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トップ > 2015年01月19日

未知の体験に処する

どうも自分はこれまでと違う霊的なフェーズあるいはスフィアに入ってしまったようだ。とにかく今までの経験のデータベースや内的な世界モデルに存在しない事象を経験している。御言葉を離れたいわゆる霊的経験は危険であることは十分に承知しているので、今、御言葉による裏付け作業を行っているわけ。その過程でもっとも驚きの発見が「栄光(kabod)」の経験と意味だ。それは第一義的に「重さ」。まことに「何かを知っていると思う者は知るべきほどのことも知らない」(1Cor 8:2)とあるとおりだ。果たしてこれからどんなことを経験するのだろうか?

御心が天になるとおり、地にもなりますように!

神の業は栄光にあってなされる

いわゆるしるしや不思議を、それ自体を目的に追求する人々がいるようだ。そのために有名な油注ぎの器と称する人物から、我先に預言や按手を受けたがるのだ。賜物と称するある種の超能力を授けてもらうために。私はこの手の話にはきわめて不快感を覚えてきたことはすでにここの読者であればご存知と思う。

しかし、最近気がついたのは、「たらいの水と一緒に赤子までも流すな」ということ。認知療法の創始者ベックのいう認知の歪みのリストに「過度な一般化」がある。少数の例から一般則を強引に導くのだ。自然科学の思考は(不完全)帰納法による。実験や観察により得られたデータの範囲において、何らかの規則性や法則を見出す手法。が、もちろん自然界のすべてを調べることはできないから例外が必ず存在する*1。これを「白いカラスの論理」と言う。今まで見たカラスはみな黒かった。ゆえにカラスは黒いと普通に人は思い込んでいる。しかし白いカラスの不存在は証明されていない!

何を言いたいか。すなわち、現代においても真正なしるしや不思議は存在し得ると言うことだ。少なくとも私は、中度難聴と診断され、医学的には匙を投げられた自分の右耳が癒されることを経験した。ここでの問題はこういったしるしや不思議がないと結論づける前に、それらを求める動機が問われるべきだ、と言う点。これは私自身のスタンスの悔い改めでもある。どうもいろいろな証しを調べていると、しるしや不思議、あるいはこういった神による癒しが現れる条件あるいは舞台設定があるようだ。それは・・・「神の栄光の中で」、"in His Glory"だ。

先に栄光はへブル語で"kabod"、その原義は「重さ」であり、神の栄光に臨まれるとき、その重さに圧倒される経験を極私的にしたことを何度も書いている。それはきわめてtangile、つまり物理的に触れるあるいは感じることができるのだ。列王記上8章11節(1Ki 8:11)にあるとおり、まず神の雲が臨み、栄光に包まれるとき、その重さのために立っていられなくなる。この時に神はご自分の業をなさるのだ。例えば、私たちの必要の満たしについて、有名なピリピ4章19節を見てみると、岩波訳ではこうある*2

私の神は、あなたがたのすべての必要を、自らの富にしたがって、キリスト・イエスにおいて栄光のうちに、満たして下さるであろう。-Phil 4:19

ここの「キリスト・イエスにおいて」と「栄光のうちに」はともに「満たして下さる」にかかるとすべきなのだ。私たちはキリスト・イエスにおいてすでにあらゆる嗣業を得ている(2Pet 1:3、現在完了形)。それが信仰によって実体となるのは(Heb 11:1)、栄光のうちにあってなのだ。この臨在の雲が満ち、栄光の重さが感じられる状態において、しばしば神は語る。それがレーマだ。するとその見えない実体(substance)はこの時空間の中に、ヘブル11章3節にあるとおりに(Heb 11:3)、現出する(framed)。

栄光は重さ。きわめて分かり易い。今、両手を軽く上げるだけで臨在を感じる。というより、魚が水につねに包まれているように、私たちもこの物理的時空間に生きながら、第三の天の空気(霊)に触れているのだ。なぜ?イエスとともに天の座についていると聖書は明確に告げている(Eph 2:6)*3。私はリアルにこの天の空気(霊)に触れることを知った。それはいつでもどこでも触れることができるのだ。まことにダビデが証しているとおり:

わたしはどこへ行って、あなたの霊を離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。-Ps 139:7

神の霊に包まれていることの実感-なんという栄光であろう。まことに神は私たちのための栄光を備えて下さっているのだ(1Cor 2:7)。Glory be to God!

■追記:癒しについてはマラキ書にこうある:

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。-Mal 4:2

義の太陽=御子イエス。神の栄光の反映、実体の刻印たるお方だ。癒しも栄光に伴う。

*1:すべてを調べ尽くした結論を、論理学的には「全称命題」と称する。数学的帰納法は全称命題であるが、自然科学は違う。つねに例外が、これを反例というが、存在するのだ。
*2:口語訳や新改訳などはどうも訳が不適切。
*3:ここの「天のところ」とか「天の座」と訳されている原語は"epouranios"。Thayerによるとこうある:

Thayer Definition:
1) existing in heaven
 1a) things that take place in heaven
 1b) the heavenly regions
  1b1) heaven itself, the abode of God and angels
  1b2) the lower heavens, of the stars
  1b3) the heavens, of the clouds
 1c) the heavenly temple or sanctuary
2) of heavenly origin or nature

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