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秋風引-劉禹錫

処暑(22-24日)も過ぎ、秋の気配が・・・。肌をなでる風、今朝の空気はまさに絶品。雨上りの気化熱でぐっと温度が下がり、しかも湿度もそれほどでなく、まさに高原の感覚。一言、気持ちいい。

この詩は中唐の詩人劉禹錫(りゅううしゃく、772-793)の作品。字は、夢得(ぼうとく)、洛陽の人で、詩は白居易と肩を並べ「劉白」と併称された。

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 何れの處よりか 秋風 至り
 蕭蕭として 雁群を 送る
 朝來 庭樹に入り
 孤客 最も 先に 聞く

本邦には藤原敏行朝臣の歌がある-
 

私は今、このような自然との関わりにある感受性の回復を味わっているのかもしれない。滅びゆく旧創造とは言えども、神の創造との直接的ふれあいにより、エデンの園のあの甘い懐かしさに浸っているのだろう。

終りの時代、ますます混迷と悲惨と叫びと悲しみと苦難が満ち溢れるだろう。しかし、この中において、神の満足と安息に入る者は幸いだ。

こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから・・・
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
信じた私たちは安息にはいるのです。・・・みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。・・・
したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。-Heb 4:1-10

昭和の虞美人が逝った

時に前202年、劉邦に追い詰められた項羽が耳にした歌は、なんと祖国楚の歌だった。ついに祖国の民までもが劉邦に付いたと項羽は絶望し、詠う。自分は偉大な力を誇示していたが、今ココにいたり、機が自分から退き、愛馬騅(すい)も先に進まない。もう自分は終わりだ、しかし虞よ、そなたをどうしてあげたらよいのか・・・。虞は自らの存在が大王にとっての足でまといになるとして、その歌に合わせて踊った後、自ら果てる。この時に流れた血の色をしたヒナゲシが彼女の墓を悲しく彩った。四面楚歌と虞美人草の由来だ。かくして項羽も自害して果てる。享年31歳。

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 漢兵 已に地を略し,四方 楚の歌聲。
 大王 意氣盡き,賤妾 何ぞ生を聊んぜん。

戦いに明け暮れる大王と共に流れ流れる人生を送ってきた虞自身はこう歌っている:敵の兵士ばかりではなく、祖国の民にまでも取り囲まれ、聞こえるのは楚の歌声。大王も力尽きて、この卑しい妾のわたしはこれから何を頼って生きたらいいの・・・。
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泊秦淮-杜牧

TwitterにUPしておいたが、F1では350基の汚染水タンクが連鎖的に崩壊する可能性が指摘されている(※)。おそらく急ごしらえなのだろう。すでに打つ手はないとガンダーセン氏も匙を投げている。ちなみに彼は北半球の壊滅を予測して、すでに家族共々南半球に避難している。

※そもそもゴムパッキン(!)の耐用年数は5年。車も5年位でオイル漏れが始まることは誰もが知っている。対して放射能は人間のタイムスケールに比べれば無限。一体何のためのタンクなのだ?

2009年、極私的に感知した終末の様相に入る感覚(2009年12月ごろの記事参照)。あれは今ここまでくると、まことに正確であった。それ以後、前年度に、来たるべき年度についての警鐘を発してきたが、そのタイムラインはまさにそのとおりに成就している。私は別に霊能者でもなければ、サイキックでも預言者でもない。ただ、ある種の感覚を持っていることは否定できないようだ。まことに怖れを覚える次第。かくして来年度以後については直接的にはあまり語りたくないのがホンネ。
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絶澗舟遊-一石

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(七絶・平起式・下平声十一尤韻)

 絶澗に舟遊びす 一石
 渓流に 小艇 興 悠悠(ゆうゆう)たり
 絶澗(ぜつかん) 蒼茫として 碧流を遡(さかのぼ)る
 日は落ち 蕭蕭(しょうしょう)たり 蘆荻(ろてき)の渚(なぎさ)
 幽雲 寂寞(じゃくばく)として 淸秋に入る

(C)唐沢治

歸園田居(其一)-陶淵明

長野県戸隠の山中*1、電気屋さんのお宅にてつい陶淵明を想い起した次第。家屋から飲料水用井戸も、ワイン、ヨーグルト、箸置き、鍋敷き、もちろんテーブルも、ほとんどすべてが手造り。いわゆるカネはほとんどかけてない、否、カネがないから家も自分で建ててしまったそうだ。家財もアンチークばかり。廃品だそうだが、その筋ではかなりの値が着くと思われるものばかり。一年に半年程度働けば十分とか。真の豊かさとは何か?わが人生のパラダイムもその都度チャレンジを受けるのだ。

