TODAY'S CELEBRATION 【Jan 11, 2015】
- 2015/01/17 23:59
- Category: 信仰
- Tag: Celebration
Dr.Luke的日々のココロ
トップ > 2015年01月17日
2011年よりアラブの春などは偽りであり、モスレムはシャリア法によるカリフ帝国の構築が目的であると書いている。たとえば
ISISはその成就のひとつの兆候と言えるが、アメリカと同盟国の相次ぐ爆撃にも関わらず着実に勢力を伸ばしている。なぜか。上の記事にも書いているが、連合国は霊的に弱いからだ。すでに霊的領域において敗北している。ゆえに地上でいくら武力を用いても勝利には決していたることはない。ちなみにいつものJoel Rosenbergによるとシリアでは次のような勢力図となっている。
オバマの霊は私たちの神の霊ではない。彼の霊はすでにあちらの霊であり、アメリカは霊的に捕られているのだ。勝てるはずがない。いずれISISはエルサレムに向かう。時代は神に拒絶された霊と愛される霊の相克。目に見えない領域における勝利をまず得る必要があるのだ。
このところポツポツと鑑賞はしていたが、今回の作品はなかなか深みのある良い作品。かつての『エデンの東』的なテーマ、つまりエディプス葛藤を描いている。ハリウッドもまだこういった作品を作ってくれており嬉しく感じた次第。『裁かれる判事』。
“金で動くやり手弁護士”として名を馳せる、ハンク・パーマー。一流法科大学を首席で卒業したが、並外れた才能は金持ちを強引に無罪にすることだけに使ってきた。そんな彼にとって弁護士史上最高難度の事件が舞い込む。人々から絶大な信頼を寄せられる判事ジョセフ・パーマーが、殺人事件の容疑者として逮捕されたのだ。しかも彼は、ハンクがこの世で最も苦手とする絶縁状態の父親。法廷で42年間も正義を貫いた父が殺人など犯すはずがない……最初はそう確信していたハンクだが、調べれば調べるほど、次々と疑わしき証拠が浮上する。殺された被害者と父との歪んだ関係、亡き母だけが知っていた父の秘密、防犯カメラがとらえた不可解な映像。裁判は劣勢に傾いていくのに、犬猿の仲の2人は弁護の方針を巡って激しく対立する。
カネで判決を買うやり手弁護士が父との葛藤を通して、真実の親子、そして家族の愛情に目覚めていく。彼が何ゆえにカネこそすべてになったのか、その深い背景も明らかにされる。頑なに息子を否定する父の心の深みにあったものは?何ゆえに彼は犯罪に殺人に走ったのか・・・。息子はその真実を知る。最後の湖面の親子の静かなシーンがグッとくる。お薦めの作品。
旧約で頻出する「栄光」は"kabod"。その原義は「重さ」。だから祭司たちは臨在の雲が満ちるとその栄光のため立って務めができなくなった(1Ki 8:11)。私はかつていわゆる「倒れる現象」はいかがわしいと判断し、何の意味もないとみなしていた*1。が、12月の自身の経験以降、栄光を自分のボディで体験的に味わった。神に仁王立ちされて臨まれるとまったく身動きできなくされる。聖霊によって屠られるのだ。今回、その栄光を新約においても見出した。ここは何気に見過ごしてきたが、パウロはこう証している:
なぜならば、私たちの一時的な軽い艱難は*2、卓越した仕方で、私たちに永遠の重み〔に満ちた〕栄光*3を造り出してくれるからである。その際、私たちは、見ることのできるものにではなく、むしろ見ることのできないものに目を注ぐ。見ることのできるものはしばらくの間のものであり、他方見ることのできないものは永遠に〔あるの〕だからである。-2Cor 4:17-18(岩波訳)
今、両手を軽く挙げるだけで、神に直接触れられ、この重みが臨むようになった。やばい・・・。
■追記:21:21-22:05まで風呂に入っていると、再度、あの現象が起きた。時間は15分くらいか?何も見えず、聞こえなかったが、体にtangibleに現れた。
*1:今、この点、全否定していたわけではないことに気がついた。自分で2002年英国でのキャンプの経験をこう書いていた。
注:1回目は1982年5月、二度目は2002年8月イギリスでのキャンプの際、コリン・アーカートとひとつ霊のうちに歩むことを願う世界のパスターたち30名ほどで手を組み祈っていたとき、ノルウエーのエネヴァルド・フラーテンによって額にタッチを受けました。その時は何の変化もなかったのですが、席に戻ってから足腰が立たなくなり、ふらふらしてキャラバンに戻り、2時間ほど立てなかったのです。帰ってきて私のミニストリーの質は明らかに変わりました。
下のコメントでも書いたが、これ、2015年のメインテーマだ。聖書を解き明かすとか、霊的意味を読み取るとか、その深さに触れて納得する・・・と言った聖書に対する態度は今回根底から覆された*1。たとえそれらが正鵠を得ていたとしても、所詮魂の中の事象*2。前にも書いたが、イエスが唾で泥を作って盲人の目を開いた事件の本質は、その霊的意味や解き明かしなどではなく、彼の目が見えるようになった事実である。この一回性の神の国の証明こそが本質なのだ。すなわち「御心が天になるとおり、地にもなるように」の実体化、神の国の現出*3。
神の国はその種がまず内に宿る。それは人手によらず成長する。これには時間がかかる*4。御言葉はその栄養素。が、目の前の問題や病気や欠乏に処することは成熟とは関係がない。弟子たちはみな霊的には幼かったが、イエスから付与された権威により、悪霊を追い出し、病を癒し、らい病を清め、死者をよみがえらせた。イエスはご自分の業を信じる者たちもできると言われた。それは彼らの資質に基づくのではない。根拠はイエスが御父の身元に行くからである。かくして「イエスの復活のいのちの成長」と「神の国の現出あるいは統治」の両輪が回る。
いずれの場合も、鍵はマインドセットのトランスフォーメーション。いわゆる世の常識やこれまでの経験により構成された自分の内的世界モデルあるいはパラダイムのチェンジだ。天の領域の目に見えない実体(真理)こそがリアリティ。それがフレーム化された事象が目の前の事実(Heb 11:3)。真理と事実が矛盾するとき、どちらがどちらに服するのか。そこに信仰が働くのだ(→「信仰と希望について」)。
そしてあなたがたは、この世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造りなおされ、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであり、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2*5
SO BE IT!
■追記:誤解なききようにしてほしいが、みことばの学びを否定しているわけではない。ロゴスの理解はもちろん必要。ある時に御霊がレーマにしてくださるゆえに(2Peter 1:19)。
*1:それ自体を目的とするこのような姿勢は、ある意味自己満足のために御言葉をこねくり回して弄ぶこととも言えよう。御霊が即時的に語ってくださる分を受ければ良いのだ。
*2:魂の生まれながらの思いは認知の選択的透過性をよくするものだ(1Cor 2:14)。
*3:これは再建主義の言うモーセ律法による政治経済体制では決してない。イエスは決して革命を目指したのでもないし、パウロも奴隷は奴隷のまま、召された時のままであれとすら言っている。
*4:だから未成熟のまま病気に屈してこの肉体の死を許すべきではない。成熟するためにもこの肉体を健康に保つべきなのだ。ヨハネはそれを祈ってくれている(3John 1:2)。
*5:ここを宗教的あるいは道徳的あるいは倫理的にとらえてはならない。それはキリスト教を作るだけ。第一義的に神の国の現れとして理解すべきなのだ。