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トップ > 漢詩

和光同塵-老子

 道は沖なれども
 これを用うればあるいは盈たず。
 淵として万物の宗に似る。
 其の鋭を挫き、其の粉を解き、
 其の光を和し、其の塵に同じくす。
 湛として存するあるに似る。
 われ誰の子なるかを知らず。
 帝の先に似たり。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。-Phil 2:6-8

生まれながらの(魂の)人は自分の才や力をひけらかすもの。対して老子は説く:鋭く尖ったものを鈍くおだやかにし、縺れたものを解きほぐし、まばゆい光はやさしくやららげ、至る所に舞う塵とひとつになること。これが「道(タオ)」の機能であると。まことにガマリエルの薫陶を受けた、当時のエリート中のエリートにして迫害の急先鋒だった才長けて尖ったサウロは、あの光に打倒されて後、パウロとなり自らを塵芥であると証しているのだ(1Cor 4:13)。真の「道」に出会った彼の何という変わり様、それはまさしく神の栄光!

千樹眠亦望春-一石

ファイル 3932-1.jpg


(七絶・平起式・上平声十四寒韻)

 千樹 眠りて 亦 春を望む
 秋雲 寂寞として 人に逼(せま)るの寒
 葉は落ち 蕭條として 白露 摶(たん)たり
 借まず 繁枝 揺落(ようらく)盡(つく)し
 閒(しず)かに眠る 千樹 為に懽(かん)を承(う)く

 注:落紛=落ち葉を散らす;摶=丸い;懽=春の歓喜

このところ秋の雲も物憂く寂しげで、寒さも迫ってきた。夏の日、誇るように繁っていた碧樹も葉を散らし、物悲しい落葉に丸い露が光る。豊かに繁った葉を惜しまずに落とし尽くし、今は千樹も静かに眠り、故に春になればあの(復活の)喜びを味わうことができるのだ。

もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。-Rom 6:8

大なるものは-老子四十五章

大成は欠くるがごとくにして其の用弊(やぶ)れず
大盈(だいえい)は沖(むな)しきがごとくにして其の用窮(きわま)らず
大直は屈するがごとく
大巧は拙なるがごとく
大弁は訥なるがごとし
躁は寒に勝ち
静は熱に勝つ
清静は天下を正と為す

老子は説く、本当の完成した人は若く欠点だらけに見え、本当の豊かさは何も持たないように見え、本当の真実は屈するように見え、本当の知恵は稚拙に見え、本当の弁者は朴訥と見えるものだ、と。最後に彼はこう結論する:清静為天下正(清靜は天下を正と為す)、すなわち清静なるものが天下を治めるのだ。

また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。-2Cor 6:8-10

われ敢えて主とならず-老子

用兵有言、吾不敢爲主而爲客、不敢進寸而退尺。是謂行無行、攘無臂、執無兵、?無敵。禍莫大於輕敵。輕敵幾喪吾寳。故抗兵相如、哀者勝矣。

兵を用うるに言えること有り。吾れ敢えて主と為らずして客と為り、敢えて寸(しん)を進まずして尺を退けと。これを行くに行(みち)無く、攘(はら)うに臂(うで)無く、執るに兵無く、?(つ)くに敵無しと謂う。禍いは敵を軽んずるより大なるは莫(な)し。敵を軽んずれば幾(ほと)んど吾が宝を喪わん。故に兵を抗(あ)げて相い如(し)けば、哀しむ者勝つ。

これは霊的な戦いのコツでもある・・・。戦いと言うよりはすでに勝負はついているのだから。カギは自らを主としないこと!