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園田の居に歸る(其一)
少くして俗に適する韻無く、性 本(も)と邱山を愛す
誤りて塵網の中に落ち、一去(いっきょ)三十年
羈鳥(きちょう) 舊林(きゅうりん)を戀ひ、池魚は故淵を思ふ
荒を南野の際に開き、拙を守りて園田に歸る
方宅十餘畝(ほ)、草屋(そうおく)八九間

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楡柳(ゆりゅう)後簷(こうえん)を蔭(おお)ひ、桃李 堂前に羅(つらな)る
曖曖たり遠人の村、依依たり墟里の煙
狗(いぬ)は深巷の中に吠え、鷄は桑樹の巓に鳴く
戸庭に塵雜(じんざつ)無く、虚室に餘閒有り
久しく樊籠(はんろう)の裡(うち)に在りて、復た自然に返るを得たり

※ここにある「三十年」は「十三年」が実際のようだ。41歳で故郷に帰ったのだから、30年とすると11歳で士官したことになり、不合理。要するに漢詩は事実を詠うものではないのだ。「白髪三千丈」「銀河落九天」の世界なのだ。

*1:戸隠は住民4,000人程度、ほとんどが神主が多いそうだ。あのアマテラスが隠れた天岩戸を怪力の天手力雄神が蹴とばしてできた山が戸隠山とされ、戸隠五神社がある。

山亭夏日-高駢

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 山亭の夏日
 綠樹 陰濃(こまや)かにして 夏日 長し
 楼台 影倒(さかしま)にして 池塘(ちとう)に入る
 水精(すいしょう)の簾(れん) 動いて 微風起こり
 一架の薔薇(しゃうび) 満院 香(かんば)し

名作と言われる漢詩は美しい1枚の絵であり、ひとつの疑似体験なのだ。夏の日、この光景の中で、ふと爽やかなそよ風が吹き抜け、薔薇の香りがぷーんと漂ってくるかのようだ。

晩夏熟想-一石

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(五絶・仄起式・下平声五歌韻)

 晩夏に熟す想ひ 一石
 晩夏 清風の夕(ゆふ)べ
 殘炎に 秋意(しゅうい)何(いくばく)か
 濤聲(とうせい)に 幽興(ゆふけふ)熟し
 暮懐に 金波 瀉(そそ)ぐ

■直訳:立秋も過ぎ、暦の上では晩夏。海風がさわやかな夕暮れ時。残暑も残るが、秋の気配を感じられる。波の音に風流な感覚も熟しつつ、暮れ時の懐に黄金に光る波が寄せてくる。

■釈意:私の人生も夏の終わりに差し掛かるが、爽やかな命の風を味わいながら、まだ夏の暑さの余韻も残しつつ、人生の秋を迎えつつある。波の音にも自然の妙味を覚えて感動し、人生の暮れに向かうわが心にも、依然として金色の輝きの波が押し寄せているのだ。

(C)唐沢治

   

浪漫的詩:夏晩-薛道衡

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 夏晩(なつの くれ) 薛道衡(せつどうこう)
 流火 稍(ようや)く 西に傾(かたぶ)き
 夕影(せきえい) 曾城(そうじやう)に遍(あまね)し
 高天 遠色 澄み
 秋気 蟬声(せんせい)に入る

 ※流火=さそり座のアンタレス、曾城=崑崙山脈(西の日の沈む山の意味)

江雪-柳宗元

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下の私のものと、少々おこがましいが、呼応するかのような詩。この暑さの中で、ちょっと寒々とした光景をイメージできる作品。政治闘争に敗れて永州に左遷された自らを投影した内容。時に柳宗元、33歳。厳寒の中での孤独な釣りをする老人を描くという、究極的かつ結晶化された彼の心象風景を詠ったもの。

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(五絶・平起式・絶・滅・雪の入声九屑韻)

 江雪 柳宗元
 千山 鳥の飛ぶこと絶え
 万逕(ばんけい)人蹤(じんしょう)滅す
 孤舟 蓑笠(さりゅう)の翁
 独り寒江の雪に釣る

 ※江雪=河辺に降る雪、人蹤=人の足跡

尋涼-一石

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(五言絶句・平起式・上平声一東韻)

 涼を尋ねる  一石
 炎 威(たけ)く 風 亦(また)死して
 赤帝 長空を燎(や)く
 藥逕(やくけい) 誰か能(よ)く識らん
 涼を尋ぬ 碧澗(へきかん)の中
 
 ※藥逕=山の中の小径、碧澗=緑の谷

 はじめて五言絶句に挑戦した次第。


(C)唐沢治

清夜吟-邵雍

8月7日は二十四節季の立秋*1。この日は新月ではあるが、秋と言えば月。この詩は北宋の邵雍(しょうよう)の作。儒家の学者だったが、三十代に洛陽に居を定めて後、官位を拒絶。終生、在野で送った。自家を「安楽窩(か)」と呼び、自身を「安楽先生」と称した。その姿勢は「自得」*2。世俗の喧騒を離れて幽棲する楽しみを多く歌った。いや、きわめてDr.Luke的ではある。

