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霊的領域の実体と時空間での経験の乖離

イエスによるラザロのよみがえりの事件は実に見事に、信仰、すなわち希求することの実体とその証明を描き出している。

イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
・・・
イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
・・・
そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
・・・
イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
・・・
そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
・・・
そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」-John 11:4-43

イエスはラザロの病気を知らされた時点で、これは神の栄光が現れる、と信仰により時間と空間を超える霊的実体を把握した。また一方で時空間に生きる者としては、ラザロが死んだ事実を認めている。ここで信仰の実体と目の前の事実が矛盾しているが、彼は両方とも認めている。そして現地を訪れ、あえてデモンストレーションをして、信じない者たちの前で信仰の実体を現出させた。それは父がすでになして下さったことを人々に知らせた上で、大声で死んでいるラザロに命じたのだ。これはレーマを発すること*1。ラザロは出てきたが、これはイエスにとっては既定事実だったのだ。ここでの一連の経緯の鍵は神の栄光。えっ!私たちも同じことができる!?えっ?

イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。-Matt 10:1

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。・・・」-Matt 28:18

私はメッセでも何度も語っているが、いわゆるニッポンキリスト教のたくわんと味噌汁からの開拓伝道とかの話は好まない。主に常に申し上げていた。あなたのバックアップがなければ何もする気はないですから!と。そう人間的な手練手管による"福音"などはもう無意味と知るべき時なのだ。神ご自身が手を出され、ご自身が栄光を現すフェーズに入っている。

*1:創造も神の命令でなされた。神の心の中にはすでに創世記から黙示録までのすべての事態が展開していたのだ。私たちはその「神の信仰」の中で天地創造の前からキリストにあって選ばれていた。その「神の信仰」の実体が時空間の中で展開しているわけだ。原則はすべて信仰-願うことの実体と目に見えないことの証明。マルコ11:22(Mark 11:22)ではその神の信仰を持て、とイエスは言われる。えええっ!それにより創造(無から有を生じさせること)をなした神の信仰を持てって やはり聖書はやばいのだ。なお、前に「幸福の科学や創価学会の言ってることの方がまともだ」と言った意味、これでお分かりいただけますね

イン・ロゴスからイン・デュナミスへ

12月のあの3日間に起きたことは今でも理解できない。何が起きたのか・・・。しかし、確かに経験したし、見たし、聴いてしまった。これは否定しがたい。結果、私の内側は変わり、耳も癒された。聖書の読み方・見方も変わった。これまでのパラダイムが覆された。もちろん御言葉の真理の理解は間違ってはいないが、それはロゴスの世界だった。

御心が天になるとおり、地にもなりますように、の意味が分からなかった。信じる者がイエスと同じ業をなし、さらに大いなる業をなすことも信じられなかった。というより、認知の選択的透過性により、当初より考えすらしなかった。見える世界が見えない実体によって生じるに至ることも経験していなかった*1。それらはすべて知的理解の領域にあり、ロゴスの世界だったのだ。目の前の世界やキリスト教のあり方とか、日常の雑事に紛れて、あれこれの経験をしていた。それなりにいろいろな道を楽しませていただいたが、もうやることは一通りすべてやり終えた*2

神の国に生きること、神の国を地上にもたらすことは、見えない霊的世界の事象を信仰によって実体とすること。神の栄光は私たちの思いをはるかに超える。私たちはこれを見たいし、これを味わいたいし、これに参与したい。神が語る、すなわちレーマが発せられるならば、それは現れるのだ。地的法則によらず、御国の法則による生活。それはロゴスからデュナミスへのシフト・チェンジ、2015年ヨベルの年*3

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。-John 11:40

*1:切除された乳房や膝の皿が再生される現象を報告している人々がいるのだ。彼らは偽り者、妄想病者、それとも本物?いずれかしかありえない。
*2:正直言うと、このブログのタイトル通り、30%出力のアイドリングをしていたのだ。もっと言えば、人生に倦みを感じていたかもだ・・・
*3:ある意味、未知の領域へ、だ。

ヘブル11章3節のチャレンジ

信仰によって、この世が神の言葉によって造られたこと、したがって見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解している。-Heb 11:3(岩波訳)

