騒ぐわけ。ほとんど喜劇のレベルではあるが、以下自粛。

善と悪の領域は共にナチュラルな五感の領域、いのち(Zoe)の領域はスーパーナチュラルな霊の領域である。イエシュアが「わたしの羊は門なるわたしを通して出入りする」といわれる通り(John 10:9)、イエシュアというポータルを通ってこのふたつの次元に生きるデュアルな存在である。それはフェイスによって可能となる。

善と悪の平面からいのちの平面に跳躍すること、これがフェイス。そして霊のサブスタンスを五感領域において実体化する(substantiation)。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質)、まだ見ていないプラグマ(完成された事)のエビデンス(現出)である。-ヘブル11:1(私訳)

以前にも紹介したユバル・ハラリ氏の『ホモ・デウス』。
認知革命、農業革命、科学革命を経て、人類はそのテクノロジーを駆使して「神」になるとするシナリオだ。アウトラインはこちらを参照のこと。
エデンの園における蛇の誘惑は「善悪を知る知識の木の実を摂れば神(エロヒム)のように善悪を知る者になれる」だった。エバが見ると、その木は食べるに良く、見るに良く-ここまでは他の木々も同じ-、さらに賢くするように(この属性は他の木々にはない)エバの思いには映ったのだ(Gen 3:5-6)。
ここでポイントは何か。「神(エロヒム)のようになれる」とサタンは唆したが、実は、他の生物は種に従って創造されたのだが、YHWHエロヒムはアダムをわれわれ(エロヒム)の型(image)と様(likeness)に従って創造される意図だった。とりあえずは神の型(image)に従って創造された(Gen 1:27)。その実質であるいのちの木の実を摂れば、文字通りYHWHエロヒムの様も得られたのだった。が、蛇は先取りして、創造の時点ですでに神の型であった人をしていのちの木の実を摂ることを妨げたのだ。すなわちサタンは人を幻惑し、YHWHエロヒムの本来の意図を無効にすべく誘惑したのだ。
かくして人はあたかも手の型に作られた手袋のように、内実を喪失したまま自らの肉体と魂をもって生きる状態に落とされた[1] … Continue reading。この在り方と生き方を肉(flesh)とパウロは呼ぶ。
さて、パウロはアテネにおいて詩人の言葉を引き、福音をこう宣べ伝えている―
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』、『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。
わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。-Acts 17:26-29
ここの子孫とは”genos”である。Strongはこう説いている-
From G1096(ginomai); “kin” (abstractly or concretely, literally or figuratively, individually or collectively): – born, country (-man), diversity, generation, kind (-red), nation, offspring, stock.
すなわち血縁、親族、同族として生まれた種族あるいは存在である。問題は内実を喪失したままであること。手袋には手が入れば本来の機能を発揮し、存在意義を発揮する。神の子孫である人も、その内実である神のいのち(Zoe)を得れば、本来の機能と存在意義を再獲得できるのだ。そのためにイエシュアは自らの肉体を裂いて生けるいのちの道となられ、生ける天からのパンとして、またいのちを与える霊として私たちのうちに永遠の霊のいのちを分与してくださったのだ(1John 3:24)。
彼の戒めを守るものは彼の中に留まり、彼もまたその人のうちに留まる。ここから彼が私たちのうちにおられることを知るのである。〔すなわち〕彼が私たちに分け与えてくださった霊によって。-1John 3:24(岩波訳)
そのいのちとはキリストご自身である。
あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。-Col 3:3-4
かくしてYHWHエロヒムの型に創造されて、一度はその様(内実)を失った人も、イエシュアの成し遂げられた御業にフェイスによって与かるとき、その内実である永遠のいのち(Zoe)を得て、YHWHエロヒムの型と様へと回復されるのだ。すなわち、新創造であるわれわれニューマンは、キリストにあるニュークリーチャー、われわれこそがホモ・デウスの体現者である。ゆえにもはや(もともとだが)、神のようになろうと努める必要は全くない。すでにYHWHエロヒムの型と様を得ているからである。
サタンの誘惑の本質はYHWHエロヒムのパースンと意図と業を否定することだ。この意味で昨今のイーロン・マスクやピーター・トゥールの唱えるトランスヒューマニズムもその延長線上にあると言える。それはあくまでも善悪を知る知識の木の実による試みだ。しかるにわれわれはすでにトランスヒューマニズムの実体であることを知り、かつ味わい、かつ体現すること。これが「生きることはキリストである」[2] … Continue readingというパウロの証しの意味である(Phil 1:21)。

呪いと裁きの善悪二元論の道から祝福と恵みのいのちの一元論の道へ回帰せよ-聖書と歎異抄の共通項-
FBで面白い画像を見つけた。John Rockの言葉である[1 …
FBで面白い画像を見つけた。John Rockの言葉である[1] … Continue reading。人に誤りを指摘することと、人に真理を得させることは別のことである、と。まさに律法と恵みの致命的相違である。

