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ISISの脅威

2011年よりアラブの春などは偽りであり、モスレムはシャリア法によるカリフ帝国の構築が目的であると書いている。たとえば

ISISはその成就のひとつの兆候と言えるが、アメリカと同盟国の相次ぐ爆撃にも関わらず着実に勢力を伸ばしている。なぜか。上の記事にも書いているが、連合国は霊的に弱いからだ。すでに霊的領域において敗北している。ゆえに地上でいくら武力を用いても勝利には決していたることはない。ちなみにいつものJoel Rosenbergによるとシリアでは次のような勢力図となっている。

ファイル 4685-1.png

オバマの霊は私たちの神の霊ではない。彼の霊はすでにあちらの霊であり、アメリカは霊的に捕られているのだ。勝てるはずがない。いずれISISはエルサレムに向かう。時代は神に拒絶された霊と愛される霊の相克。目に見えない領域における勝利をまず得る必要があるのだ。

Dr.Lukeの一言映画評

このところポツポツと鑑賞はしていたが、今回の作品はなかなか深みのある良い作品。かつての『エデンの東』的なテーマ、つまりエディプス葛藤を描いている。ハリウッドもまだこういった作品を作ってくれており嬉しく感じた次第。『裁かれる判事』。

ファイル 4684-1.jpg

“金で動くやり手弁護士”として名を馳せる、ハンク・パーマー。一流法科大学を首席で卒業したが、並外れた才能は金持ちを強引に無罪にすることだけに使ってきた。そんな彼にとって弁護士史上最高難度の事件が舞い込む。人々から絶大な信頼を寄せられる判事ジョセフ・パーマーが、殺人事件の容疑者として逮捕されたのだ。しかも彼は、ハンクがこの世で最も苦手とする絶縁状態の父親。法廷で42年間も正義を貫いた父が殺人など犯すはずがない……最初はそう確信していたハンクだが、調べれば調べるほど、次々と疑わしき証拠が浮上する。殺された被害者と父との歪んだ関係、亡き母だけが知っていた父の秘密、防犯カメラがとらえた不可解な映像。裁判は劣勢に傾いていくのに、犬猿の仲の2人は弁護の方針を巡って激しく対立する。

カネで判決を買うやり手弁護士が父との葛藤を通して、真実の親子、そして家族の愛情に目覚めていく。彼が何ゆえにカネこそすべてになったのか、その深い背景も明らかにされる。頑なに息子を否定する父の心の深みにあったものは?何ゆえに彼は犯罪に殺人に走ったのか・・・。息子はその真実を知る。最後の湖面の親子の静かなシーンがグッとくる。お薦めの作品。

続・神の栄光はヘヴィー

旧約で頻出する「栄光」は"kabod"。その原義は「重さ」。だから祭司たちは臨在の雲が満ちるとその栄光のため立って務めができなくなった(1Ki 8:11)。私はかつていわゆる「倒れる現象」はいかがわしいと判断し、何の意味もないとみなしていた*1。が、12月の自身の経験以降、栄光を自分のボディで体験的に味わった。神に仁王立ちされて臨まれるとまったく身動きできなくされる。聖霊によって屠られるのだ。今回、その栄光を新約においても見出した。ここは何気に見過ごしてきたが、パウロはこう証している:

なぜならば、私たちの一時的な軽い艱難は*2、卓越した仕方で、私たちに永遠の重み〔に満ちた〕栄光*3を造り出してくれるからである。その際、私たちは、見ることのできるものにではなく、むしろ見ることのできないものに目を注ぐ。見ることのできるものはしばらくの間のものであり、他方見ることのできないものは永遠に〔あるの〕だからである。-2Cor 4:17-18(岩波訳)

今、両手を軽く挙げるだけで、神に直接触れられ、この重みが臨むようになった。やばい・・・。

■追記:21:21-22:05まで風呂に入っていると、再度、あの現象が起きた。時間は15分くらいか?何も見えず、聞こえなかったが、体にtangibleに現れた。

*1:今、この点、全否定していたわけではないことに気がついた。自分で2002年英国でのキャンプの経験をこう書いていた

注:1回目は1982年5月、二度目は2002年8月イギリスでのキャンプの際、コリン・アーカートとひとつ霊のうちに歩むことを願う世界のパスターたち30名ほどで手を組み祈っていたとき、ノルウエーのエネヴァルド・フラーテンによって額にタッチを受けました。その時は何の変化もなかったのですが、席に戻ってから足腰が立たなくなり、ふらふらしてキャラバンに戻り、2時間ほど立てなかったのです。帰ってきて私のミニストリーの質は明らかに変わりました。

*2:注として、「艱難の一時的な軽さ」。
*3:注として、「栄光の永遠の重さ」。なお、重みという言葉は、ヘブライ語では「栄光」の意で用いられる。

マインドセットのトランスフォーメーション

下のコメントでも書いたが、これ、2015年のメインテーマだ。聖書を解き明かすとか、霊的意味を読み取るとか、その深さに触れて納得する・・・と言った聖書に対する態度は今回根底から覆された*1。たとえそれらが正鵠を得ていたとしても、所詮魂の中の事象*2。前にも書いたが、イエスが唾で泥を作って盲人の目を開いた事件の本質は、その霊的意味や解き明かしなどではなく、彼の目が見えるようになった事実である。この一回性の神の国の証明こそが本質なのだ。すなわち「御心が天になるとおり、地にもなるように」の実体化、神の国の現出*3

神の国はその種がまず内に宿る。それは人手によらず成長する。これには時間がかかる*4。御言葉はその栄養素。が、目の前の問題や病気や欠乏に処することは成熟とは関係がない。弟子たちはみな霊的には幼かったが、イエスから付与された権威により、悪霊を追い出し、病を癒し、らい病を清め、死者をよみがえらせた。イエスはご自分の業を信じる者たちもできると言われた。それは彼らの資質に基づくのではない。根拠はイエスが御父の身元に行くからである。かくして「イエスの復活のいのちの成長」と「神の国の現出あるいは統治」の両輪が回る。

いずれの場合も、鍵はマインドセットのトランスフォーメーション。いわゆる世の常識やこれまでの経験により構成された自分の内的世界モデルあるいはパラダイムのチェンジだ。天の領域の目に見えない実体(真理)こそがリアリティ。それがフレーム化された事象が目の前の事実(Heb 11:3)。真理と事実が矛盾するとき、どちらがどちらに服するのか。そこに信仰が働くのだ(→「信仰と希望について」)。

そしてあなたがたは、この世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造りなおされ、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであり、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2*5

SO BE IT!

■追記:誤解なききようにしてほしいが、みことばの学びを否定しているわけではない。ロゴスの理解はもちろん必要。ある時に御霊がレーマにしてくださるゆえに(2Peter 1:19)。

*1:それ自体を目的とするこのような姿勢は、ある意味自己満足のために御言葉をこねくり回して弄ぶこととも言えよう。御霊が即時的に語ってくださる分を受ければ良いのだ。
*2:魂の生まれながらの思いは認知の選択的透過性をよくするものだ(1Cor 2:14)。
*3:これは再建主義の言うモーセ律法による政治経済体制では決してない。イエスは決して革命を目指したのでもないし、パウロも奴隷は奴隷のまま、召された時のままであれとすら言っている。
*4:だから未成熟のまま病気に屈してこの肉体の死を許すべきではない。成熟するためにもこの肉体を健康に保つべきなのだ。ヨハネはそれを祈ってくれている(3John 1:2)。
*5:ここを宗教的あるいは道徳的あるいは倫理的にとらえてはならない。それはキリスト教を作るだけ。第一義的に神の国の現れとして理解すべきなのだ。

断食の効果

告白すると、私は82年に主を信じて以来、断食などは一度もしたことがなかった。というか、まったく自分のこととして思いもしなかった。もっと言えば、まともにとらえていなかった。そんなものは・・・と。しかし、今回、主イエスの言葉によってチャレンジを受けた。

しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない。-Matt 17:21;Mark 9:29

断食と霊的世界がどう関係するわけ?と思いつつ、とりあえず2日間、スポーツドリンクのみで過ごしてみた。たった2日間であったが、収穫は大きかった。まず感覚が研ぎ澄まされる。聖霊のタッチを実に繊細に感じる。魂と肉体に巣食っていた塵芥が次々に浮かび上がって、悔い改めに導かれる。肉体が弱ると同時にサタンの誘惑も大きくなる。それに対して自分の力では対抗できないため、血潮と御言葉のみに頼ることになる・・・。

というわけできわめて多彩な内的経験を味わった。そして断食を終えてみると、まず驚くことは、主が近い。文字通り、The Lord is at hands(Phil 4:5)。前にも書いたが12月の経験以来、神が手で触れられる感じなのだが、それがさらに近い。両手を挙げるだけで手の平に触れる。何なんだ、この感覚は?と自分で思いつつ、両手に触れた神の霊が深くに流れ込み、主の愛と臨在に伴う栄光の重さがズシッとくる。やっぱり、やばい・・・。

旧約の預言者たちも、イエスご自身も40日間の断食を行っている。さすがに40日はリスクが伴うが、なんと英国のKingdom Faithでは2015年初頭より40日間断食を教会全体で行っている。ただし、1日に一食、水曜日は完全断食、テレビ・ケイタイ・ネットなどを断ち、毎日家でパン裂きを行い、ひたすら神にのみ向かうという実行だ。

今回はたった2日間の実験的試行であったが、やはり霊的には大きな変化を覚えている。3月辺りに本格的な断食を行いたいと考えている。

視線を世界に移すと・・・

このところあの事件以来極私的な霊的事象に注意が集中していた。ちょっと一連の流れに辟易の感を覚える方もおられるかと思っている。一応、世界の動きはフォローしていたのだが、TwitterにClipするだけだった。今回ちょっときになるニュースが4つほど。こちらにもClipしておこう。

2015年、この世では「ケイオスの年」と、すでに書いているが、テンションがますます高まっている。臨界点も近いかも知れない。

結局・・・

このところずっと12月の3日間に起きことを整理しているのだが、あれは結局何だったのだろうか。あの時に見せられたことや聞いたことは何なのだろうか。単なる妄想・幻覚?これらの疑問はまだ消えない。ただ私のうちに何かが刻印されてしまった感覚だ。かくして"NEVER BE THE SAME"。神の道を歩むたには、ラザロの復活におけるイエスのように、敢えてリスクを取ること。それは自分を真に手放すことなのだ。

奥義としての聖霊なるお方

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。
・・・
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。・・・しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
・・・
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。-John 14:16-26;16:13-15

聖霊はイエスとは別の*1助け主。この方が来られるとき、御父とイエスがその人のうちに住まう。またすべての真理に導き入れ、イエスの栄光を現す。父から受けたイエスのすべてを知らせるからだ。

・・・つまりイエスの血潮の効力も、キリストと共なる十字架の死と復活も、天の処への着座も、神がキリストにあって成就されたすべての霊的事実(真理・リアリティ)も、御言葉に証された神の信仰の成就も、ゆえにそれに含まれる私たちの信仰の成就も、すべて聖霊による。ゆえに

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。-Eph 4:30

どうもこれまで、このお方、聖霊に対してデリケートな関わりをしていなかったようだ。というか、ほとんど無神経であった*2。あたかも種々のアプリケーションを華々しく活躍させる舞台のOSのように、ご自身はご自分を主張することがない奥義的なお方なのだ。しかしこのお方がおられないならば、神の業は何も現れない。しかも明確に人格を持たれるお方、ひとりのパースンだ。あえて自己主張をなされないお方ゆえに、なおさら悲しませてはならない。あの3日間以来、父がものすごく親密になり、神に手で触れる感じがする。内にいますお方としてだけではなく、外側的にも何かに包まれている感覚が絶えず消えない。そう、「キリストのうちに」とは聖霊に包まれていることなのだ*3

*1:Note also that the word another is αλλον, and not ετερον, which means different. The advocate who is to be sent is not different from Christ, but another similar to Himself.(Vincent)
*2:しかし、よくここまで見捨てることをされず、悟りの遅いものを忍耐強く導いてくださった。
*3:御霊と人の関わりは旧約と新約では決定的に異なる。"on"と"in"の相違と言えるが、私はこれまで"on"についてはやや薄かったと感じている。→「御霊と人の関わりについて―油注ぎ(on)と油塗り(in)―

右耳の癒し

12月22日の朝、右の耳が聞こえていることに気がついた。2010年以降、右はほとんど実用にならず、特にケイタイはまったくダメだった。音はするが何を言っているか分からない。音楽もノイズが被ってほとんど音楽にならない。当時の診断は右耳中度難聴。それがあの朝、あれ?と・・・。それから数週間経つが、ますますよくなっている。

ファイル 4677-3.jpg

上のグラフは当時のデータ。右が明らかに悪い。本日、サイエンティストを気取るDr.Lukeとしては正弦波発信ソフトを使って自分で聴力検査をしてみた。測定周波数は100,500,1000,3000,6000,10000,14000Hzまで。15000Hzはさすがにこの年齢では無理。結果は次のとおり。

ファイル 4677-1.jpg

主観的には左右ほとんど同じ感覚だ*1。ケイタイもOK。音楽も実に美しく聴こえる。WOW 極私的に客観的データを提示しますが、これをどう解釈するかは読者諸氏にお任せする次第。

*1:右は左より感度が悪いが、重要なポイントはグラフの形がほぼ同じという点。上のグラフと比べると明らか。

祈りのフルスロットル

再建主義の富井氏が「霊的世界は常識を完全に超えている」と書いておられる。12月にあの3日間の体験をした私としては経験的にも認めるところである。確かに霊的領域あるい実体の世界が存在し、目に見える事象はその反映(framed)なのだ(Heb 11:3)。これは御子が神の栄光の反映、〔神の〕実体の刻印であるのと同じだ(Heb 1:3、岩波訳)。

私たちの祈りはその世界に反響し、すでにキリストの十字架により武装解除されているあの者とその軍隊を撃破する(Col 2:15)。私はメッセでも言っているが、正直、祈りは好きじゃなかった。祈らなくてもそこそこやっていけるじゃん、と嘯(うそぶ)いていた。とんでもない無知と奢りと気がついた。霊的世界には主の血潮とイエスの名による祈りあるのみ。この世やキリスト教界における目の前の個々の事象を分析したり、対処しようと試みても、無意味とは言わないが、時間と労力を奪われるだけ。むしろあの者に振り回されるだろう。第一に霊的領域の存在を対処すべきなのだ。

かくして今回、祈りに対する認識が根底から変えられた*1。2015年ヨベルの年。が、われわれの祈りのパワーはフルスロットルにすべき時代であると・・・*2

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。-Eph 6:18

tomi 2015/01/13(火) 11:57

霊的世界は常識を完全に超えている

Babymetalというバンドが世界で人気。

結成2年目で海外公演をこなした。

https://www.youtube.com/watch?v=flDG_VAhzt0

中高生のアイドル女3人組ユニットだがバックバンドがメタルである。

バックバンドのメンバーは、超絶テクニックで有名なプレーヤーがそろっている。

インタビューで、本人たち曰く、ライブ中は狐の神が降臨し、完全に憑依するので、終わった後には記憶がない。

これは完全に悪霊の憑依である。

犯罪でも同じ表現をすることがある。

名古屋アベック殺人事件で残虐行為を働いた犯人たちは犯行の記憶がないと取材記者に対して言っている。

人間は、もともと神殿として作られているので、悪霊が憑依し、しかも至聖所を占領されると、自分の意志と無関係に行動する。

非常に恐ろしいことなのだが、無神論者はそんなことに興味がなく、売れればいいと思っているから、TVでも肯定的に紹介する。

まだ中高生の女の子にこういうことをやらせていることの罪はきわめて大きい。

そもそもアイドルは偶像という意味だ。

アイドルになって華やかな姿しか見ておらず、霊的な世界を知らないから、小中学生があこがれて、AKBとかアイドル業界に入るが、アイドルでその後幸せになった人がどれだけいるのだろうか。

神の世界も悪魔の世界も、霊的な世界において、全的献身が求められる。

また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、{妻、}子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。(マタイ19・29)

人間は、もともと神に全的に献身するために造られている。

この地上の常識を超越したレベルで働くことを求められる。

牧師や伝道師や宣教師になるとわかると思うが、われわれは、人間の幸不幸と関係ないところの存在によって動かされている。

悪魔側にいる人々もトップレベルになれば同じことに気づくはずだ。

世界は、神と悪魔の戦いの舞台であり、われわれは駒なのだ。

「家内安全、無病息災、安心立命」などのために宗教に入る人は完全に誤解している。

キリスト教であれ、仏教であれ、神道であれ、サタン教であれ、ご利益宗教と理解している人々は、それほど霊的世界の存在から期待されていないのだ。

神にも悪魔にも「この人々はこのレベルの利用価値しかない」と思われている。

しかし、両方の側から利用価値があるとして選ばれた人々は、そんなレベルの理解では許されない。

だから、利用できるようになるまで、ぎゅうぎゅうの目にあわされ、訓練をされる。

神もサタンも、究極的には、われわれが皮一枚で、中を全部くりぬかれた存在になることを期待している。

「自分が輝くために○○教を信じています」とか「これを信じると、生きがいを持って人生を歩める」とか「生きる力を与えられる」、「お金が儲かる」などというようなレベルの理解しかしていないならば、それは、「そのレベルの活躍」しか期待されておらず、放置されているのだ。

用いられる人は、皮一枚になるまで試練を受け、最後には中を全部くり抜かれ、「私はどうなってもかまいません。御心のままになさってください。私には恥を与え、あなたは栄光を受けてください」と告白するようになる。

本当の聖書の世界は、今のご利益宗教化したキリスト教とは全然別のものである。

*1:クリスチャンが何を今更、と突っ込まないでくださいませ。覚りの遅い者ゆえ
*2:一応念押ししておきますと、祈りは自分自身は安息している時にもっとも流れるもの。自分の力が入っているときはむしろ苦痛。ヨベルの年の大安息に与れば与るほど祈りは楽しく、麗しく、自由に流れ、力(デュナミス)に満ちるのだ。

御言葉は神の信仰の実体と告白

神の御心においては天地の基が置かれる前から、創造も、キリストの贖罪も(Rev 13:8)*1、私たちの選びも(Eph 1:4)、黙示録(完了形で書かれている)の完成も、すべては既定路線だった。それらは神の信仰においてはすでに成就しているのだ。それらは神の信仰の実体であり(Heb 11:1)、時に従って(Gal 4:4)神が語り出すことにより、それぞれが時空間において現出し、成就した(Heb 11:3)。そして今尚、継続されている。私たちはその神の信仰のうちに置かれている(cf.Gal 2:20)。だから私たちにおいて御言葉は必ず実現し、成就する。たとえそれらが人間の知恵には不可能であると思えても、だ。なぜなら神の信仰だから!イエスは人間としてそのことを実証された。しかも同じ業を私たちにもせよ、と言われる。WOW!これ、実にヤバイ!

鍵は思い(nous=mind)がトランスフォーム(metamorphoo)され、神の信仰と同じことを語ること。「告白」の原語は"homologeo",i.e.homo=同一の、logeo=ことば(logos)。つまり「同じ事を語る」こと。「私の信仰!」などと主張することなく、神の信仰に私のそれを飲み込んでいただくのだ。聖書を道徳や宗教の書として、あたかも清く・正しく・美しく生きるためのルールブックすることなどは愚かにして大いなる損失。御言葉は神の信仰実体(Substance)であり、告白(Decree)であり、しかもこう書かれている:

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。-Isa 55:11

ヤバイ・・・・。

*1:この聖句の「世の初めから」が「ほふられた」にかかるか、「いのちの書に書かれていない」にかかるかは議論がある。Alforfdなどはペテロ書(1Pet 1:20)などを根拠に前者にかける。邦訳の永井訳も同じ。

日々キリストにありて

ファイル 4672-1.jpg


ニール・アンダーソンによる黙想


 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、-それというのも全人類が罪を犯したからです(ローマ5:12)。

 不幸なことにエデンの園における牧歌的光景は混乱させられました。創世記3章にはアダムとエバが罪を犯したために神との関係を喪失する悲しい記録があります。人類の罪の結果はドラマティックで、即時的なものであり、はるかに広く影響し、人類のすべての子孫にまで悪影響を及ぼしました。
 堕落の結果、霊的にアダムとエバに何が起こったのでしょうか?彼らは死んだのです。彼らの神との結びつきは損傷され、彼らは神から切り離されました。神は明確に言われていたのです、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と(創世記2:17)。彼らは食べ、ゆえに死んだのです。
 彼らは肉体的に死んだのでしょうか?違います。肉体の死も開始されましたが、肉体的には数百年間生きたのです。彼らは霊的に死にました。彼らの魂は神から切り離されました。神の臨在から退けられたのです。彼らはエデンの園から追放され、剣を持ったケルビムがその入口を守ったのです(創世記3:23,24)。
 アダム以後、すべての人は肉体的には生きても、霊的には死んだまま、神から切り離された状態でこの世に生まれるのです。パウロは書いています、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」(エペソ2:1)。
 イエスはどのようにこの問題を処理したのでしょうか?ふたつのドラマティックにして、人生を変革する方法でした。第一に、十字架において私たちを死に定める病根、すなわち罪を対処するために死なれました。ローマ6:23はこうあります、「罪の報酬は死である」と。そしてイエスは死から復活し、私たちに霊的ないのちを下さいました。この節はこのように続きます、「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」。イエスご自身も証しています、「わたしが来たのは彼らがいのちを持つためである」(ヨハネ10:10)。
 悪いニュースは、アダムの子孫として、あなたは霊的死を継承しました。しかし永遠の福音は、キリストにある信仰による神の子として、キリストが備えて下さったいのちによってあなたは永遠に生きるものとされたのです。

 天の父よ、感謝します。私の罪のために十字架で死ぬためにイエスを遣わされ、私がいのちを得るために、彼を復活させて下さったゆえに。

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