この神の言葉は"rhema(レーマ)"だ、神が語り出された言葉。私たちの五感で知覚し得る物は見えないものから造られている。この「造られた」は"katartizo"、英訳では"framed"。Vincentは"Put together; adjusted; the parts fitted to each other."としている。あたかもテレビカメラのフレームにある場面を現出させるような感じ。目に見えない領域の存在をこの地にフレームするのだ。これが御心が天になるごとく、地にもなるようにの意味。そして神の栄光だ。

ポイントはこうだ。今、目の前に厳然と存在し・手で触れることのできる事実によって生きるか、目には見えないが・目に見えるものを生じさせる霊的実体(真理)によって生きるか、この選択が信仰の活用。信仰とは希求することの実体(Heb 11:1)。この目に見えない世界に自由にアクセスできるようになると、目に見える領域に存在していなかったものを生じさせることが可能となる。かつてアズサ・ストリート・リバイバルでは、手のない人に手が生じたとの証言もある。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。-2Cor 4:18

えええっ!この手の話は、実は、サイエンティストを気取る私がもっとも毛嫌いしていたこと。聖書はこのようなヤバイことを告げている。が、私自身がほとんど死んでいた聴力を癒された。かつては何気にスルーして、受け入れ易いところだけをつまみ食いしてきた。が、今、私はガチで神からチャレンジを受けている:

DO YOU BELIEVE THIS, OR NOT?

サイトのイメージチェンジ

Kingdom FellowshipのWebsiteのイメチェンをはかりました。

なお、http;//www.kingdomfellowship.com/frame.htmlで入りますと従来どおりです。

2015年、Jubile(ヨベル)の年を味わう

本日で2014年度は終講。あとは試験のみだ・・・。外のサンシャインビルが眩しい。

2015年、tangibleな神の臨在に包まれつつ、極私的には解放感と深い平安に満たされている・・・。なんなのだ、この歓びは ヨベルの年*1を心の深みから満喫させていただこう

その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって、あなたがたは、おのおのその所有の地に帰り、おのおのその家族に帰らなければならない。
その五十年目はあなたがたにはヨベルの年である。種をまいてはならない。また自然に生えたものは刈り取ってはならない。手入れをしないで結んだぶどうの実は摘んではならない。
この年はヨベルの年であって、あなたがたに聖であるからである。あなたがたは畑に自然にできた物を食べなければならない。
このヨベルの年には、おのおのその所有の地に帰らなければならない。
あなたの隣人に物を売り、また隣人から物を買うときは、互に欺いてはならない。
ヨベルの後の年の数にしたがって、あなたは隣人から買い、彼もまた畑の産物の年数にしたがって、あなたに売らなければならない。
年の数の多い時は、その値を増し、年の数の少ない時は、値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは産物の数だからである。
あなたがたは互に欺いてはならない。あなたの神を恐れなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
あなたがたはわたしの定めを行い、またわたしのおきてを守って、これを行わなければならない。そうすれば、あなたがたは安らかにその地に住むことができるであろう。
地はその実を結び、あなたがたは飽きるまでそれを食べ、安らかにそこに住むことができるであろう。-Lev 25:10-19

*1:正確には2015年9月14日から。ただし49年周期で計算することもあるようだ。

「何でも見てやろう」から

主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」-Jer 6:16

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かつて浪人時代に代ゼミの「小田実の英語で考える講座」なる単科ゼミを取っていた。べ平連の闘士、ちょっと猫背でかなり癖のあるしゃべり方、いろいろなゲストを連れてきて、ユニークな講義だった。彼の処女作が『何でも見てやろう』だ。・・・そう、私も一通り見たかも、だ・・・。

その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない。-Jer 30:8

2015年、ジュビリーの年・・・。

十字架の意味

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クリスチャンがよく陥る罠が十字架における自己の死だ。これを宗教的に自分勝手に理解して、自我を否んで、自我を十字架につけて、自分は何もしない・・・、と。これでいわゆる受動性の罠に陥る。

