いのちと死のはざま
- 2007/11/02 19:39
- Category: 信仰
わが奥さんの父、つまりわが義父が本日召された。享年92歳。よくぞここまで・・・。私が結婚した当初は主イエスに対して反抗し、私もよく嫌味を言われ、数々の挑発を受けたもの。しかしある時に主に触れられ、主に服した。主は必ず勝利される。私の父の時も思ったが、この生を離れる瞬間はまことに不思議なもの。肉体を脱いで、まさにどこかへ逝ってしまう。そのデスマスクは安らかだった。
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内科医のDr.Skyさんがご自身のBlogでとても面白い論考を書いておられます。「クリスチャンは飲酒してもよいのか?」これを善悪の道の上で考えると、ケンケンガクガクになるのですが(=霊的な死)、いのちの道のディメンジョンが開かれると、まったく異なるパースペクティヴから見ることができるようになります。
教会(エクレシア)とイスラエルの関係も、この二つのディメンジョンから見ないためにひたすらややこしく、感情的になります。いわゆるイスラエルも、律法も、キリスト教も、神学も、何とか主義もみなこの善悪の道の上のものに過ぎません。
しかし私たち(=エクレシア)はキリストのいのちをインプラントされて、いのちのディメンジョンに生きる者です。これが開かれると、まさにキリストにある自由をエンジョイできるでしょう!ただ最近はニッポンキリスト教において、そこにあえていたい人々も多いようです。彼らの主義などに触れるとどうもそのプライドを傷つけて反感と怒りを買うだけですので、語るときは人を選ぶ必要があることを痛感しています。
【参考】
・聖書が究極的に語ることとは<旧新約聖書の鳥瞰図>
・神のエコノミー-いのちのディスペンセイション-
・教会とイスラエルの関係について
・祭司制と律法について