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私たちとヨハネ

ヨハネはイエスについて、この方は来るべき方と明確に宣言し、イエスにバプテスマも施した。ところが彼は

さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」-John 11:2-6

と矛盾することを行っている。実はこれが知識と経験の狭間におる私たちの真の姿なのだ。See?

聴くこと

現代において神の癒しはあるのか、しるし・不思議はなされるのか?このようなトピはけっこうクリスチャンの心を騒がすようだ。使徒行伝にはこうある:

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。-Acts 4:29-30

実は極私的には、最初の「みことばを大胆に語らせください」はよく知っていたが、次の「しるしと不思議なわざをおこなわせてください」と祈っていたとは、最近気がついた次第。あれ、彼らはこう祈っていたのだ

癒しにしても、私の右耳はまずことばが与えられた。そのとおりに癒された。腰は、最初自分勝手にやっても何も反応しなかったが、ことばを聞いてそれに従った結果、反応が出て、癒された。鍵は何か。聴くこと。何を?神の言葉、レーマだ。これはいのちの成長の度合いとか、聖書の解き明かしができるとか、それらにいっさいよらない。今、ここで、主が語る言葉を聞ける人はその結果に与るが、聴き逃せば、それはそれまで。そのためには思いが、たとえ聖書の知識にせよ、いろいろと詰め込まれていると聞損なう。特にプライドが邪魔する。思いをいったんクリアにして、霊にチューニングされること。まことに

しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。・・・」-Matt 8:8

思いのトランスフォーメーション。2015年の課題だ。

追記:ルカ1:37(Luke 1:37)は普通、「神には不可能なことは何もない」と訳されている。英訳も"With God nothing is impossble."だ。だが、ここの原文をよく見ると、

οτι ουκ αδυνατησει παρα τω θεω παν ρημα

とある。直訳すれば、「なぜなら、ない、不可能、共に(から)、神、すべて、ことば」となる。ポイントはここには訳出されていない"rhema"が含まれているのだ!つまり「神の語り出されたことばと共に(から)不可能なことは何もない」という意味なのだ。イエスが語り出されれば、ペテロも水の上を歩く!WOW!かくして目の前のあれこれに振り回されることなく、まずレーマを受けること。レーマを受けるならばあらゆる問題、病、必要は重い栄光の中で解決する、すなわち天が地になされるのだ。

日々キリストにありて

ファイル 4715-1.jpg


ニール・アンダーソンによる黙想


 だれでも神の御霊に導かれる者たちは、神の子である(ローマ8:14)。

 私の人生において、事の達成よりも関係性が優先されるべきことに焦点を置くようになった重要な出来事がふたつあります。ミニストリーに召される前、私はアポロ計画の航空エンジニアとして働いていました。私は月着陸船が月面に降り立ったその日を決して忘れません。「ニール・アームストロング、月に降り立つ」というヘッドラインがミネアポリス・スター紙の一面を飾りました。私はその計画の一端を担った者として誇りを感じています。
 しかし、実際的に重大なニュースが7ヶ月後に三面記事の7ページに報道されました:「ハイジ・ジョ・アンダーソン、ニール・アンダーソン夫妻に誕生。ノースウエスタン病院、1969年3月12日」と。これはあなたにとっては大きなニュースとは響かないでしょうが、彼女の母親と私にとってはきわめて大きいニュースです。ハイジは私の書斎を専有し、冷蔵庫のひとつの棚をすべて自分のものとしたのです。彼女は私たちの睡眠のパターンを変え、社会的活動のカレンダーを制限しました。しかし、彼女は私たちにとって、かかえ、抱きしめ、そしてケアすべき私たちのための存在でした。
 神は月を目指すことをどのようにケアされるでしょうか?それは外側でなされる行為です。ある者たちがいつか登場して、さらに上手に、素早く、高度に、それを達成するでしょう。神がケアされる対象はハイジ・ジョ・アンダーソンのような小さい人々です。なぜなら彼らは神と永遠に共にいるからです。
 私の人生で次の重要な出来事は、最初の博士号を取得したことです。しかしそれは私の人生でももっとも面目を失う日になりました。天からの賞賛は何もなく、小羊の書にある私の名前に星印(※)が付けられる事ほどのものでもないと感じたのです。その日以前から私は神の子であり、その後も私は神の子であり続けるのです。
 しかし罪人が悔い改めるとき、天で何が起きるしょうか?賛美です!なぜ?それは神との関係は永遠のものであり、地上の達成は一時的なものであるからです。一時的なもののために永遠のものを犠牲にすべきでしょうか?人間的な達成のために個人的かつ霊的な関係を無視したことはないでしょうか?つねに関係性は一時の達成よりも最優先されるべきなのです。