十字架は生まれついてのアダムにある古い人由来の魂(soul)由来のエネルギーから御霊による復活のキリストのいのちの(霊的)エネルギーに切り替える場なのだ。十字架における自己の死とは、魂の機能である思い・感情・意志の機能を停止することでは決してない*1。十字架が働けば、復活のいのちが流れる。このいのちのエネルギーで、いのちの御霊の法則に乗って生きること、これがクリスチャンの生だ。死だけでは何もなされないし、神の御心はなされない。復活があって初めてそれは成就する。むしろ、復活の領域では死者が生き返り、病人は癒され、悪霊も追い出されという人間にはとうてい不可能な事象も起こる。いや、それをなせと主イエスは命じられているのだ(やばいでしょ?)。この復活の段階までが起きてこそ神の国の現出と神の栄光が現れる。

神の国はロゴスの中にではなく、力のうちにある。その力とはイエスを死から甦らせた神の力。だから死者がよみがえって当然なのだ。この復活のキリストのいのちを吹き込まれた存在がエクレシア。ハデスの門も打ち勝てない。よってますますアクティブに、大胆に生きるのがクリスチャン。私たちのこれまでも既成概念を打ち壊してもらう必要がある。古い着物にいくら新しい布でパッチワークしてもかえってボロボロになるだけ(Luke 5:36)。新しいワインは新しい革袋に入れるのだ(Matt 9:17)。どうもこの御言葉の意味も取り違えていたようだ。今回主は、この新しい着物と新しい革袋のパワーを知れ、と迫って来られるのだ。

で、この祈りはすごい。57分間ノンストップ!

*1:むしろ復活のエネルギーで作動する魂は栄えるのだ(3John 1:2)。

再・神の国はいのちと統治

クリスチャンの道程をシンプルにまとめると-

  • まず神の国に御霊によって生まれる(John 3:5)。
  • 内なる神の国を得て、いのち(Zoe)の成長に与るが、それは人手によらない(Mark 4:26-29)。
  • いのちにあってキリストと共に支配する(Rom 5:17;21)。
  • これらの経験はすべてただ信仰による(Heb 11:6)。このとき思いが新たにされる必要がある(マインドのトランスフォーメーション、Rom 12:2)。

鍵はいのちと統治のバランス。私は今、このバランスをグッとアジャストされたようだ。究極的にはいのちと統治によって、地上に神の国を現出させること。そう祈れ、と主は言われた(Matt 6:10)。死すらも支配する。こうしてすべての膝はかがみ、すべての舌が神を褒めたたえる。まことに

神の国はことば(logos)ではなく、力(dunamis)にある。-1Cor 4:20

SO BE IT !!!

taking a breath...


i_exal_you

Kingdom Faith Worship...

「派」の起源―認知のフレームと内的世界モデル

ニッポンキリスト教(に限らないが)にはメインライン(日本基督教団系)、福音派、聖霊派・カリスマ派*1・・・と種々の「派」がある(カトリックはとりあえず別扱い)。メインラインから見ると現代における聖霊の働きすら拒絶され、福音派にはかつてカリスマ条項なるものがあって、聖霊派・カリスマ派と一線を画していたようだ。

かつて主イエスが「わたしの血を飲み、肉を食べる」と言われると、「誰がこんな言葉を聞いておれようか!」と人々は叫んだ。主ご自身も弟子たちに対してすら、「あなたがたは今は聞くに耐えられない」と言われた。復活の後ですら、弟子たちは心の鈍さのゆえに、主を認められなかった。これらはすべて主の御業が私たちの認知のフレームと内的世界モデルに収まり切れない故である*2

私たちは自分の世界観(モデル)や認知のフレームから外れる事には必ず拒否感を覚える。なぜならそれは自分自身の在り方、つまりアイデンティティーを脅かすからだ。そこで情報を取り込むとき、無意識的に認知の選択的透過(取り込み)を行う。自分にとって脅威とならない部分だけを選び取るのだ。聖書に対しても同じ。御言葉をも自然と取捨選択したり、あるいは認知のフィルターをかけて自分にとって脅威ではなくなるように"解釈"した上で取り込むのだ。同じ傾向の人々が集まり、いわゆる「派」が誕生する。要するに「派」は単なる認知行動科学的現象に過ぎない*3

