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taking a breath....

2月発売のDiana Krallの新譜、"Wallflower"。BobDylanやEaglesのカバーだが、実に新鮮だ。Sampleはこちらで:

ファイル 4696-1.jpg

た☆の☆し☆み☆だ

罪のゆるしと病の癒し

Dr.Lukeは最近、しるしや不思議や癒しに傾ていると感じる向きもあると思う。私自身がこれまで軽く扱ってきた領域であるが、実は私自身に信仰がなかったためなのだ。だから語れなかったし、信仰の欠如を感じていた故に、あえてそれらを蚊帳の外に置きたかったのであろう。

マルコ2章において、中風の男に向かって主が言われる、「あなたの罪はゆるされる」(Mark 2:5)。これに律法学者たちが神を冒涜していると考えると、イエスは霊によってそれを見抜き、「なぜそんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、。『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして、中風の人に言われた、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(Mark 2:8-11)。

現代の私たちにとって、どちらが易しいであろうか、「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと。正直に告白すると、私には後者は言えなかった。なぜ?前者は自分にとってリスクがない。後者は大恥をかくリスクがある。しかし、実は前者を語ることの方が神のみ前に大きなリスクがあるのだ!極私的には罪の赦しを病の癒しより低い価値のものとしていたのだ。しかし、イエスにとっては罪の赦しの権威を持っているゆえに、病の癒しは容易なものであったのだ。

ここでの論点の本質はこうだ。いわゆるしるしや不思議や病の癒しを軽んじ、それよりも"高尚な"聖化されることや、高い道徳や霊性の追及に明け暮れる人々がいる。しかしそのような人々に向かってイエスは言われる:天の国に入るためにはあなたがたの義は律法学者やパリサイ人に勝る必要がある、と(Matt 5:20)。もっと言えば、人の獲得するあるいは達成する義ではなく、神のレベルの義であり、神が聖であるように聖となる必要があるのだ!(Lev 11:44)。我々にあなたにできるでしょうか?もちろん、ノー。言いたいことはこうだ。しるしや不思議や病の癒しを軽んじたり、認めない人たちは、実はそれらよりももっと奇跡的(=不可能)なことを自分の力で達成しようとしていることに気がつくべきだということ。逆に言えば、それらを達成できたら、しるしや不思議や病の癒しは当たり前に起きるということだ!Are you with me?

要するに救われること、霊が生かされること、キリストが聖霊によって内住されること、魂が造り替えられること、いずれ体が贖われること。これら自体がすでにしるしであり、不思議であり、奇跡なのだ!そもそも人にはできないこと。が、神にはできる。異言はない、しるし・不思議もない、癒しもない、預言すらない・・・・。嗚呼、こういう人々はとんでもない勘違いをしている。いや、私自身がそうだった。スーパー・コンピューターが自然にできたと信じる人はいまい。が、進化論者はそれを作った人間は自然にできたと信じている。これと同じレベルの勘違いなのだ。

改めて神から問われていることは―

あなたは何を求めているのか?

御言葉はやばい-イエスの期待する信仰

わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。-Isa 57:19

ここの「創造する」はヘブル語の"bara"、創世記1章1節の「はじめに神は天と地を創造された」の創造と同じ。つまり無から有を創り出すことだ。ローマ書にこうあるとおりだ:

死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。-Rom 4:17

そして癒しがなされる。目に見えない実体がこの世界にフレーム化される(Heb 11:3)。その「唇の実」とはヘブル書にこうある:

だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。-Heb 13:15

かくして賛美と感謝により父なる神を仰ぐとき*1、創造、すなわち無から有が生じることがなされるのだ。

群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。-Matt 14:19-20

で、私たちにもイエスと同じ業がなし得る、否、それ以上のことが・・・・とイエスは言われる。WOW!最近感じていることは、次の主のお言葉の信仰とは何か?カギは、御心が天になる通り地にもなること。しかも御心はすべてイエスがなされたことなのだ。

しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。-Luke 18:8

福音書を見ると分かるとおり、イエスは事あるごとに弟子たちに信仰が欠如していることに苛立ち、怒りを爆発させてもいる。主よ、あなたは神だから、弟子たちは単なる人間なのに、あなたは何と気が短いのですか?と私はイエスの反応の意味が理解できず、少なからず不審に思ったものだ*2。が、よく考えてみると、もし弟子たちがイエスの期待する信仰をそもそも持ち得ないのであれば、イエスはこのようには対応されないだろう。幼稚園児が微分積分できなくても苛立つことも怒ることもないし、そのような対応はむしろ罪であろう。イエスが彼らにあのように反応されたことは、とりもなおさず弟子たちはイエスの期待する信仰を当然に持ち得る、否、持つべきであることの証拠なのだ。だからイエスは彼らの信仰の欠如を叱責したのだ。Are you with me?

イエスの期待する信仰のレベルがどれほどのものか。御言葉はやはりやばいのだ!

すべて信仰によらないことは罪である。-Rom 14:23*3

*1:これは神の大庭に入ること、すなわち臨在と栄光に満たされることだ(Ps 100:1-5)。
*2:少なくともペテロはイエスが「来なさい」と言われたとき(レーマ)、それに応答する間は水の上を歩いたのだ。が、現実の風と波を見るや沈みかけたが、イエスはすぐさま彼を救い上げた。単なる人間が水の上を歩く事例がここにひとつ存在している!
*3:これを裁きの言葉ととるか、励ましの言葉ととるか。私は大いに励まされるのだ。イエスの期待する信仰を私たちが持ち得るポテンシャルがあるから、主はこのように言われるのだから。お言葉通りこの身になりますように!

ニッポンもテロの対象に

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ネタニヤフの警告通りの展開。ニッポンの政治家の中東に関する無知は恥ずかしさを超えて、悲惨だ。安倍さんの優等生的演説、無知丸出し しかも、自分で気がついていない。それにしてもこの映像、嘘っぽくないですか?

参考までに私の論文を(印刷中)。この中で日本もいずれ戦争状態に巻き込まれると書いたところ、編集委員会より未来予知的な表現は学術論文には不適切であるとして修正を求められた次第。

City Of Delight-Jerusalem

神が近くなるにつれてエルサレムに対する気持ちが深くなるのは不思議だ・・・神の瞳なる街・・・

MIchelle Goldはユダヤ人クリスチャン。不幸な家庭に生まれ育ったが、イエシュアと出会う。ユダヤ教のラビは彼女がマインドコントロールされているとして、脱プログラムを行うが、彼女の信仰は揺るがなかった。まことに

そこで、私は言う。ユダヤ人たちは倒れるために躓いたのであろうか。断じてそんなことがあってはならない。むしろ彼らの罪過によって、救いが異邦人たちへと〔至り〕、それが彼らに妬みを起こさせる結果となるのである。-Rom 11:11

そのためには私たちエクレシアが神の栄光に与って、真に神の国を地上にもたらす必要があるのだ。これもユダヤ人に対する私たちの負い目である。

神に手で触れる感覚

12月のあのこと以来、すでに1か月近くになるが、ますます神が近くなっている。内なるキリストに触れるとか、内側が甘く満たされるとか、平安が満ちるとか、喜びが湧き上がるとか、これらの内的経験はしていた。ワーシップで主に迫られる感覚や、その御手で包まれる感覚も味わっていた。が、この手で触れる感覚は知らなかった。ちょうどプールの中で手を広げると水を感じるように、この物理的空間の中に手を広げると、先に書いたとおり、天の空気(霊)に触れるのだ。緑の自然の中に入ると神の創造に触れ、神の臨在を覚えることはよくあった。が、今、東京の高層ビル群を見るときも、神の霊が包んでいるのが分かる。創世記1章に

はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。-Gen 1:1-2

私はこの1節と2節の間にギャップがあると考えているが、それはまたの機会にして、2節では形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあったが、神の霊が水のおもてをおおっていたとある。あたかも孵化するのを待つめんどりが卵を守り覆っているかのように、神の霊は水のおもてを守り覆いつつ、神の信仰が熟し、神のレーマが発せられる時を待っていたかのようだ。この覆って下さる霊が手に触れ、文字通り感じられるのだ。It's tangible!「神に手で触れる」とか言うと、これはちょっと逝っているかもと思われるだろうが、事実なのだ。なんなのだ、これは・・・・。と、新約聖書を見ると、エペソ書にこうあった:

〔人〕知を超えたキリストの愛を知って、神の全き充満へとみたされるために〔である〕。-Eph 3:19(岩波訳)

口語訳などでは「神にみちているすべてのものをもって」、KJVは"be filled with all the fulness of God"となっているが、原語は"eis"、Strongによると

A primary preposition; to or into (indicating the point reached or entered), of place, time, or (figuratively) purpose (result, etc.)

要するに岩波訳のように「の中へと(into)」が適切。神の全き充満へと満たされる、すなわち神の全き充満の中に入り込むことなのだ*1。プールに入っているときは、プールの水の全き充満へと満たされている。だから、その充満に手で触れることができるわけ。神は遠く離れているお方ではない。今、ここにいます方、I AMなるお方。私たちを守り包んで下さるお方。「信仰は"I AM"の実体化だ」と10年以上前に著書に書いたが、自己預言的にその成就を味わっている。まことに

The Lord is at hand.-Php 4:5

*1:神の全き充満に入るって思想、これかなりやばくないでしょうか?私が逝っている以前に、パウロはもっと逝っていることを書いているのだ!要するに聖書はやばい。繰り返すが、創価学会や幸福の科学の方がまともなのだ。

未知の体験に処する

どうも自分はこれまでと違う霊的なフェーズあるいはスフィアに入ってしまったようだ。とにかく今までの経験のデータベースや内的な世界モデルに存在しない事象を経験している。御言葉を離れたいわゆる霊的経験は危険であることは十分に承知しているので、今、御言葉による裏付け作業を行っているわけ。その過程でもっとも驚きの発見が「栄光(kabod)」の経験と意味だ。それは第一義的に「重さ」。まことに「何かを知っていると思う者は知るべきほどのことも知らない」(1Cor 8:2)とあるとおりだ。果たしてこれからどんなことを経験するのだろうか?

御心が天になるとおり、地にもなりますように!

神の業は栄光にあってなされる

いわゆるしるしや不思議を、それ自体を目的に追求する人々がいるようだ。そのために有名な油注ぎの器と称する人物から、我先に預言や按手を受けたがるのだ。賜物と称するある種の超能力を授けてもらうために。私はこの手の話にはきわめて不快感を覚えてきたことはすでにここの読者であればご存知と思う。

しかし、最近気がついたのは、「たらいの水と一緒に赤子までも流すな」ということ。認知療法の創始者ベックのいう認知の歪みのリストに「過度な一般化」がある。少数の例から一般則を強引に導くのだ。自然科学の思考は(不完全)帰納法による。実験や観察により得られたデータの範囲において、何らかの規則性や法則を見出す手法。が、もちろん自然界のすべてを調べることはできないから例外が必ず存在する*1。これを「白いカラスの論理」と言う。今まで見たカラスはみな黒かった。ゆえにカラスは黒いと普通に人は思い込んでいる。しかし白いカラスの不存在は証明されていない!