 主よ、私のスケジュールの忙しさと所有物の散乱の中で、今日、関係性を大切にし、養うことができますように。

TODAY'S CELEBRATION 【Feb 01, 2015】

UPしました。

●タイトル:マインドのメタモルフォーゼ
●聖書箇所:ローマ12:1-2;使徒10:38;2コリント5:17;2コリント10:5など

ノー・エクスキューズ

「・・・ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、なんでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」-Mark 9:22-24

イエスは明確に言われた:all things are possible to the one that is believing.(YLT)

これをどう受け取るのか。いろいろ、あれこれ、それぞれ、これまでコンフォームされた思い(mind)の形に従って、コメントあるいは注釈をつけるだろう。事実、講解書にはついている。あるいは軽くスルーしておく手もある。が、ここで、この父親はいっさい弁明や注釈をしていない。ただ、叫んだ、不信仰な私を助けてくれ!と。するとイエスはレーマを発し、子供は解放された。

ペテロもイエスが湖面を歩くのを見て、単純に、私も・・・と願い出ると、主はその願いに答えて、「来なさい」とレーマを発せられた。すると単なる人であるペテロも水面を歩いたのだ。

この二つの場面で共通することは、

 ①イエスに率直に求める
 ②イエスが言葉(レーマ)を発する
 ③信仰が息吹かれ、結果を生む

言い訳や自己弁護、自分の思いに合致させる操作などをするとき、信仰はストップする。なぜなら主の言葉が発せられないからだ。信じられないときは自分の何かを保つために解釈や結論を出すことなく、今の私には信じられません、あわれんでください、と申し上げることが最善なのだ。パリサイ人たちは自分の何かを保つためにイエスのアイデンティティーと業を否定した。まことに神の国は幼子のものだ。

追記:信仰は聞くことから、聞くことは神のことば(レーマ)によるとあるが、この点についてはDr.Kさんが実に重要な指摘をされている。

イエスは十字架で何を完成され、今またここで、何をなして下さるのか?

11月中旬に六本木で遊び、風邪をひき喉がやられて咳が止まらず、12月中はジョッギングとスイミングができなかった。加えて右足のマヒで1月もアウト。しかも右足をかばって左足の膝を痛めた。身体はかくの如く全体性(wholeness)が大事なのだ。一か所の故障がすべてに伝わってしまう。で、ようやくジョッギングとスイミングに復帰。何と気持ちのいいこと!当たり前にできたことが当たり前でなくなり、再び当たり前になるとき、そのありがたさが実感される。Thank you Jesus!!!

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さて、話題の映画『エクソダス-神と王』を観てきた。

ファイル 4716-1.jpg

ストーリー的にはだいたい聖書に即しているが、ホレブの山でモーセが神と立ち会う場面では、モーセが土砂崩れに見舞われて頭を打ち、その時になぜか正体不明の少年が現れて、彼が「わたしはありてある者(アイ・アム)」と宣言し、「エジプトに残るヘブライの同胞を見て来い」と命じる。土砂に埋もれたモーセは助け出された後、自分が見たこと・聞いたことを混乱の中でチッポラに告げるが、彼女いわく、「頭を打って、幻想を見たのよ」と・・・。「えっ!幻想?」つい、「ぼくは頭は打っていないが・・・」と独り言を・・・

エジプトについた彼は、神が下す過酷な裁きに苦しむエジプトとファラオに同情しつつ*1、同胞と共にエクソダスする。エジプトのファラオの顧問はこれらの災害について自分の世界観と知識の中でロジカル&シーケンシャルに解説をする。あたかも昨今の中東情勢をめぐるテレビのコメンテーターの如く。割れる紅海も、モーセが道を誤り絶望の中に沈む時、津波の前兆で起きた引き潮だったとする。さらには律法の石板もモーセが自分で彫ってしまうのだ。ここにも先の正体不明の子供が同席する。