YHWHエロヒムはエデンの園の中央に二本の木を植えた。善と悪を知る知識の木といのちの木だ。アダムとエバの行為は繰り返すまでもないが、その結果として彼らはYHWHエロヒムのように「善と悪を知る者」になった(Gen 3:22)。そしてYHWHエロヒムは彼らが罪を得たまま永遠に生きることがないようにいのちの木への道を遮断された(Gen 3:24)。
アブラハムに対する約束は律法を超えてひとつの種、すなわちキリストだったのだ(Gal 3:16)。律法はアブラハムの430年後にモーセを通して天使らを介して与えられたが、アブラハムへの約束を無にすることはなかった(Gal 3:17)。パウロは「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです」(Gal 3:20)と指摘している。つまり律法は「人が神に従うならば神の祝福を得る」という双務契約であるが、恵みは「神がすべてをなす」という片務契約である。
ゆえにYHWHのロゴスたる方が物質化されて人となられた、つまり両当事者となってくださった(主客一体)。イエシュアは神・人(God-Man)である。これが恵みである。

そしてキリストたるイエシュアは死と復活を経て命を与える霊となられ(1Cor 15:45)、今やわれわれのうちに住まう(1John 4:13)。生きているのはもはやわたしではなくキリスト、肉にあって生きるわたしは御子のフェイスにあって生きる(Gal 2:20)。最初の「生きているキリスト」はスーパーナチュラルなスピリチュアル・リアリティ、「肉にあって生きている私」はナチュラルなフィジカル・リアリティだ。つまりわれわれはデュアル・アインデンティを有している[2] … Continue reading。
さて、ひるがえってわが国の親鸞の『歎異抄』にいわく、
みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ、さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まうすところの念仏をも自行になすなり。
要するに善悪の二元論に生きることは、法則の不思議に頼らず、自分の心のやりくりに頼むことであり、自力の業である、と言うわけ。まさにクルシチャンの精神状態だ(苦行の道)。かくして親鸞の結論は
弥陀[3] … Continue readingの誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
弥陀の誓願不思議に助けられて生きることが極楽浄土への道であると。親鸞はそれを易行という。聖書的にはイエシュアのいのちの御霊の法則に助けられまいらせるわけ。まさにガラテヤ書の言うところである。これが神の国に生きるコツ。絶えず善悪の基準で計らって生きることは死の道、呪いと裁きの道、いのちで生きることは赦しと祝福の道である。

また親鸞は「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言ったが、イエシュアも言われる、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(Matt 9:13)。つまり「正しい人」は招かれないのだ。なんという神の逆説。
宗教の道にある人は自力により善悪を判断して、罪を犯さないように、キリスト教徒として正しく立派な振る舞いをして生きようとする(自力本願)。つまり招かれていないことを心底では知っているゆえに努めるのだ。しかし招かれていることを知っている人はそのようなモガキはしない。弥陀の誓願ならぬ神の意志により助けまいらされるからである(他力本願)。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。・・・事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。-Eph 1:4;2:8
ちなみに道元も自身の作為によらず法に乗る生き方をこう書いている、
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。-正法眼蔵現成公案
そしてわれらの主はこう言われる:
わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の魂の命(原語)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために魂の命(原語)を失う者は、それを救うのである。
鍵は魂の努めによらず、自己を忘れ、自己から離れること。まことに心身脱落・脱落心身するとき、いのちの御霊の法則が作動するのだ。すると、律法の要求も満たされる(Rom 8:4)。お分かりだろうか。それはうちなるキリストが働き出てくださることである。かくして主は言われる、
わたしが生きるのであなた方も生きる。-John 14:19
律法は単に善悪を指摘するだけであるが、キリストはその実体としてうちに生きている。まさにJohn Rockの言葉通りであろう。罪を指摘するのではなく(Rom 8:1)、義としてくださった(2Cor 5:12)。うちなるいのちなるキリストが生き出てくださること。そのために神であるロゴスは人となり(ヒュポスタティック・ユニオン)、両当事者として債権債務関係を全うしてくださった(Col 2:14)。まさに主客一体のリアリティーである。ウォッチマン・ニーは「われわれは自発的にキリストを私とせよ」と言っているが、まさにこのことである。
かくして今、うちなるキリストはフェイスにより実体化される。
フェイスのうちにあることを確認せよ、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。-1Cor 13:5(私改)
フェイスによってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。-Eph 3:17
フェイスの道は神の誓願(御心)により、うちなるキリストに助けまいらされる道、平安と安息、そして満足の道である。
References[+]
↑1 | 彼は経験論的認識論を提唱。人は生まれたままではタブララサ(白板)であり、経験により世界を認識するとする。対象そのものが持つ性質を第一性質、主観的なそれを第二性質とし、第二性質のみをわれわれは知るとした。現代的にはクオリアである。光の本質はある波長の電磁波であるが、脳はそれを色として構成する。まさに「色即是空」だ。 |
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↑2 | パウロは死の体から解放されて神に感謝すると叫んだ後、自分は肉では罪に仕えており、マインド(原語)では律法に仕えていると証言している(Rom 7:25)。 |
↑3 | 仏教はもともと礼拝対象を持たない。釈迦も人間であり、自分を礼拝するなと命じており、葬式などにも関わるなと戒めている。「弥陀」とか「法」と言うのは宇宙の法則。禅者はアダムにある人間の自然な法則に従って生きることを志向するわけだ。自分のはからいをやめて(=心身脱落)、「万法に証せられる」わけ。しかしキリストのいのちは得てはいないし、私たちの意味では救われない。救いはイエスの名によることは言わずもがなだ。その意味でユダヤ教が実体たるキリストの影であったように、「弥陀」も真理の「影」と言える。 |

