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トップ > 2009年01月04日

本日の二冊

正月に真澄のあらばしりをちびちび飲りながら楽しんだ二冊。

ファイル 671-1.jpgまずは、ここにお立ち寄り下さるオジサン・オバサンたち、「チョリ~ッス!」って知ってます?「加湿器」に「空気清浄機」の意味は?「メタリスト」、「ヤカリスト」、「らいがん」、さらに「しゃみ~す」・・・と。もうひとつ「モナる・ユダる・リチる」(これらは簡単か・・・)。これらはみな「ギャルサー」などの渋谷に生息する若者のコトバで、「渋谷語」と言われるもの。その辞典が『渋谷語事☆典2008』。いや~、実にオモシロイ。このようなコトバを生み出す感性が実にミズイのだ(これはDr.Luke語)。まあ、私の場合は彼女たちと会話する必要性もあって研究しているわけだが、オジサン・オバサンたちも読むだけで楽しめますね。お正月もそろそろ終わりですが、時間がある方はまったりとどうぞ。

ファイル 671-2.jpg二冊目は『禅と武士道-柳生宗矩から山岡鉄舟まで-』。禅の歴史はお釈迦さまに始まり、唐時代に禅として一応の完成を見、今日まで営々と続くわけだが、鎌倉時代に禅はあらゆる分野で花開く。すなわち剣道、花道、茶道、画道・・・と。ある意味、唐代の野生的な禅が日本的に繊細なあり方へと昇華されていくわけだが(この辺は鈴木大拙の『日本的霊性』に詳しい)、特に武士たちは絶えず死と直面し、死と生を超える生き方を模索して、禅に行き着く。宮本武蔵から柳生宗矩まで、彼らは剣禅一如を目指した。その究極が前にも紹介した柳生但馬守のとどまらぬ心である。何にも執着せず、絶えずさらさらと流れている心。死と生と言う二元的世界ではなく、死の時は死だけ、生の時は生だけと言う道元の『正法眼蔵』の「生死」に説かれている生き方である。

「寒暑到来、如何が回避せん」と問われて「寒時は闍梨を寒殺し、熱時は闍梨を熱殺す」。寒さには寒さになり切り、熱さには熱さになり切る。すなわち熱いとか寒いという分別を超えた世界に生きること。ブラザー・ローレンスが言うとおり、苦も楽も同じものとなる世界。これが「無」である。そして生と死を超えるのは「大死一番、絶後再蘇」。己を退けた時(=死)、復活があるのだ。そもそもこの世界に寒いとか熱いとか、楽とか苦とかはない。それは己が勝手に作り出しているだけ。この自己が生み出す価値判断の世界に、ぶつぶつと生きているのが人間なのだ。そのぶつぶつ言う己を離れよ、そうすればいのちのままに自由に生きるであろう。

自分を縛っているのは己自身と知った人は幸いだ。かくして禅者は「水月道場に坐して、空華の万行を修す」のだ。これを西田幾多郎は「わがこころ/深き底あり/よろこびもうれひの波も/とどかじと思ふ」と詠んだ。実は十字架はまさにこの己を対処してくれるのだが、己を生かさんとする現代のいわゆるキリスト教徒にはほとんど届かない世界ではある。

と、書き出すとキリがなくなるので、今晩はこの辺にて、バッチャ~ッス!

富士一周

ファイル 670-1.jpgファイル 670-2.jpgファイル 670-3.jpgファイル 670-4.jpg

伊豆からの富士山、冠をかぶった富士山、山梨側からの富士山、そしてわがバルコニーから富士山。ぐるっと一回りです。

湯巡りの旅

28日から昨日まで伊豆と諏訪の温泉を堪能してきましたが、故郷の諏訪もじっくり回るとかなりイイ湯があるのですね。

伊豆は修善寺の宙(SORA)。昨年、このご時世に何故かボーナスがかなり増えており(^^)、ちょっと奮発した次第で、31,500円の価値はありました。風呂は大浴場に寝湯、サウナ、露天とある上に、オプションで貸切の露天風呂も。これは早朝入ったのですが、後ろを山に、前は修善寺温泉街を一望しつつ、冷たい空気に晒して縮んだ筋肉が、ちょうどイイ温度の湯に浸かると、とろっーと溶ける瞬間が最高。食事は2時間半かけて懐石風の和コース。フカヒレもたっぷりで、地酒の「あらばしり」も実に美味い。日頃は食事も節制しているので、こういった機会に思いっきり楽しむわけです。実に極上の時間を味わいました。

上諏訪温泉は諏訪湖に面した片倉館の千人風呂。ここは片倉財閥設立の由緒ある施設で、考古学博物館などもある。湯はややローマ風の深い風呂。けっこうゴージャスな雰囲気を味わえる。ラドン湯もあり、入ってみたが、何がどう効いているのかは不明。

ついで蓼科温泉石遊の湯(「いしやす」と読みます)。これは蓼科の別荘地の森の中の湯で、露天風呂。周りは杉林で、近くには縄文時代の尖り石遺跡や、高級別荘地三井の森もある。元々は鉄鉱石の採取場に湧いた湯。最近はけっこう有名になり、車はほぼ県外車。やはり冷たい空気(標高約1,000㍍だからかなり冷える)に晒しつつ、熱い湯に出たり入ったりと楽しめる。外人も来ていたが、夏でもかなりいいと思われる。

諏訪も周りを山に囲まれて、一種の箱庭みたいな地であり、若い頃はここで人生を過ごすことには絶望的な気分がしたが、この歳になって、外から見ると、なかなかイイ地である。山小屋の夢も捨て難く、蓼科は実家からも40分程度で、かなり狙い目かも知れない。来年は御柱祭なので、今年あたりから諏訪は燃える。この地は7年に一度のこの祭りで諏訪人としてのアイデンティティとエネルギーを得ているのだろう。昔は御柱祭りなどはまったく白けていたが、来年はちょっと観てみようかと考えている。

東京生まれの私には、「東京生まれ」と幼稚園から高校まで過ごした「諏訪育ち」のアイデンティティの分裂があり、「故郷は遠くにありて思ふもの、よしや異土のかたひとなるとても、かへるところにあるまじや・・・」と室生犀星的に思っていた時期もあったのだが・・・。私もやや歳を取ったかなぁ・・・。

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