・・・というわけで、リドリー・スコットのオツムの世界観(パラダイム)のフィルターを通された「エクソダス」。映像は3Dが楽しめる。

詩篇78編を見ると、そのエクソダス以来、神がしるしと不思議をもって民を解放したのにも関わらず、民はそれらを忘れて、神を悲しませることが訴えられている。

彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。
また先祖たちのように、彼らが、かたくなで、逆らう世代の者、心定まらず、たましいが神に忠実でない世代の者とならないためである。
エフライムの人々は、矢をつがえて弓を射る者であったが、戦いの日には退却した。
彼らは、神の契約を守らず、神のおしえに従って歩むことを拒み、神の数々のみわざと、神が見せてくださった多くの奇しいこととを忘れてしまった。・・・
そのとき彼らは神に逆らって、こう言った。「神は荒野の中で食事を備えることができようか。
確かに、岩を打たれると、水がほとばしり出て流れがあふれた。だが、神は、パンをも与えることができようか。ご自分の民に肉を備えることができようか。」
それゆえ、主は、これを聞いて激しく怒られた。火はヤコブに向かって燃え上がり、怒りもまた、イスラエルに向かって立ち上った。
これは、彼らが神を信ぜず、御救いに信頼しなかったからである。-Ps 78:7-22

要するにエクソダスで起きたことは真実であり、神の契約に基づく救いのみわざであり、それに信頼せよ、と訴えているわけだ。神の言葉は永遠である以上、私たちにも適用されてしかるべきであることは論を待たないだろう。

これまでの私も含めて、現代における神の直接的介入による癒しや、しるし・不思議がないとする人々は、イエスが十字架で成就された事の範囲にそれらを含めていないことになる。あるいは客観的には含まれていてもいなくても、現在では神はあえてそれをなさらないと。神が全能であることはクリスチャンであれば誰もが異議を唱えることはないと思うが、食い違いが生じる原因は、「十字架の贖いの範囲」と、「現在における神の意志の有無」にある。

第一の論点については、十字架の効力には霊的病の癒しは含まれていても、物理的病の癒しは含まれないとする人々がいる。

第二の論点については、イエスは地上におられるときは「わたしの心だ」(Matt 8:3)としてらい病を清めたが、それはイエスの神としての能力の発揮であり、単なる人間である私たちとは違う*2、だから私たちには同じことはできないし、現在ではイエスもなさる意志はない、とする人々がいる。

もうちょっと根源的には、聖書自体をそのまますべてを神の霊感によるとする立場は危険である、とする人々もいる。その場合は、霊の再生も、聖霊による神の内住や導き、さらに神との交わりや会話や聖化も、もっとさらには神の御顔・眼差しとしての臨在や重さとしての栄光も幻想であり、幻覚であるとするしかなくなるだろう。もちろん祈りに対する答えや、病の癒しなどの神の直接的介入は絵空ごとになる。いわゆる社会派リベラルの方々の立場。この場合は、聖書の土俵に立っての共有は不可能となる*3

今、私がはっきりとさせていきたいことは、十字架の効力がどの範囲までなのか、どこまで私たちはそれに参与できるのか、そして現在における神の意志はどこにあるのか、という点。これもすべては神の国の地上における現出(Mark 1:15;Matt 12:28)のため。「主の祈り」を真に祈るためなのだ*4。ちなみに御言葉はこう言っているのだ:

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。-Isa 53:5

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。-John 14:12

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。-Heb 13:8

*1:ここで再び正体不明の少年がヘブライの同朋の苦しみについてはどう思うのかとモーセに迫る。
*2:これはかつての私の立場。イエスよ、あなたは神だから、と。しかし、人間としてのイエスと私たちとの違いは何か。私たちの体には罪(Sin)が住んでいる(Rom 7:18)。が、私たちの行いとしての諸々の罪(sins)はイエスの血により完全に消去されている。神は私たちがあたかも罪を犯したことのない者として見て下さる(Isa 1:18)。この面ではイエスとまったく同一視される。このことが信じられない人は魂の癒し、つまりトランスフォーメーションを必要とする。神は「私たち」ではなく、キリストを見ておられるのだ。聖書はさらに、私たちは新創造であると宣言する(2Cor 5:17)。ゆえにイエスが人としてなされたことは私たちも同じことをなし得るのだ。しるしや奇跡は神としてのイエスの証明であるとするならば、現在でもイエスは同じことをして下さるかどうか、という問題になる。これについてはイエスがヨハネ14章で言われる言葉が解答となるだろう(John 14:12-14)。後は個人個人の信仰の問題なのだ。
*3:彼らにとっては聖書は思想書、あるいは人生論・指針書、あるいは宗教哲学書、あるいは神に関する古代の記録となるのだろう。
*4:イエスはこのように祈れと言われたとき、私たちに何を期待されたのだろうか?私自身、いつごろからこのような意識が芽生えたのか、ちょっと思い出しているのだが、昨年7月のDr.Kさんのご好意による温泉オフ会の対談ですでに語っていた。天の御心が地になるとはどういうことか、と。あるいは「まず神の国と義を求めなさい、他はすべて添えて与えられる」という約束をどう受け取るのか。求めよって、どうやって?結局、すべては神の国とは何か?に収斂するのだ。

