Utility

Calendar

< 2010.5 >
S M T W T F S
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

WORLD CLOCK

COUNTER

    Access.....
    Yesterday......
    Today.............

KF_SITE

FOR MEMBERS

KF_PODCAST

YOUTUBE ARCHIVE

OUR WORSHIP

TWITTER UPDATE

INSTAGRAM UPDATE

PRAY FOR ISRAEL

KINGDOM FAITH(UK)

NEW LIFE CHURCH(UK)

QRcode

BIBLE SEARCH

Entry Search

Recent Entry

Recent Comment

未承認
2017/08/07 18:42 未承認
Re:聖書をキリスト教から解放せよ!
2015/04/22 09:49 菊千代
Re:「当たり前」が崩れる時代
2015/04/20 07:42 Luke
Re:出版への状況
2015/04/20 07:41 Luke
Re:出版への状況
2015/04/19 21:55 toshi

Recent Trackback

PJ 高橋清隆氏の記事が出ていました。
2008/06/25 20:45 AAA植草一秀氏を応援するブログAAA
負のレガシー
2008/06/18 16:03 リチャードの日記
キリスト者とインターネット
2008/06/18 09:21 キリスト教 プロテスタント 聖書 信仰
キリスト者とインターネット
2008/06/18 09:12 キリスト教 プロテスタント 聖書 信仰
産声を上げたKFC、、、、、
2008/05/05 12:10 thelongstreamingully

タグ一覧

Link

Entry

トップ > 2010年05月22日

教理主義と聖句主義

プールとサウナで午前を過ごし、これから映画、そして創価学会へと向かいます。

さて、「ニッポンキリスト教は当初から闇の中である」と喝破された、ここでも何度かご紹介した『聖書が分かると世界が分かる』の著者鹿島春平太氏が興味深い記事を書かれています。題して「スモールグループ(SG)が世界を救う」。

この中で特に面白いのは、ニッポンキリスト教では教理にはまっていないと不安になるという指摘。いわゆる正統教理(と自分で思いこんでいる枠組)から外れると異端・カルトとして断罪されるからだ。つまり自分の計る計りで自分が計り返されているわけ。かくして教条主義のガチガチで自分を縛るわけ。要するにニッポンキリスト教的マインドコントロールだ。そこからエクソダスし得た人は幸いだ。ちょっと長い引用ですが、鋭い観察ですね。

SGメソッドを始めると、参加者の心にある種の「引っかかり」のようなものが出てくるはずです。解釈自由への恐怖感がそれです。日本では特にそれが強いはずです。

なぜなら、日本のクリスチャンの大半は、教理主義(一つの解釈を正統として、他を異端と考える行き方)しか体験していないからです。日本の教会がほとんどそればかりできているのです。そういう教会に入って、信仰(信頼)生活を続けてきているから、必然的にそうなるのです。

<スモールグループは迫害の歴史>
聖書解釈自由の原則で行うSG方式の集いは、歴史的に迫害され続けてきました。アメリカ大陸でもそうでした。どうしてそうなるか?

個々人が解釈自由の原則でやるような集団は、無政府主義(アナーキズム)的になるに違いないという印象を、強く与えるのです。そんな奴らを許しておいたら、教会も国家も無政府主義的になって崩れてしまう、と人はイメージするのです。

これはもう、外部の誰にでも起きそうなことで、事実、鹿嶋自身も聖句主義を外から見ていた間は、そう心配していました。だから、聖句主義者はみんなに迫害され続けてきたのです。
           
<新大陸でも迫害>
アメリカ大陸においてさえそうでした。新大陸でも、ほとんどの教会は教理主義教会でした。一般の人々は、宗教改革運動は聖書解釈自由を求めた運動だという印象を持っています。カトリックの支配から逃れて自由に信仰生活をしようという運動だという印象を受けています。だが、それは誤解なのです。
                
改革の立役者だったルターのルター派教会も、カルヴァンの改革派教会も教理主義教会だったのです。ルターもカルヴァンも、素人である個々人が解釈自由でもって聖書に対していくなどと言うことは、とんでもないこと、危険なことだとしか考えられませんでした。

解釈自由の聖句主義の実像は、それほどに妥当な認識がされがたいものでした。だから、北アメリカ大陸でもそうだったのです。
                
そうした中で、独立戦争が起き、アメリカは独立しました。そして、憲法を作る時に、聖句主義者は信仰を自由とすべきと主張しました。他の教会は、こぞって反対しました。そこで、色々なことがありましたが、それはまた機会を得て書きます。

がともかく、結局聖句主義者のいうようにやってみよう、ということになりました。アメリカの国家指導者たちは、おっかなびっくりで信仰自由を憲法に盛り込み国家運営を始めました。
                 
ところが、国家はバラバラにはならなかったのです。こういう歴史的体験があって、始めて人間は信仰自由の原則をたてておこなうSG方式の実像を知りました。聖句主義は危険ではない、ということを知りました。
 
これは貴重な人類の知恵となりました。で、今それが、欧州諸国、日本、台湾、韓国などにも普及しています。
                    
<歴史的体験がない>
でも、日本人には聖句主義の体験がほとんどありません。アメリカで教会に行く人もいますが、その教会のほとんどが依然として教理主義教会です。だから、聖書解釈自由でやってもいい、という確信が少ないです。

そこで、解釈自由の原則で始めると「恐れ」が心に生じるのです。それだけ、教理主義方式の経験が心に残存しているのです。

この春平太チャーチを見てくださっている人々も、そういう人がほとんどでしょう。議論に参加してみても、心に恐怖感の引っかかりが残っているはずです。「こんなことしていて、大丈夫だろうか・・・」という恐れの思いです。

この実情を先に理解し、覚悟しておくのは役立ちます。途中で恐れや躊躇が心に生じたら、「ああ、あれだな・・」と理解し心理的に対処できますからね。

Access: /Yesterday: /Today: