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アノインテド・パワー・プレイヤー

how do you feel? sense the spiritual heaviness on you? if so, that's the Glory of the Lord. Glory is heaviness, as I mentioned before...or some kind of mass hysteria phenomenon?

イエスの御業も使徒の業も継続している!

私自身がそうだったが、福音書や使徒行伝の世界はもう完結していると考えていた。理由は聖書が完成しているから。あの3日間の現象を経験して、私のうちの何かが根本的に変化した。結果、無意識のうちに、そう考えていたことに気がついた。だから、イエスや使徒達がなした業は現在では見られない、と。根拠は

完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。-1Cor 13:10

<完全なもの=聖書>と何気に思い込んでいたのだ。その前には異言も預言も止む、とある。はて、現在それらは止んでいるだろうか?NO!・・・ということは、完全なものはまだ来ていない!それはおそらく次の経綸、千年期だろう。イエスが死と復活を経て昇天し、聖霊を注がれた現在の経綸は、イエスの御業よりもはるかに大いなる業が信じる者によってなされるのだ。イエスご自身がそう言われた:

よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである
わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。-John 14:12-14

理由は、イエスが御父の身元に行かれるから、だ。私たちに超能力があるとか、賜物がある・ないとかの問題ではない。この約束をマジで受け取るか、と主は事あるごとに迫って来られる。使徒の時代と現在にも切断はないのだ、と。もはや、どうにも逃げようがない主よ、あなたのお言葉は真実であり、そのとおりこの身になりますように!

それぞれの信仰に従って

主イエスと私たちの関係の原則は信仰。長血を患う女も、バルテマイも、らい病人も、百人隊長も、ツロ・フェニキアの女も、みな自身の信仰によって願うものを得た。あの富んだ若者のように、あるいは律法学者のように、どんなに自分の資質や善行や功績をアピールしても無意味。エターナルライフ(EL訳と略す)によるTRからの訳にはこうある:

さて、信仰は、望んでいることの実体、目に見えないことをあばくことです。-Heb 11:1

岩波訳では

信仰とは〔私たちが〕希求している事のであり、見えないものの証明である。

そしてこの「基」について注があり、1章3節で実体と訳した語とある。それは

彼は神の栄光の反映、〔神の〕実体の刻印であり-Heb 1:3

WOW! 信仰は実体、キリストが神の実体の刻印であるように、信仰は私たちの希求していることの実体なのだ!つまり信仰を持つことはその実体を持つことそのもの。今、目には見えないが、いずれあばかれる、すなわち時空間の中に出現する(証明)。またマルコ11:22では主はこう言われる:

するとイエス様は答えて彼らに言われた。「神信仰を持っていなさい。なぜなら、まことにあなたがたに言いますが、この山に、『取り上げられて、海に投げ込まれよ』と言い、自分の心で疑わず、自分が言っていることが起こっていると信じる人は、その人が言ったことがその人に成るからです。それゆえ、あなたがたに言います。あなたがたが祈って求めているどんなものでも、受け取っていると信じていなさい。そうすれば、それはあなたがたに成ります」。-Mark 11:22(EL訳)

信じるのではない、神信仰を持っていること。これはガラテヤ2:20でも言える。

今、肉にあって生きているのは、御子信仰によって生きるのである。-Gal 2:20(私訳)

永井訳ではこうある:

されどわれ今肉にて生くるは、我を愛し給い、且つ我がために己自らを付し給いし神の子信仰に在りて生くるなり。

これをある人はアセンディングとディセンディングと表現している。私たちはキリストと共に天の座についている。体は地上にあるが、霊はそこにいる。その臨在に入ることがアセンディング。そしてその霊的領域で祈りに対する神の回答を得る。それは幻を見たり、御言葉を聞いたりして、内側で分かる、「得た」と。それを地上に現出するように、イエスの名により語る、あるいは、命じる、のだ。イエスが癒しをなさる時にはすべて命じた。嵐に対しても。これがディセンディング。この過程はちょうどベテル(=神の家)で天使が梯子を上り下りしていたように。

このことをラザロの復活で主イエスは見事にデモンストレーションされた。彼はすでに父が願いを聞いて下さったことを把握し、ラザロに命じた。彼はラザロが出てくる前にそれ(=実体)を得ていたのだ!彼にとってはその実体をすでに得ていたから、後は命じるだけだったのだ。そこに切断はない!人の目(地的)にはラザロが物理的に死んでいた時点でも(事実)、主の(天的)信仰においてはラザロは生きていたのだ(真理)。父に願った時点から!なぜなら父は常に自分の願いを聞き入れて下さると知っていたから。その信仰を持つのがクリスチャンだと言うわけ。だから信じる者はご自分と同じことができる、と主は言われるのだ。WOW!