何を言いたいか。すなわち、現代においても真正なしるしや不思議は存在し得ると言うことだ。少なくとも私は、中度難聴と診断され、医学的には匙を投げられた自分の右耳が癒されることを経験した。ここでの問題はこういったしるしや不思議がないと結論づける前に、それらを求める動機が問われるべきだ、と言う点。これは私自身のスタンスの悔い改めでもある。どうもいろいろな証しを調べていると、しるしや不思議、あるいはこういった神による癒しが現れる条件あるいは舞台設定があるようだ。それは・・・「神の栄光の中で」、"in His Glory"だ。

先に栄光はへブル語で"kabod"、その原義は「重さ」であり、神の栄光に臨まれるとき、その重さに圧倒される経験を極私的にしたことを何度も書いている。それはきわめてtangile、つまり物理的に触れるあるいは感じることができるのだ。列王記上8章11節(1Ki 8:11)にあるとおり、まず神の雲が臨み、栄光に包まれるとき、その重さのために立っていられなくなる。この時に神はご自分の業をなさるのだ。例えば、私たちの必要の満たしについて、有名なピリピ4章19節を見てみると、岩波訳ではこうある*2

私の神は、あなたがたのすべての必要を、自らの富にしたがって、キリスト・イエスにおいて栄光のうちに、満たして下さるであろう。-Phil 4:19

ここの「キリスト・イエスにおいて」と「栄光のうちに」はともに「満たして下さる」にかかるとすべきなのだ。私たちはキリスト・イエスにおいてすでにあらゆる嗣業を得ている(2Pet 1:3、現在完了形)。それが信仰によって実体となるのは(Heb 11:1)、栄光のうちにあってなのだ。この臨在の雲が満ち、栄光の重さが感じられる状態において、しばしば神は語る。それがレーマだ。するとその見えない実体(substance)はこの時空間の中に、ヘブル11章3節にあるとおりに(Heb 11:3)、現出する(framed)。

栄光は重さ。きわめて分かり易い。今、両手を軽く上げるだけで臨在を感じる。というより、魚が水につねに包まれているように、私たちもこの物理的時空間に生きながら、第三の天の空気(霊)に触れているのだ。なぜ?イエスとともに天の座についていると聖書は明確に告げている(Eph 2:6)*3。私はリアルにこの天の空気(霊)に触れることを知った。それはいつでもどこでも触れることができるのだ。まことにダビデが証しているとおり:

わたしはどこへ行って、あなたの霊を離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。-Ps 139:7

神の霊に包まれていることの実感-なんという栄光であろう。まことに神は私たちのための栄光を備えて下さっているのだ(1Cor 2:7)。Glory be to God!

■追記:癒しについてはマラキ書にこうある:

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。-Mal 4:2

義の太陽=御子イエス。神の栄光の反映、実体の刻印たるお方だ。癒しも栄光に伴う。

*1:すべてを調べ尽くした結論を、論理学的には「全称命題」と称する。数学的帰納法は全称命題であるが、自然科学は違う。つねに例外が、これを反例というが、存在するのだ。
*2:口語訳や新改訳などはどうも訳が不適切。
*3:ここの「天のところ」とか「天の座」と訳されている原語は"epouranios"。Thayerによるとこうある:

Thayer Definition:
1) existing in heaven
 1a) things that take place in heaven
 1b) the heavenly regions
  1b1) heaven itself, the abode of God and angels
  1b2) the lower heavens, of the stars
  1b3) the heavens, of the clouds
 1c) the heavenly temple or sanctuary
2) of heavenly origin or nature