絶聖棄智-老子

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 聖を絶ち智を棄つれば、民の利は百倍す。
 仁を絶ち義を棄つれば、民は孝慈に復す。
 巧を絶ち利を棄つれば、盗賊有ることなし。
 この三者、もって文足らずと為す。
 故に属(つ)ぐ所あらしめん。
 素を見(あらわ)し樸(ぼく)を抱(いだ)き、
 私(わたくし)を少なくして欲を寡(すくな)くす。

老子は言う、聖を絶ち、智を棄てよ、と。同様に、仁を絶ち、正義を棄てれば、民は自ずと孝と慈に復するし、小賢しい小手先の業を絶ち、自分の利益を捨てれば、盗賊もいなくなると。素朴に戻り、切り出されたままの木のようであれば、自己も少なくなり、欲を抱くことも減るであろう。

最近、アメリカでも霊的に疲れ果てたクリスチャンが増加中らしい。そこでどうしたらよいのかと。そこで、「恵みに酔う(Get Drunk On Grace)」ことを追及し出したようだ。いわく「一方通行の神の愛(One Way Love)」を味わうためにとか。

愚かなものだ。かつては"WWJD(What Would Jesus Do)"とか、「ヤベツの祈り」だとか、まあ、いろいろ流行ったものだが、ついに消耗状態。不平不満、敵意と怒り、そしてビョウキで満ちたニッポンキリスト教の姿でもある。これは私の本でも予言しておいたことだ。こういったムーヴメントに乗せられるならば、必ず消耗すると。アレコレの小賢しい業がむしろ人を消耗させるのだ。主は言われた、野の百合を見よ、と。何もしていないではないか。それは与えられたいのちのまんまなのだ。老子もいのちの種類の相違はあるが、「まんま」を説いている。

聖となることや聖書の知識や何とかの方法、理想の教会を作ることや、立派なクリスチャンとなることなどを求める心そのものが善悪の知識の木の路線にあるのだ。鍵は聖・智・仁・義・巧・利をまず棄てること。これが十字架の自己(セルフ)の死。すると、すでにすべてを得ていることに気付くのだ。これがキリストと共なる復活、すなわちクリスチャンの「素朴=まんま」だ*1。この時、その豊かさと輝きが自然と溢れるのだ。

主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。-2Peter 1:3

*1:いわゆる「ありのままでいい」なる教えは砂糖まぶしの偽り。十字架を経ない「ありのまま」は木・草・藁として神によって焼かれるであろう。

生年不満百-無名氏

近時、我忙殺されしゆえ、詩作する間もなし。詩作、是、優雅にして高尚な遊びと知る。世俗より離れし折り、わが魂、詩的世界に遊ぶこと能う。此処において、無名氏の詩を紹介せんと欲す。まことに人生、短きものにして、なんぞ労苦して遊ぶこと無からん哉。嗚呼、まことに、かの書にいわく「人の一生は七十年、健やかなりても八十年」と(Ps 90:10)。

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生年百に滿たず 常に懷(おも)ふ 千歳の憂ひを
晝(ひる)短くして 夜の長きを苦み 何ぞ 燭を 秉(と)りて遊ばざる
樂を爲すこと 當(まさ)に時に及ぶべし 何ぞ能く 來茲を待たんや
愚者は 費(つひ)えを 愛惜し 但(た)だ 後世の 嗤(わら)はるると 爲るのみ
仙人 王子喬  期(のぞみ)を等しくするを 與(とも)にすること 難(かた)かる 可(べ)し

空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
・・・
実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。

  • Eccl 1:2-7;2:25

注:絵は光の魔術師と呼ばれるターナーの「レグルス」。ただ今、東京都美術館で『ターナー展』開催中。彼は私の好きな画家のひとり。

追記:先のHal Lindseyの記事に関連して、アメリカ軍ではクリスチャン・ミニストリーを「ヘイト・グループ」と定義した模様。

三生万物-老子

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 道は一を生じ、一は二を生じ
 二は三を生じ、三は万物を生ず

老子って、何者???

致虚極-老子

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虚を致すこと極まり、静を守ること篤く、
万物並び作れども、吾れ以て復るを観る。
夫れ物は芸芸たるも、各おの其の根に帰る。
根に帰るを静と曰い、是れを命に復ると謂う。
命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。
常を知らざれば、妄作して凶なり。
常を知れば容る。容るれば乃ち公なり。
公成れば乃ち王たり、王なれば乃ち天なり。
天なれば乃ち道なり、道なれば乃ち久し。
身を没するまで殆うからず。