やっぱり、やばい・・・

あえて意味不明なことを

イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。-John 9:6-7

かつてはこの箇所の霊的意味は?・・・とかよくやっていたものだ。私もこの箇所を"解き明かし"ていた。いわく、イエスの口から出るものを土(人間の組成)と混ぜ合わせると霊的な目が開かれるのだ、とか・・・*1

今は、はっきり言う、別に霊的な意味などない!ただこの場合にイエスはこのような意味不明な、人間的にはまったく愚かな方法で盲人の目を開いたのだ。ただ、それだけ。大切な点は、彼の目が見えるようになったという事実だ。イエスはそのように聖霊によって促されて、御父の命に従っただけ。こうして神の国が現出された。THAT'S ALL!

1900年初頭にアズサ・ストリートで御霊の傾注が起きたとき、シーモアは集会中に箱を被っていたそうだ。聖霊の促しがあるまで、彼はその箱を被って祈っていたのだ。それに何の霊的意味があるのか?別にない。"説き明かし"も不要だ。ただその時、御霊が、そのように彼を導いただけ。だからかっこうだけ真似しても無意味だ。

ああ、私は聖書も神の力も知らず、欺かれていた(Matt 22:29)。今、はっきりとそう言える。神の国(God's Kingdom)はリアルかつタンジブルに触れることができるのだ。それが地上にそのままに現出するように祈れと主は言われた*2。だから祈る。ただそれだけ。IT'S VERY SIMPLE!

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。-Matt 6:9-10

SO BE IT!

*1:もちろんこう"解き明かす"のは個人の自由。が、イエス本人は驚くかも。大学入試の現代文に出題された文章の著者が問題を解こうとしたら、いわゆる大学の正解とまったく異なっていたケースがある。本人はそんなつもりはないとね・・・。
*2:これは再建主義でいう現在が千年期ということではない。先に書いた通り、現在は前味わい。しかし、その味わい方はそれぞれの信仰次第なのだ。

日々キリストにありて

ファイル 4656-1.jpg


ニール・アンダーソンによる黙想


 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません(1ヨハネ5:11;12)。

 神がアダムに息を吹き込まれたとき、彼は肉体的にも霊的にも生かされました。アダムは霊的に生きていましたが、それは彼の魂が神と調和していたからです。私たちは神から分離したり、独立して生きるようには決して設計されていません。私たちは霊的に生きる存在だったのです。
 クリスチャンにとって、霊的に生きることは神と結ばれていることです。この考えは繰り返し聖書の中で、キリストにあってという常套句で提示されています。キリストにあることは新約聖書のテーマです。アダムと同様に、私たちも神と結ばれるべき存在として創造されました。しかしアダムは罪を犯し、彼の神との結合は、私たちも同じですが、破壊されました。人類を神ご自身へと帰り来らせ、アダムが創造された時に享受していた神との交わりを回復することが神の永遠のご計画なのです。その回復された神との調和は、キリストにあって見出すことができますが、私たちのアイデンティティの本質です。
 あなたが再生されたとき、あなたの魂は神と結合され、アダムが罪を犯す前にあの園で生きていたように、霊的に生きることができるものとされました。新約聖書が繰り返し宣言しているように、あなたは今やキリストのうちにあり、キリストはあなたのうちにおられるのです。あなたのうちにおられるキリストは永遠のお方であるゆえに、彼により得たあなたの霊的生命も永遠のものです。永遠のいのちを得るために死を待つ必要はないのです。今ここで保有しているのです!
 使徒ヨハネは書きました、「御子を持つ者はいのちを持つ」(1ヨハネ5:12)。彼は多分イエスのマルタに対する言葉を思い起こしていたのでしょう、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(ヨハネ11:25;26)。イエスはマルタにこう言われた後で、「あなたはこれを信じるか?」(26節)と問われました。
神の言葉は明確です:イエスのゆえに、私たちは肉体的に死んだ後でさえも、霊的に生きることができるのです。あなたはこれを信じますか?

 愛する父よ、私は心から私の霊的いのち、永遠のいのちがあなたのうちにあることを宣言します。今日、永遠を見る視点からそのいのちを生きさせてください。

デュナミス

神の国は言葉ではなく力にある。-2Cor 4:20

ここの言葉はロゴス(logos)、力はデュナミス(dunamis)。Thayerによるとこうある:

Thayer's Greek Lexicon:

dunamis

1) strength power, ability

1a) inherent power, power residing in a thing by virtue of its nature, or which a person or thing exerts and puts forth

1b) power for performing miracles

1c) moral power and excellence of soul

1d) the power and influence which belong to riches and wealth

1e) power and resources arising from numbers

1f) power consisting in or resting upon armies, forces, hosts

この力は御霊がキリストを復活させた力、私たちもキリストの御霊を受け継いでおり、奇跡を行うのみでなく、死ぬべき体にいのちを与え、魂に健やかさをもたらす。さらに富と豊かさをももたらすのだ。WOW!私たちはすでにこのデュナミスを持っている!やばい・・・。

愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。-3John 1:2

a break....

こういうのって、シビレルね!男のロマンだ・・・。

神の深み

この聖句、よくよく考えてみてほしい。やばいと思いませんか?

そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深み*1までもきわめるのだからである。-1Cor 2:10

「神の深み」って?創造主なる神の深み?それは人間の思いを超える、否、むしろ人間の生まれつきの肉の思いはそれを拒絶する。御霊だけがそれを極めるが、その御霊は私たちが受け継ぐべきものの手付金・保証として与えられている!?御霊が手付金?

あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証*2であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。-Eph 1:13-14

しかも

「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思い(nous=mind)を持っている。-1Cor 2:16

キリストの思いをすでに有している?かくのごとく聖書に書かれていることはやばいことばかりなのだ。

*1:bathos:From the same as G901; profundity, that is, (by implication) extent; (figuratively) mystery: - deep (-ness, things), depth.
*2:arrhabōn:Of Hebrew origin [H6162]; a pledge, that is, part of the purchase money or property given in advance as security for the rest: - earnest.

神の栄光はヘヴィー

「栄光(Glory)」と訳されている原語には何種類かあるが、もっとも頻繁に出るのが、"kâbôd"あるいは"kâbôd"。その意味はStrongによると

From H3513; properly weight; but only figuratively in a good sense, splendor or copiousness: - glorious (-ly), glory, honour (-able).

第一義的に「重さ」。そう、神の栄光は重いのだ。ものすごくヘヴィーなのだ。呼吸ができなく無る位に。だからやばい・・・。その時

So that the priests could not stand to minister by reason of the cloud: for the glory of the LORD had filled the house of God.-2Ch 5:14

立っていられなくなる!床に押し付けられて、身動きができない!神の重さを感じるのだ。あれから私は手で神に触ることができるように感じられるようになった。天の父は物理的に遠くにおられるのではない*1。その方はYHWH、すなわち"I AM"-今、ここにおられるお方。私は10年以上前に著書で書いた、「信仰は"I AM"の実体化である」と。この言葉は予言的だった。当時とはまったく異なる次元でそれを味わっている。そして見せられている*2。やはり、やばい・・・。

*1:Do you believe 「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。-Eph 2:6」?。私たちはキリストと共に天の座にいる存在なのだ!
*2:これをここで書けば間違いなくDr.Lukeは逝っているとなるだろう。パウロは14年間秘めていたが、それは謙遜していたのではない、この世の知性にはやばすぎて話せなかったのだ・・・。私もとてもではないが書けないし、話せない。精神科の兄の元に行けば、おクスリをだしましょう、となるだろう。

トランスフォーメーション

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。-Mark 1:15

悔い改めとは「自分の罪を告白し、神に立ち返ること」。これがいわゆるキリスト教の理解だ。もちろんその通りだが、それだけではない。もっと深くかつ豊か。この世で構築された世界観やパラダイムを放棄し、神の国のリアリティをそのままに得て体験すること、結果、考え方も行動も根底から変革される。これは私たちのnous(mind)、つまり思い(知性)の根底から再構築を要する。それは自然科学の諸法則を超えた世界だ。要するにやばいのだ・・・。

あなたがたはこの世の形にされ*1てはならない。むしろ、思いを新たにして作り変えていただき*2、神の御心が何か、善いことは何か、神に喜ばれ、また完全なことが何かを識別しなさい。-Rom 12:2(私訳)

それはメタモルフォーゼ、つまり思いのトランスフォーメーションなのだ。人間がトランフォームされていない古い思いで御言葉を理解し組織した体系、あるいは特定の個人の理解や体験の在り方が諸々のキリスト教神学であり、儀式・伝統・文化・・・である。神はそのような領域に拘束されない方、聖霊に自由に触れていただき、働いていただくとき、神の国の地上における現出がもたらされる。それは

しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。-1Cor 2:9

*1:suschēmatizō:形作られる。六本木に行ってはならないとか、酒を飲んではならないとかの話ではない。私たちの内なる世界モデル(パラダイム)・認知行動モデルがこの世(aion)の形にされること。
*2:metamorphoō:昆虫の変態、トランスフォーメーション。

2015!

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WOW!!!

2015年、御父をイエスと共有する

あらゆる失望や絶望は孤児の霊から生じる。John Wallerは十代の頃から双極性障害と診断され、抑鬱に縛られてきたが、神を父として知り、解放された。今や、9人の孤児を引き取り、ワーシップ・シンガー・ソングライターとして用いられている。

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。・・・イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」-John 14:18-23

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