日々キリストにありて

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ニール・アンダーソンによる黙想


 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません(ローマ6:11,12)。

 罪はすべてのアダムの子孫がその中に生まれる状態です(ローマ5:12)。罪は神から独立して生きる様です。それはサタンによる偽りであり、人はいのちの創造主から離れて、神に従うことなく、人生の意味と目的を見出すことができると信じているのです(申命記30:19,20;1ヨハネ5:12)。ノンクリスチャンにあっては、罪は古い性質に浸透しており、古い私を支配し、肉の行いを誘発します。サタンはあらゆる罪の本質に潜んでいます(1ヨハネ3:8)。彼は人々を欺き、神に反逆するように嘘を信じこませ、また促します。
 あなたがキリストを受け入れたとき、あなたは罪に対して死に、またあなたを支配するその力は打ち破られました。サタンと罪は死んではいません。それらは依然として強くかつ訴える力があります。しかしあなたはもはや罪を犯す必要はないのです。なぜならあなたは罪に対して死に、キリストにあって神に対して生きているからです(ローマ6:11)。あなたがそうみなすから罪に対して死ぬのではありません。それはすでに成し遂げられているからそうみなすのです。キリストにあってすでにあなたは罪に対して死んでいるのです。
 パウロはさらに言います、私たちは自分の体を不義のためにもちいるべきではないと(13節)。もしそうすれば、私たちは罪が私たちの死ぬべき体を支配することを許します。例えば、自分の体を罪に支配に任せて、不義の道具として用いることなく性的な罪を犯すことはできません。主に対して自分の体をどう誤って用いているかを尋ね求めてください。特に性的な領域においてです。その誤った用い方を告白して捨て去り、生ける供え物として自分の体を神に捧げてください。「あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従」わないことはあなたの責任です(ローマ6:12)。

 愛する主よ、私は自分に対する罪の力が打ち破られたことを知っています。今日、その真理の光にあって罪を捨て去り、私の体をあなたに従うことができるようにして下さい。

まったりと冬の海を・・・・

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神の奥義なる嗣業

むしろ私たちは、奥義の中にあって〔今に至るまで〕隠されてきた神の知恵を語るのであって、それを神は、世々の〔創造〕以前に、私たちの栄光のために、あらかじめ定められておかれたのである。・・・
「目が見ず、耳が聞かず、人間の心に思いも浮かばなかったこと、そのことを神は、神を愛する者たちのために用意されたのだ」。
そして、まさにこの私たちにこそ神は、霊をとおして〔そのことを〕啓示されたのである。霊は、すべてを、神の深みをさえも、探り尽すからである。
・・・霊的なものによって霊的なことがらを判断しながら、そうするのである。・・・
しかし、自然的な*1人間は、神の霊のことがらを受け容れない。・・・しかし私たちこそは、キリストの思いをもっているのである。-1Cor 2:7-16(岩波訳)

御言葉(ロゴス)を魂の機能のひとつである思いによって理解することはひとつのことで、もちろん必要不可欠。知性による祈りもあるのだから(1Cor 14:15)。しかしこのレベルで満足して、ここで止まっては大いなる損失。霊によりその言葉が指しているリアリティにタッチしてゲットする必要がある。これは神が、私たちの栄光のために用意してくださったもの。よく「神っさまにすべての栄光をお返しします~っ」とかやるが、これは何度も言っている通り、臭い。神は私たちの栄光のために「人間の心に思いも浮かばなかったこと」を用意して下さっている。これは霊的領域に存在する。それを信仰は実体とする。すると地的領域に現出するのだ。神の国はロゴスにではなく、デュナミスにある。

神は何を用意して下さっているのだろうか?もちろん御子を下さった。彼のうちにこそ神性も霊的資産もすべてが存在する。信じる者はすでにそれを所有している。キリストの思いすら!が、これまで私の思いのキャパ、それはただちに信仰のキャパとなるが、により制限してきた。神の用意された富を経験化する度合いは各人のキャパに従っている。ここでマインドのトランスフォーメーションがきわめて重要となるのだ。これまでの自分の領域を脱すること、それには人間的(魂的)にはやや勇気も必要とされる。満々と流れるヨルダン川にまず足を突っ込むこと、セルフにとってのカンファート・ゾーンを脱することだから*2。それはセルフの終わり。が、霊的法則はこうだ:捨てれば、その何十倍も得る、と!

*1:脚注として、psycheの形容詞形・・・、要するに「魂的な」の意味。
*2:世から救い出される時は、まず紅海が割れてから足を突っ込んだ。救われた後のヨルダン川の経験ではその順序が逆になる。

TODAY'S CELEBRATION 【Jan 11, 2015】

UPしました。

●タイトル:神の信仰を持て

●聖書箇所:ヘブル11:1-3;マルコ11:22-24;マラキ4:2;3ヨハネ2など

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