聳え立つ"馬鹿の壁"
- 2009/10/20 20:30
- Category: 信仰
- Tag: ニッポンキリスト教
ニッポンキリスト教、一方に何でもありの世界で憎悪と敵意による裁判、他方に妊娠中絶した女性を公開処刑にせよとする再建主義があり、まさにケイオスの一言。その再建主義の富井氏がディスペンセイションについてこう言われる:
とくに「再臨が近い」「世の終わりが近づいた」というスローガンのもとに若者を集め、宗教活動に動員した教会はいま、がたがただ。
根無し草を作るからだ。
若者にとってこの刹那主義は、猛毒である。
再臨切迫の教えによって、彼らは人生設計ができない。
「職業訓練?家庭建設?子供の教育?それどころではないでしょう。再臨が近いんですよ!」
実はこの私が体験者なのだ。
私は学生時代にディスペンセーショナリズムのプレ・ミレを信じていた。
将来設計がまるでできなかった。自動車の免許を取ることすら無駄に思えた。
就職も仕方がなくしたようなものだ。本当は、預言者のようになって終末が近いことを訴えたかった。
あれから数十年。終末は来なかった。
職業や家庭生活に対する準備をまったくしないままに青春時代を伝道に費やした。
まるでオウムの出家信徒のようだった。
リバイバル運動とは、若者を根無し草にするための敵の策略ではないかとすら思う。
少なくとも不健全なものであることは確かだ。
私は艱難期(7年)前揚挙説は取らないが、立派なプレミレにして、ディスペンセイションの立場を取るのだが、私は自動車の免許も取ったし、マンションも購入したし、DINERSの学士会カードやAMEXのプラチナカードも取得したし、子育てや家庭生活も楽しみ、職業でもそこそこの収入を得ているし、JAZZライブに映画や温泉を楽しみ、山と海など自然を満喫し、「住林期」を迎えて山小屋も手に入れる予定だし、そのためには肉体も鍛え、とても50台のボディではないし、若い子たちとも遊んでいるし・・・、と目一杯人生を満喫しているのだ。さらに音楽や絵画、陶芸にも手を出したいのだ・・・。しかし何よりも主の再臨を待ち望んでいる。
彼の若き頃の悲惨な経験は果たしてディスペンセイション神学の故なのだろうか、と素朴な疑問を感じるのだが。自らを省みることをお勧めしたいと思う。そして何より再建主義で同じことを繰り返さないことを祈る次第だ。ちなみにこれは彼ばかりではなく、ニッポンキリスト教で悲惨な経験をしたと、責任を他に転嫁する諸氏にも言いたいと思うのだ。多くの場合、彼ら自身が基底となる病理を有しているケースが多いのだ。しかし、まあ、主にあって、その富を自分のものとし、人生を楽しむことができる人はそれほど多くはないのかもしれない、と最近はつらつらと思う次第。宗教ではなく、いのちなるキリストなのだ!
わたしが来たのは、羊にいのちを与え、しかも豊かに与えるためである。
追記:霊的原則は「あなたの信じたとおり」だ。ある意味、他の者がどうしようもないほどの自己責任の世界。要するにオトナとして生きる必要があるわけ。