為道日損

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秋と言うのに、この生暖かさはなんだろう?肌をなでる風もモワっと温かく、やや気持ち悪い。もちろん走り自体は爽快だ。学生に朝からやたらテンションが高いオヤジと言われているのだが、本日もすでに萌え燃えている。

最近、少々老子にハマっているのだが、禅出身のDr.Lukeとしてはそのルーツを見るような感じもしている。孔子が「仁・礼」に基づく理想的人間像や生き方を説くのに対して、老子は脱力を説く。意志的力が抜けるとき、本来のいのちの法則のままに生きるとする。もちろんキリストの復活のいのちは得ておらず、アダムにあるいのちの法則ではあるが・・・。しかしアダムはキリストの型、したがって老子の説く生き方はキリストにある者の生き方の型と言える。

学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損す。これを損して又た損し、以って無為に至る。無為にして為さざるは無し。天下を取るは、常に無事を以ってす。その事有るに及びては、以って天下を取るに足らず。

人は理想の生き方やシアワセを得ようとする。キリスト教徒も神に受け入れられ、認知され、人からも褒めそやされる祈り方や奉仕や信仰的歩みを切に求める。かくして「教会ごっこ」に明け暮れる。この自己由来の意志がすべてを汚し、壊す。ああ、愚かなものだ。その時点で神の恵みから落ちてしまっている!主イエスも言われるではないか:得ようとすれば失い、失えば得る、と。

神の国は人手によらず成長し、人はどうしてか分からなくてよい。かくして神の国にあって健やかに豊かに、そしてハッピーに生きる鍵は「為無為、事無事、味無味」なのだ。

追記:Candyさんのブログにすばらしい証がありました。題して「ラーファー!」、ふにゃっと力を抜いて御手に委ねる幸いです。

為無為

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無為を為し、無事を事とし、無味を味わう。小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳を以ってす。難きをその易きに図り、大をその細に為す。天下の難事は必ず易きより作り、天下の大事は必ず細より作る。ここを以って聖人は終に大を為さず、故に能くその大を成す。それ軽諾は必ず信寡く、易きこと多ければ必ず難きこと多し。ここを以って聖人すら猶おこれを難しとす、故に終に難きこと無し。

ウォッチマン・ニーいわく、「もっとも深く安息した者が、もっとも神の働きを為せる」。

知者不言

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「知者は言わず、言う者は知らず」-老子

秋日偶成-程明道

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 閑來事として 従容ならざるは無し
 睡り覺むれば東窓 日已に紅なり
 萬物靜觀すれば 皆自得
 四時の佳興は 人と同じ
 道は通ず天地 有形の外
 思いは入る風雲 變態の中
 富貴にして淫せず 貧賤にして樂しむ
 男児此に到らば 是豪雄

官位を離れて閑散たる生活に入ってからというもの、何事においても心はゆったりとしている。ぐっすりした深い眠りから目覚めれば、すでに朝日が東の窓に赤々と差し込んでいる。周囲の事物を静かに眺めると、各々、はまりどころ得てしっくりと収まっている。四季の織り成す心地よい趣は、人と渾然一体となり移り変わっていく。私の信じる道は天地の間にあって浸透し、その無形の思いは風に流れる有形の雲にまで入り込む気分になる。たとえ富んだ者になっても富に耽溺せず、貧しく低い身分でも生きることを楽しめる。男子たる者、このような境地にいたるならば、真の豪雄である。

程明道(1032-1085):中国北宋時代の儒学者。字は伯淳、明道先生と称された。朱子学・陽明学の源流の一人。河南省洛陽出身。名は顥(こう)、字は伯淳(はくじゅん)。幼くして非凡の才あり。諸国を歴任して政治上の功績あるも、王安石に対立して朝廷を去る。のち召されたが任を拒否し、元豊八年に死去。享年54歳。謚(おくりな)は純公。直観により、自然と一体になる経験を尊んだ。すなわち多様な自然現象を秩序づけている法則を「理」と呼び、この理を直観によって把握すべきであると説いた。(Wikiなどより編集)

主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら・・・」-Jer 33:25

神の法則、理に則って生きること、これが安楽な道。逆らわず、もがかず、身も心も任せること。それは即ち、いのちの御霊の法則だ。

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