御顔と眼差し

ヤコブはヤボクの渡しで神と格闘した(Gen 32:25-32)。神は彼の自前の力の源である腿の番を打った。ヤコブは祝福を求めると、神はそれに応えた。ヤコブは神の顔を見たのに生きていると言って、その場をペニエルと呼んだ*1。ぺ二ーとは顔、エルは神、すなわち「神の顔」だ。同時に名前をイスラエル*2と変えられる。その経験の後、ヤコブはそれまでの彼ではなく、ビッコを引く者とされた。晩年の彼は杖に寄りかかりつつ神を礼拝した(Heb 11:21)。

旧約聖書の中で神の臨在(presence)と訳されているヘブル語は"paniym"、その意味は顔なのだ。そのまま"face"と訳されている個所も多い。ダビデは常に御顔を常に求めている。そして神の霊に包まれることと御顔を向けられることを同義としている。

どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。-Ps 139:7

12月のあの経験で見たこと・聞いたことは幻覚なのか妄想なのか。とにかく私はその後右足がマヒして、2週間ほどビッコを引いていた。ボディにはかなりの自信があった私だが、ある意味その自信は打ち砕かれた。自分の弱さに直面し、自己のコントロールがまったく効かない状況に置かれた(→自己における死について)。が、その中で、自分が何もなし得ない状態にあって、中等度難聴の右耳の癒しと右足のマヒの癒しを続けて経験した。

さらに神が手で感じられるようになった(Php 4:5)。外界の景色を見ても、神の臨在、つまり御顔を感じるのだ。常に御顔を前においている感覚。モーセは神と顔と顔を合わせた者とされたが(Exo 34:29-34)、クリスチャンもその特権、否、それ以上の栄光に与れるのだ(2Cor 3:16-18)。もちろんイエスの血のゆえに。加えて臨在(presence)と訳されているもうひとつのヘブル語は"ayin"、原意は「目」だ。つまり臨在とは神の顔であり、神の目が置かれる状況(Deut 11:12)、栄光とはすでに述べたとおり、重さの意。それらに与ることができるのがクリスチャン、なんと幸いなこと。SO BE IT!!!

*1:このゆえに自分の最も自信のある部分を神に砕かれる経験をペニエルの経験と称する。
*2:"he will rule as God"の意。転じて神のプリンス。

結局、十字架なのだ

さて、酢を受けるとイエスは「成し遂げられた」と言った。そして、頭を傾けて、霊を引き渡した。-John 19:30

何が成し遂げられたわけ?思いのトランスフォーメーションはこの理解から始まる。十字架で成就された事実がどの範囲のものであり、私たちがどこまで与ることができるのか。すべてはこの理解にかかっている。そして復活はそのことを確証し、私たちに神の国のいのちと力をもたらすのだ。

サタンの要塞を落とす

不安や恐れ、自責感や絶望感に責め苛まれるクルシチャンが多いキリスト教界。ある人などは救われる前の方がハッピーだった、と。神の言葉を人間による記事にしたり、マリアの処女懐妊はローマ兵によるレイプだとしたり、聖書を近代高等批評の立場から云々するリベラル系も多い。自分の知性を"神"にする輩だ。多分、使徒信条を強迫的に告白しなくてはならないのは、本当は信じていないからなのだ。だから自分の良心の宥めのために儀式が必要となることは精神分析の初歩。

それはすべて敵の要塞が私たちの思いの中に意識的また無意識的領域に構築されているからだ*1。ペテロが水の上を歩いたことを信じられないのは、その要塞が神の御言葉に対立するため。かくしてパウロはこう言っている:

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。-2Cor 10:3-6

思弁とあるのはlogismos=computation;reasoning、高ぶりはhupsoma=high place;altitude;a barrier、はかりごとはnoema=a perception;purpose;the intellect(Strong)。霊的戦いはすでに主が十字架で勝ち取られた客観的真理。が、それが私たちの主観経験になることは、神の国が地上に現出するひとつの大きな証拠なのだ。思い(mind)を敵の要塞から勝ち取り、キリストに服させるならば、解放と自由が得られる。その第一歩は悔い改め。それは自分を退けること。マインドのトランスフォーメーションはそこから始まる。

*1:私のこれまでのミニストリーは主に内的葛藤からの解放、ロマ書とガラテヤ書が中心テーマだった。だが、癒しやしるし・不思議についてはほとんどノーマーク、あるいは拒絶していた。ある姉妹がLukeさんのこれまでのメッセではマルコからの引用がほとんどなかったですね、と。なるほどそのとおり。自然科学の法則を神の御言葉の上に置いてしまっていたことを告白せざるを得ない。つまり創造主なる神は自然科学の法則を超えるお方だが、現代においてそれを逸脱するあり方で私たちの生活に介入されることを信じていなかった、あるいは信じられなかったのだ。これも立派な要塞である。ところが神のバイオレントな介入により、自分のボディでこれを体験してしまった。かくして疑いのトマスとされたわけ。

究極のリアリティとは?

Question:

・ステージ4のガンで余命3ヶ月の宣告。

・彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。-Isa 53:5

Which do you choose?

聖書を「神について人が記録した文書」とかいう人々は論外だが、「すべて聖書は神の息吹き(霊感)による」(2Tim 3:16)と信じている人々にとって、リアリティとはどっち?

正しい選択をする鍵はわれわれのマインド・セットにあるのだ(Rom 12:2)。FEAR(恐れ)とはFalse(偽りの)、Expectation(期待)が、Actually(現実に)、Realize(実現する)ことなのだから(Job 3:25)。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことば(Rhema)で造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。-Heb 11:3

神の国と教会(エクレシア)

神の国と教会(エクレシア)は必ずしも同義ではない。地上におけるイエスの行動を見ると、神の国の到来を告げつつ、彼のところに来た人々をすべて癒された(Luke 6:20)。彼らは必ずしもクリスチャンであったわけではない。神の国の到来は地上において神ご自身の権威とパワーを証しする。イエスはいわゆる礼拝堂においてのみその御業をされたわけではない。弟子たちと旅をしながらいつでもどこでも人々の必要に応じられたのだ。その中から召された者たちが得られた。エクレシアの素材として。

こうして十字架を経て、復活の週の最初の日の夜に弟子たちに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ、目に見えないエクレシアが誕生し(John 20:21)、40日間彼らを訓練した後昇天され(Acts 1:3)、ペンテコステの日に炎のように聖霊の傾注がなされ、エクレシアが目に見える形で顕現した(Acts 2:1-2)。彼らには天で御心がなるとおり、地にもなることが委託され、神の国の証しを任されている。エクレシアは本質的にはキリストの体であり、キリストの花嫁であり、経綸的には神の国の地上における派出所のような権威と機能を与えられている。

つまりイエスのなされた業は、いわゆる礼拝やセレブレーションの場面のみでなく、地上においていつでもどこでもなされるべきなのだ。イエスがなされたように。これは御言葉の宣べ伝えとシンクロしている。事実、弟子たちはこう祈っている:

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるし不思議なわざを行なわせてください。-Acts 4:29-30

そしてなによりもイエスご自身がこう言われる:

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。-John 14:12

最近とみに、これが終わりの時代の私たちのあり方なのだと感じている。何度も恐縮だが、要するに聖書は私たちの生来のマインドからすると、ぶっ飛んでいるのだ。マインドがまずトランスフォーム(メタモルフォーシス)されること、これが神の国を現出させる第一の鍵なのだ。それは神の国の地上への進攻だ。

信仰と知性、ワーシップとエンターテイメント

今日のセルフ教、アイ、マイ、ミー、マインの状況においては、信仰が知性と、ワーシップがエンターテイメントと置き換えられていると指摘する。解放の鍵は傷ついた心、自己憐憫からの癒しにあるとも。すべては臨在、栄光を招くためなのだ。一見の価値あり。英国のKingdom Faithと同じテイストとフレイグランスを感じる。

ついでにこれもグッド。信仰はI AMの実体化。私と同じ定義だ。

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