渇きを覚えること、主に渇くこと。これはわれわれの霊的いのちにとって、もっとも重要なこと。それはいのちの正常さの証明なのだ。西城秀樹も長嶋も、水分補給をせずに過酷な減量エクササイズで今の状態を招いた。渇きを無視すること、あるいは感じないことはいのちに関わるのだ。サマリヤの女のように、世の水を飲む者はさらに渇く。ジーザスの与える水はまさにその渇きを止める。が、ますます主ご自身に対する渇きは増し加わるのだ。まことに、今、渇く者は幸いである。
だれでも渇いている者はわたしの元に来て飲むがよい。-ヨハネ福音書
マイ・スピリチュアル・ジャーニー、すべてはすべてはここから始まった・・・。

- 引用聖句:Isa 55:9;Eph 2:6;Matt 12:28;Mark 2:8;7:39;Mark 13:11;16:20;1Cor 14:2 etc.
- 次回:2022年11月6日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

- 引用聖句:2Cor 1:20-22;Eph 2:15:3:18-20;4:13-16;23-24;Col 3:10 etc.
- 次回:2022年10月30日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質・実体)、まだ見ていないことのエヴィデンス(証拠・現出)である。-ヘブ11:1(私訳)
— Luke Karasawa(唐沢治) (@Doctor_Luke) October 20, 2022
※「こと」はpragma、その意味は「成し遂げられた事」である。

わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。-2Cor 2:10-11
神は人の内に霊を造られた(Job 33:4)。霊は内なる神の光。その霊は人の心の奥深くも知る。実は自分の霊は自分のことをよく知っている。が、人の心は歪んでいる(Jer 17:9)。その真実から逃れるために、実にいろいろな企てをする。自分が満たされていること、自分には信仰があることなどを、自分で証明しようとして・・・・。ああ、それ自体、自分の内なる空虚を証明しているではないか。そのような作為は、自分の真実から逃れるための哀しきもがきなのだ。自分が霊的に空虚であることを認め、あらゆる取り繕いを放棄して、真に頭を垂れた者は幸いだ。
聖書で「良心」(これは現代用語である)と訳された単語はsuneidesis、sun(with)+eido(percept)、つまり「共同知覚」だ。英語ではco-perceptionである。私の霊と御霊が共に証しすることだ(Rom 8:16)。岩波訳では「内奥の意識」と訳している。マラキ書では「霊の名残」とも(Mal 2:15)。それは聖霊と共なる知覚であり、霊の感覚である。よってヘブル書では「感覚により善と悪を識別する」とあるのだ(Heb 5:11)。感覚はもちろん生命現象である。
ちなみに、新改訳(訳のバイアスが多すぎる)ではpneumaをほぼすべて「御霊」と訳すが、pneumaが聖霊と明示されている箇所は20数か所であり、他は人の霊か聖霊かの判別が難しい。新共同訳は聖霊と思われるものを”霊”と表現しているが、それは訳者にとって「思われた」だけだから要注意。真理は、両者は区別ができない、のだ。
例えば、2コリント4:13(2Cor 4:13)の”spirit of faith”についてVincentは
Spirit of faith: not distinctly the Holy Spirit, nor, on the other hand, a human faculty or disposition, but blending both; faith as a gift of the Spirit of God.
と注解する。私の霊と聖霊がブレンドされていると。そもそもフェイスは霊、スピリットである。「使徒信条告白~、われはナントカを信ず~」などは単なる式文だ。霊的リアリティ(サブスタンス)を知覚(eido)し、また感覚(aisthētērion)すること、これが霊の機能であり、そのリアリティに沿って生きることがニュークリーチャーの標準。
そしてそれを外すことが罪、つまりハマルティア(的外れ)。それはいわゆる善悪とは関係ない。善を行ってもこの標準を外れるならば立派な罪である。そこでメタイノイア(思い改め)、すなわちマインドの方向を主に向かって変えることが求められるのだ。それはスピリチュアル・ターゲットに照準を据えることである。
主に結合される者は主とひとつの霊になるのである。-1Cor 6:17

白いキリスト教のボクシのいう罪赦された哀れな罪人メンタリティから解かれよ!

- 引用聖句:1Cor 3:3;1John 4:15;5:10-11;3:2Eph 1:18-23;3:12;Mark 11:13-25 etc.
- 次回:2022年10月23日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。