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人間のプライド

先に脊柱管狭窄症で杖をついていた姉妹が、セレブ中に足がガクガクし出したと思ったら、癒された証しを紹介した。彼女は今、年齢の割に(失礼)実に動きが素早いのだ。とても杖をついていた人とは思えない。

で、その彼女がかかりつけのある病院の医師に、癒されたことを報告すると、その医師曰く、「まあ、二年もしてみてください。また出ますから」と。彼女、「失礼しちゃうわよね、もうとっくに二年以上経っているけど、ピンピンしているのに!」と。

これが人間のプライドなのだ。その医師はもう治らないと診断したそうだが、ゆえに彼女が癒されては困るわけ。自分のコケンに関わるからだ。これが罪に犯された人間の思いに巣食うプライドなのだ。神に栄光を帰することは決してできない。あの生まれつき盲目の癒しのあと、人々がどんな行動を取ったか(John 9:6-15)。時代は変われど人間の本質は同じなのだ。げに恐るべき存在、それはニンゲン。されど神は・・・。

「主の祈り」はすべてを網羅する

クリスチャンのあり方は、ある人々は浸水礼を金華玉条とし、ある人々は聖化されることを、ある人々はしるし・不思議を、ある人々は教会の地方的立場を、ある人々は繁栄の教え・・・・と、まことにそのスペクトルが広い。これでいわゆる「なんとか派」や「かんとか派」ができる。あるいは「自分たちは宗派ではないとする派」もある。しかし、それは各論。総論は「主の祈り」のとおり、神の国の地上での現出にある。その中に、罪のゆるし、病の癒し、しるし・不思議、浸水礼、聖化、教会生活、繁栄など、各論が展開するのだ*1。「主の祈り」をいわゆる主日礼拝の儀式ではなく、私たちがマジ受けするならば、実はかなりやばいことなのだ。サタンはそれを恐れている。なにしろイエスご自身による祈りだから!

SO BE IT!

*1:私も何か対ニッポンキリスト教的にしてアンチテーゼ的スタンスであったかもしれない。宗教はゴメンだと訴えつつ。これはこれで十分楽しませてもらった。が、神の国の現出はそのようなものではない。もろ神の国なのだから。これまで楽しみとしてことがすっ飛んでしまうほどに、やばいのだ!

信仰と論理

主は生まれつき盲目の男の目を開くとき、つばきと土を混ぜて泥を作り、彼の目に塗り、シロアムの池に行って洗えと命じた。「はぁ?主よ、彼は目が見えないのですよ、シロアムの池は階段で降りるのです。目を開いてあげてから洗えと言うべきでしょう?」

ファイル 4706-1.jpg

私たちの生まれつきの魂の一機能である思い(mind)は必ず理屈に従ってジャッジする。それは不合理だ、論理的でない、おかしい、馬鹿らしい・・・と。逆に言えば、生まれつきの魂の人は自分の理性を誇り、論理に従うことを人間性の最高の指針とし、自身のプライドの根拠とする。だから、彼らは霊のことは理解できないし、彼らにとっては愚かなことなのだ(1Cor 2:10)。つばきで泥を作って、目に塗るって!?

論理は「p→q」がunitだ。「pならばq」と読む。英語では"p implies q"だ。pとqを満たす要素の集合(真理集合)をそれぞれP、Qとすると、このunitが真であるときは、「x∈Pならばx∈Q」のこと、i.e.P⊆Qのことだ。言い換えると、「x∈Pであるのにx∉Qであることはない」ということ、すなわち「¬(p∧¬Q)」のこと。この真理表は次のとおりになる。

pq¬qp∧¬q¬(p∧¬Q)
××
××
×××
×××

このような操作を形式論理というが、私たちの通常用いている思考法則(シーケンス)を定義したものだ*1。私たちはこのような法則、まあ、地上の知的法則に従うことを良しとする。が、イエスはあえてこのような法則を逸脱するのだ。そもそも「神は父・子・聖霊の三パースン(位格)にいまして、唯一である」といういわゆる三位一体の定式もこの論理から逸脱している。これをパースンにおいては区別されるが、本質においては同質(ホモウシオス)とか解釈を加えて一応納得するわけ。が、自然における光ですらも波であり、粒子でもあるわけだから・・・。

・・・とお遊びは置いておいて、イエスはあえて私たちのオツムを弾けさせる。唖の男を癒すときには、両耳に指を入れ、つばきをつけて彼の舌に触った(Mark 7:33)。はあ?何の意味が?知恵の木の実を摂った人類に対する神の挑発とも言えるかも知れない。神の知恵と人間の知性と、どちらが偉大なのか?神の知恵は人間にとっては愚かなのだ。それが十字架だった(1Cor 1:18)。神の国を地上に顕す鍵は従順。それはすなわちリスクを取ること。人の目にとっては愚かな道を歩くこと。ラザロを蘇らせる時も、イエスはあえて愚かにも4日も待った。会堂司の少女を蘇らせるときは、「寝ているだけだ」と言って、人々から馬鹿にされた(Mark 5:39-40)。イエスは自分の身内からも「狂っている」と見られている(Mark 3:21)。パウロもしかり(Acts 26:24)。

かくして信仰は希求するものの実体、見えないものの証明なのだ(Heb 11:1)。それは論理を超越している。目の前の事象を論理の網でシーケンシャルにとらえたがるのが人類の性。が、イエスは違う。すべてを信仰の目で見ている。それは見えないものが見えるものを構成することを知っておられるから(Heb 11:3)。彼は霊によりたちまちのうちに見えない実体を把握し、それを語り出すのだ。すると目の前の事態は一瞬にして変えられる。これが神のキングダムにおける生き方なのだ。キングダム・シンキング(マインド)キングダム・アッタランス。まことに

「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13

*1:ちなみにこの真理表によれば、「-1=1→(-1)2=1」も、「2=1→22=1」も正しいのだ!え、なぜ?と質問が。要するに、仮定法、反実仮想の世界。

「主の祈り」の意図

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。-Matt 6:9-10

私たちのセレブではいわゆる「主の祈り」とか「使徒信条」告白とかの形式的なことを行っていない。が、昨年の後半より、なぜかこの主の祈りが心にクローズアップしてきた。いつか語る必要があると。理由は不明。ただこれをこれまでのようにスルーすることはできないと感じ出したのだ。

いったい主の祈りの意味は何か?何が地上で行われるのか・・・。自分が知らないことに気がついた。だから積極的に祈りもしなかった。上のニール・アンダーソンにもあるが、その意味が分からないでは祈れるわけがない。かくして自分が「聖書も神の力も知らない」こと、「イエスがなされたこと、否、それ以上のことを私たちもなし得る」ことのチャレンジを受けたとき、主の祈りの意味も輪郭が浮かび上がってきた。

解答は、イエスを見よ!と。彼が何を語り、何をなされたか。彼こそが完全な真理、御父の体現者、御国の現出をもたらしたのだから。英国のColin Urquhartは言っている、イエスの愛は病んでいる人にsympathyを覚えたのでなく、compassionを覚えたと*1。sympathyからは奇跡的癒しは起きないが、compassionからは起きると。よくニッポンキリスト教で「弱者や病者に寄り添う」といった表現がなされるが、これはsympathy。対してイエスは彼らの虚弱や病気をcompassionにより具体的に癒された。目に見て、手で触れる形で!この二つは宗教と神の国の違いを決定的に明らかにする。

昔、「同情するなら金をくれ」なるセリフが流行った。今は、「同情するより力(デュナミス)を与えよ」と言うべき時なのだろう。

*1:sympathyは実は自己憐憫の投影なのだ。だからもっともらしく見えるが、巧妙な偽りで、力はない。なお、symapathyは同情、compassionは憐れみ、と一応訳しておきたい。

日々キリストにありて

ファイル 4700-1.jpeg


ニール・アンダーソンによる黙想


 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります(ヨハネ7:17)。

 神の御心を知ることは20世紀のみの課題ではありません。キリストの時代の人々もそれでもがいていました。ある人々はイエスのことを「良い人である」と評し、また他の人々は「民衆を惑わしている」(ヨハネ7:12)と言いました。これらの人々はイエスが自分を真理に導くことを知り得たのでしょうか?
 機会をえては、イエスは神聖な導きの基準を設定しました。彼の最初の訓戒は「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」(ヨハネ7:16,17)でした。神の御心を知る本質的な前提は、イエスによれば、御父の御旨を行う意思があることです。
 神の御心とは何でしょうか?イエスを信じる者たちにとっての神の御心は、悪しき者に打ち勝ちキリストのうちに生きることであり、神が召した者として完全に確立されることです。主の祈りの最初の言葉に注意してください:「天の父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ6:9,10)。この祈りを祈るとき、私たちは天において現在なされている御心が地に行われることを求めるのです。明らかに神の御心は天においては完全に行われていますが、地では不完全です。
 そのことがいかなることであるかを知らずして、あなたは神の御心に完全に明け渡すことができますか?神の御心以上に自分の意志を保留してはいないでしょうか?あなたに対する神の御心は善であり、受け入れ易いものであり、完全であることを本当に信じていますか?(ローマ12:2)もし神が神であられるならば、あなたは神を主と呼ぶのですから、神はあなたの人生においてご自身の意志を行使する権利を持っておられるのではないでしょうか?

 父よ、あなたの御心が、天に行われるとおり、私の思い、言葉、行いの中に、今日という日に行われますように。

TODAY'S CELEBRATION 【Jan 25, 2015】

UPしました。

●タイトル:神の御業は栄光の中で
●聖書箇所:イザヤ57:19;ヘブル13:15;2コリント4:13など

●Living in the Glory:






■お詫びとお知らせ:
現在、セレブの場所は公開しておりません。収容人数の関係もあり、すでに手狭になりつつありまして、今、新しいチャペルを祈り求めているところです。備えができましたらお知らせ致します。なお、すでにお知らせしておりますが、以前の東神奈川のチャペルは兄弟たちに明け渡しておりますので、Dr.Lukeはそこにはおりませんので、ご注意ください。

ある姉妹の癒しの証

1月14日にその姉妹のご主人からメールが入った。「心臓が肥大して水が溜まるなんてことが本当にあるのですか?」と。私、「多分心膜炎でしょう」。ご主人、「どのくらいで治りますか?」私、「専門でないので分かりません。でも祈りで直ちに癒されますよ!」

で、そのご主人は4日間ひたすら祈ったとのこと。そして病院で検査すると、X線写真のビフォー&アフターを見せてくれながら医師が一言、完治してますね・・・・。姉妹は思わず「ハレルヤっ!」と叫びそうになったが、場所柄抑えたとか・・・。この御夫妻は前に書いたが、ふたりともほとんど死に至ったことがある方々。ご主人は重症の肺炎で、奥さんはDOAで病院に運び込まれたのだ。本日伺って兄弟姉妹が励まされた証。

付録:姉妹いわく、自分がお父さんにこんなに愛されていたなんて、と。これも御心が天になるごとく地にもなるように成就、すなわち神の国の地上での現出の一コマではある。なお、念の為に、彼女がどのような医学的処置を受けたかは不明。単純に祈りだけの結果か、医学的処置の効果もあるのかは別に吟味が必要。

AD70年にイエスは聖徒たちと再臨した

いつもの再建主義の富井氏の論。AD70年の"最初の"再臨のことについてだ。「すべての聖徒たち」とは「旧約のクリスチャンたちのこと」だとするようだ。加えてAD70年に再臨があった外部証拠はないが、聖書は自己完結だから、外部証拠は不要とも。面白いです。

tomi 2015/01/25(日) 02:54

紀元70年のイエスの再臨時に聖徒も随行していた

Q.「すべての聖徒たちも主とともに来る」という箇所がありますが、もしポスト・ミレが正しい場合、これは紀元70年に実現したということになります。
 
A.

山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。(ゼカリヤ14・5)

アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。(ユダ14)

紀元70年にこの箇所は成就しました。

これらの聖徒は、旧約時代のクリスチャンです。

旧約時代におもにイスラエル人がクリスチャンになりました。

(ここでクリスチャンというのは、「来るべき約束のメシアを信じる人々」の意味)

その数は膨大でした。

イスラエル人は、海外でも伝道活動をしましたので、真のメシアを信じる人々は海外にもいたでしょう。

では、彼らはいつ主とともになったのでしょうか。

主といっしょに来るからには一緒になった時期があります。

それが、復活と昇天です。

イエスが十字架にかかられ、その後復活したときに、旧約時代の聖徒も復活しました。

彼らの一部がエルサレムに現れたと記されています。

そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現われた。(マタイ27・53)

彼らは、その後イエスとともに昇天したのでしょう。

そして、紀元70年になるまで、天にいた。

紀元70年、イエスが旧約時代を終わらせ、イスラエルを裁くために来られたときに、彼らも同行した。

それを示す外部資料はありません。

しかし、聖書は外部資料を必要としない。

「聖書は聖書によって解釈する」のが原則ですから。

だから、われわれは、紀元70年にイエスの再臨があったときに、旧約時代のクリスチャンたちもいっしょに裁くために来たと考えるべきです。

御霊による整体-キングダム・マインド

すでに右耳の中等度難聴が癒されたことは書いたが、実は私のボディにはもうひとつ問題があった。それは腰。高校時代に椎間板症をやったことがあるのだ。で、今回、正月に右足の裏とふくらはぎの痺れとして症状が出た。10分ほど歩いていると感覚が麻痺し、鉛の重しを巻き付けているような感じで、ヒラメ筋がパンパンに張ってしまうのだ。これにはちょっと参った。ジョッギングも筋トレもスイミングもアウト。MRIを撮ると次のような状態。

ファイル 4701-1.jpg

2番目の←の部分が椎間板が水分を失って、やや飛び出し、脊髄神経を圧迫しているとの所見。他の2箇所は椎間板が脊椎骨の中に入り込んでいる。Dr.いわく、かなりカゲキなトレーニングをしましたねぇ。スイミングは特に仰け反るのでまずいです・・・。うーん

さて、どうしよう、と。ここで思いのトランスフォーメーション、要するに地的医学的に思考することをやめ、神の国の思考パターンを求めて聖霊に祈ると・・・。イエスの名によって命じよ、と。ああ、これは極私的にはもっともやりたくないこと。私のサイエンティストとしてのプライドが疼く。しばし葛藤した後、右手を腰骨の上に置き、「イエスの名により命じる、骨の位置が正常になって、しびれよ消えよ!」するとこれがまた理解できないことなのだが、体が勝手にビックンと動き出し、あたかも誰かに整体を施されているかのようにボキボキとクネクネと・・・。なんなんだ、これは!これが数回起こり、結果を言うと、しびれは現在は消失。

かくしてどうもこのところこれまでの私の思考パターンや世界モデル(パラダイム)から外れた、わけの分からないことが続いている。で、いろいろな証しを渉猟していたが、どうもこの人の経験ときわめて似ているのだ。彼も3日間続き、ヤボクの渡しでのヤコブの経験だと言っているが、私もそのとおりと感じている。私も2日目には、ヤコブと同様に「祝福してください!」と叫んだのだ。彼の名はBill Johnson、その筋ではかなり有名な人のようだ。The Kingdom of Godを地上にもたらすと、何か共有できるビジョンを持っている。最近、日本を訪れ、私たちの姉妹が参加してきたとのこと。

神の国を地上に実現する鍵はトランスフォームされた

KINGDOM MIND

にあるようだ。

リバイバルって?

正直、この言葉にはアレルギーを感じてきた。リバイバル音頭を踊ることも、踊らされることも真っ平御免と思っていた。それはどこかにヤラセの臭いが漂っているからだ。日本民族総福音化決起集会とかは、かつて全学連などの活動を遠目で見ていた世代としては、ちょっと怖いのだ。そもそも何がリバイバルするわけ?

極私的にはメッセージでも何度も語っているが、神ご自身が御業をして下さらないならば、私は何もする気がないですから、と正直思っていた。人間の汗とか働きは臭うだけ。「かっみさまにィ~、すべての栄光をお返ししますゥ~」という臭さだ。神は私たちの栄光のために奥義なる素晴らしい嗣業を用意してくださったと書いてあるのだ(1Cor 2:7)。素直に受け取れば良いだけ。

かくしてやや斜めに構えつつ、六本木やJazz Liveなどの遊びにかまけてきた私ではあるが(これはこれで実に楽しい時間だった)、どうも神はすでにご自分の業をなされてしまったようだ。12月のあの経験をどう理解するか、御言葉を調べ、いろいろな証を渉猟してきたが、少しづつ納得できつつあるのだ。あの時に見たり聞いたりしたことは今でも鮮明に焼き付いている。その意味はまだ不明の部分も残されているのだが・・・。

リバイバル-私にとって最も愚かしくかつ避けて通りたかった事態*1。これは神の国の現出、主ご自身の現れだ。神の国はリアルかつタンジブルに地上にもたらされるのだ。手で触れることができるほどに。そしてすべては臨在の雲の中で、その栄光、重さにあって神ご自身がなさるのだ。

神の国はロゴスにではなく、デュナミスにある。-1Cor 4:20

*1:本来、リバイバルは神のなさること、厳粛なことなのだ。人間の業が入るとそれは単なる音頭になってしまう。本当のところこれを私は嫌ってきたのだ。

私たちのアイデンティティと居場所と付与された権威

天の御心を地においてなす鍵は、3つ。私たちは、何者であるか、どこにいるのか、そして何をなし得るのか。

・アイデンティティー→もちろん神の子(John 1:12)
・居場所→キリストと共に復活して天の座(Eph 2:6)
・付与された権威→蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威。ゆえに害を加えるものは何一つない(Luke 10:19)

問題はこの御言葉をどう理解するか。神の子であるとはどういうこと?天に座しているとは?敵のあらゆる力に打ち勝つ?ここで思い(mind)のトランスフォーメーションが必要なのだ。これまで世で養った理解では到底ないのだから!まことに

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。・・・
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。-1Cor 2:16

とあるとおり。私たちの生来の思いでは決して理解できない(1Cor 2:14)。それは宗教の教義を作り出すだけ。が、イエスご自身が御父の御心を実践してデモンストレーションして下さっている。「わたしを見る者は父を見たのである」と。必要なのは聖霊による啓示(光)だ。まことに聖霊こそいのちの成長および御国の統治の鍵となるお方なのだ。

神の国は、飲み食いではなく、聖霊にある義と平和と喜びなのです。-Rom 14:17

天の領域と地の領域

いつもの再建主義の富井氏が興味深い記事を書いておられる。霊的世界に軽く対応することはリスクがあるということだろう。まことにこの世界は見えない世界の実体の反映なのだ(Heb 11:3)。

tomi 2015/01/22(木) 22:32

宗教家への侮辱は自分を滅ぼす
霊的世界の存在は、現象世界の存在の優越を嫌う。
霊的存在は、現象世界のボスである。
彼らはプライドを持っている。
神もサタンも主権者としてふるまうから、人間が霊的世界を利用しようとしたり、バカにするようなことをすると、報復する。
たとえば、あるプロデューサーがヘビメタグループを作って、悪魔崇拝の儀式を真似たり、バフォメットや魔方陣などを利用する。
このプロデューサーには「そんな宗教的理由はないです。単なるファッションとして・・・」というかもしれないが、霊的世界の存在はそれを放置しない。
サタン崇拝の真似ごとをした人々を利用して、さらに過激なことをやらせようとする。
いろいろなアイデアを与えて、ヒットさえ、悪魔の影響を拡大するために資金も人材も提供する。
霊的世界を利用しようとする人間は、その霊的世界に利用され、どうしようもないくらいにこき使われる。
そして最後、利用する意味がなくなったら殺す。
霊的世界の存在の知恵と力は、現象世界の存在をはるかに凌駕しているので抵抗することはできない。
唯一抵抗する手段は、その霊的存在よりも強い霊的存在に頼ることである。
つまり、サタンに対抗するには神に祈るしかない。
遊びであってもサタンに属することを利用してはならないのはこういう理由からだ。
誰でも為政者が宗教者を利用したり、攻撃すると、霊的存在は、その為政者に復讐する。
「現象世界の存在が、霊的存在にたてつくな」と。
信長は僧侶を殺害したが、最後、本能寺という宗教施設で殺される。
ウジヤ王は、祭司以外に行ってはならない祭儀を行ったためにらい病になった。
天が上で、地が下なのである。
霊的存在は、現象的存在を「地上のもの」として低く見ている。
現象世界の存在である為政者が、霊的世界との取次を行う祭司を侮辱することは、創造秩序を犯すことになる。
どの地域に行っても僧侶や司祭、祭司、牧師、伝道師などが尊称されるのは、それをしないと、ろくなことが起きないからなのだ。
そういう体験をすべての文化が経験してきた。
聖書では、どんなにろくでもない親でも、親に暴力をふるったり、侮辱するような子は、処刑の対象になる。
なぜか。
それが創造の秩序だから。
預言者エリシャに対して「禿げ頭よ、上れ」とはやしたて、無礼を働いた子供たちは、その場に熊が現れ、殺された。
どの世界でも、宗教家への無礼は、必ず自分に跳ね返る。
神的文化では、このような秩序への自覚が鋭くなる。
だから、冒涜罪を重く受け取る。

神が人を創造されたとき、

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きる魂となった。-Gen 2:7

体は容器、そこに命の息=霊を吹き込むと、生きる魂となった。魂は思い・感情・意志からなるが、私たちの自意識の座である。これは物質である体と霊との接触から生じている。私たちは霊にいます神の臨在を魂で意識することができる。それを体に伝達してニューロンの興奮が生じると行動となる。つまり非物質的な存在と物質的な存在は相互作用をなし得るのだ!だから祈りには具体的な力がある。祈りは霊的領域に反響し、その世界を動かす。それが地的現象として現出するのだ。このことを私は中等度難聴であった右耳の癒しと、実はもうひとつ癒しを経験して実際に確認した。確かに祈りは山をも動かすのだ。

神の信仰を持ちなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じているなら、そのとおりに成るであろう。
そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。-Mark 11:22-24

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