今回、私自身がそれを行ってきたこと、ゆえに聖書も神の力も知らないことに気が付かされた。で、聖書の御言葉に生のままで向き合ってみると、これがこのところ繰り返している、やばい、となるのだ*4。天を地に下ろすように祈れ、と主は言われている。究極的には新エルサレムは小羊との結婚のために地上に降りてくるのだ(Rev 21:2)。現在はその前味わい、あるいは前哨戦と言える。自分が聖書をどのように読み、どのように取り込み、どのように自分の血肉にしているか、私はこのところずっと問われ続けている。それはあたかも積木崩し。賽の河原の石積みだ。かくして思い(nous)のトランスフォーメーション(メタモルフォーゼ)に与っているわけだ(Rom 12:2)が、このところ妻にもインパーテーションされたようで、彼女もしきりに聖書はやばい、やばい、と言い出している。

果たして私たちはどこへ向かっているのだろうか?主は私たちをどこまで連れて行こうとされるのだろうか?すでに賽は投げられ、ルビコン川ではなく、ヨルダン川に足を踏み入れてしまったのだ。要するにもはや神の御手から逃げられない。

*1:聖霊のバプテスマに異言が伴うか否かで、この二つも微妙に異なるらしい。
*2:あの3日間に私が経験した事象、見たり・聞いたりした内容も相当に外れている。私自身が消化し切れていないのだから。このような場合、人はそれを異常心理現象あるは変性意識現象として自分の認知のフレームを通過させ、内的世界モデルに組み込もうとするのだ。
*3:しかし、アイデンティティーに関わるゆえに極めて強固になり、その自己防衛機制も強力なものとなる。
*4:誤解を恐れずに言うが、幸福の科学や創価学会の書籍の方がよほどまともなことを語っている。

Katie Souza-懲役12年から解かれて

このヴィジュアル系女性の経歴、かなり驚いた。高校時代から危ない道に入り、ハリウッドでモデルをしたり、バンドを組んでいたが、ドラッグにはまり、バイヤーとなり、ついにはドラッグを自ら合成。1999年逮捕、懲役12年で刑務所へ。が、そこで神と出会う。刑務所の中でGod Podなるチームを結成し、伝道開始。神は早期に彼女を解放し、その後プリズン・ミニストリーに。

彼女の教えのポイントは、霊・魂・体からなる人間は、再生(ボーン・アゲイン)されたとき霊は完全とされたが、魂(思い・感情・意志)が罪により傷んでいる(Isa 30:26)。これを癒すのにいわゆるカウンセリングなどは時間と労力が必要だが、まことのカウンセラー・イエスの光を受けるとただちに癒されると(Mal 4:2)。そして魂が健やかであればあらゆる領域で神の豊かさを享受できる、と説く(3John 1:2)。

・・・うーん、これは英国のKingdom FaithのColin Urquhartが提唱したダイレクト・カウンセリングそのものではないか!?

また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。-John 8:32

神の名

最近、神に手で触れる感覚を味わっている。まことに

The Lord is at hand.-Php 4:5(KJV)

私たちが対峙する方は全能にして全知、遍在され、天と地を創造されたお方。私たちの頭脳(思い)や経験に収めてはならないのだ。

Dr.Lukeは最近やばいことを言い出していると感じる向きもあるかと推察している。実は、自分自身が一番、やばい、と思っているからだ が、私が主から語られていることはすべて聖書の御言葉どおり*1。たとえば

そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触て、おいやしになった。-Luke22:50-51

イエスはここで、切り落とされた耳を癒された。物理的に切断されたものを修復したのだ。あなたはこれを信じるでしょうか?「ノー」ならば、それまで。「イエス」ならば、では主が「信じる者はわたしのしている業をなし、さらに大いなる業をする」と言われたことをどうしましょうか?いや、それは大げさに言っているだけとか、福音が世界規模で拡大することの比喩として言われたのだとか・・・、まあ、いろいろ"解き明かし"はできる。鍵はそれぞれの信仰に応じて、だ。だからあえて追求も議論もするつもりは毛頭ない。私はただ、"Amen, So be it!!!"と祈るのみだ。

*1:聖書はすべて神の霊感による書と認めない人にとっては無意味な話となるが・・・。

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