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月 天心(てんしん)に到る処
風 水面に来る時
一般の清意(せいい)の味わい
料(はか)り得(え)たり 人の知ること少(まれ)なるを

注:ここの「一般」は「ひとつの」とか、「ある種の」の意味。現代とは異なる。

月が天空の真ん中にさしのぼったころおい、
そして、一陣の涼風が水面を波立たせて渡り行く、そのとき
見る者の心にある種の味わいをもたらしてよいものなのだが、
どうも世間の人々はこのすばらしい夜の景色をほとんど知っていないようである。
(石川忠久編『漢詩鑑賞辞典』より)

彼の目から見ると、世間の人は生活や人間関係、その他の雑事に追われ、日常に埋没し、消耗し、このような景色を楽しむ心の余裕もないのは哀れだ、と思われるのだ。人は心を何かに占有されると、他のモノはカクテルパーティ効果で認知の領域から排除される。そしてその問題を見つめれば見つめるほど、それは巨大なものとなってのしかかるのだ。私たちの思い(mind)をどこに置くのか、信仰の鍵もここにある:

肉の思いは死であり、御霊の思いは、いのちと平安です。-Rom 8:6

今、自分はどこにいるのか、と気にして勝手に苦しむ人がけっこういるが、判断は単純だ。自分の内側がいのちと平安で満たされていれば、御霊の思い、あるいは霊的な思いの内にあるのだ。もがくのではなく、信じるだけ。御言葉にはこう書いてあるのだから:

「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。-1Cor 2:16

書いてあることを書いてある通りに、「アーメン」と言ってキリストに栄光を帰するだけだ(2Cor 1:20)。なんと単純なこと 自分の思いを用いてアレコレ、神学だの、高等批評だのと、御言葉を弄ぶことは、自縄自縛の罠に落ちるだけ。それこそが自分を"神"にしている恐るべき罪なのだ。しかし、すべては自己責任。苦しむのも自作自演なのだ*3。しばしば魂が強い者ほどご苦労様にも苦しむ*4。自殺もその頑なな魂の刈り取りなのだ。あなたの信仰があなたを救うのだから。しかも、主のくびきは軽く、魂に安息を下さる、と主は言われるのだ。わが反応は感謝だけ。かくして私もわが家を「安楽亭」とでも称しようかしらん

信仰の勝利とは何か?「エイ、エイ、オー」と決起すること?アブソリュートリー・ノー!それは主の内にひたすら

休む or 憩う
ことだ。

*1:この日は福島入りしているゆえに今晩UPする次第。
*2:均整が取れた充足状態に自分を置くこと。
*3:ただし、霊的な敵による思いへの攻撃もあるので要注意。私たちは神、サタン、人の三角関係のダイナミクスの中に生きている存在である。
*4:もうひとつは、病む人は多くの場合心に偽りを抱えている。自己欺瞞だ。それを回避したり、散り繕うことが苦しみを生むのだ。

幽居-韋応物

爽やかな朝だ。空気が実に気持ちイイ。まあ、ここは都会に近くして、きわめて田舎。緑と蝉の声と鶯の鳴く里と言える。かくして詩人たちの気持ちがよく分かるのだ。

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貴賎 等を異にすと雖も
門を出ずれば 皆営み有り
独り 外物の牽く無く
此の 幽居の情を遂ぐ
微雨 夜来過ぎ
知らず 春草生ずるを
青山 忽ち已に 曙け
鳥雀 舎を繞りて 鳴く
時に 道人と偶し
或いは 樵者に随いて行く
自から 当に蹇劣に 安んずべし
誰か 世栄を薄んずと謂わん

先の陶淵明の『飲酒其五』を受けて詠ったもの。陶淵明が自分には十分才能があるが、あえて世俗を離れて隠者の生活を送るのだ、と詠うのに対して、韋応物は、「自から 当に蹇劣に 安んずべし/誰か 世栄を薄んずと謂わん」として、(やや自嘲気味に)自分には世渡りの才能がないからだ、と受ける。いずれにしろ、彼らは世俗を離れて心を幽境に遊ばせていたのだ。いや、なかなか理想の生活ではないか。私などもとても才能があるとは思わないし、大衆に媚びて、自分を売り込もうとも思わない。むしろ大衆からは倦厭されている方が安心。人の評価や心の上で生きるなどと言うきわめて危険なことは避けたい。先の中韻の士でありたいわけ。まことに主イエスも言われるとおりだ:

しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。-John 2:24-25

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