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サブスタンスの所在

いつものDr.Kさんがヘブル11:1について論じておられる。小生の論も取り上げてくださっているので、こちらでもちょっと触れておこう。

ーーー以下、コメント欄の再掲ーーー

小生の論を取り上げて下さり恐縮です。ヘブル11:1の"substance"は邦語ではたいてい「確信」としています。この訳はひじょうに主観的と言えます。「得た」と霊が直覚するとき、魂は「確信」するわけです。

個人訳の新和訳は「実体化」です。「実体化」は霊の機能である直覚(intuition)を指していると思います。

「実体」はまさに霊的領域の存在そのものを言うわけで、小生の論は、この存在を、後半の「証明」とか「立証」の部分で、五感で実体化できる物理的時空間に現出させること、と解した次第です。エターナル訳では「ばくろする」となっています。

ヘブル3:14(Heb 3:14)でも、「最初の確信」と訳されていますが、これは内にいますキリストのことですから、「実体」が適切でしょう。「確信」なるものは時として揺らぎますから。かといって自分の努力で絞り出すようなものではないわけです。

ではこのサブスタンスはどこに存在するのだろうか、という点ですが、神の御心あるいは神の信仰(Mark 11:22)の領域と感じております。マルコは「神を信じなさい」は不適です。創造が神の信仰を語り出すことによりなされたように、その神の信仰を持てというのですから、すごいです。

私たちの願いが神の御心に沿うならば、何でもかなえていただけるわけです(1John 5:14)。私たちの祈りは神の御心あるいは信仰の領域に、自分の願うサブスタンスを作り出すわけです。ちょうど子供が親に何かをねだる時、親の心の中でそれを与えようとする想念ができるような感じですね。時がくれば、実際に与えるわけです。これが「立証」、すなわちサブスタンスの現出です。アブラハムのソドムに対するとりなしの祈りなどは、まさに神の心にサブスタンスを生み出したわけです。あるいは神の心にあるサブスタンスをアブラハムが代弁したというべきか・・・。

いずれにしろ、この論点は深いし、本質的です。一歩誤ると自力信心に落ちて、クルシチャンが出来上がりますが。神はかなえてくれない~と。とにかく日本語で考えると罠にはまりますね。

追記:

>このサブスタンスも霊の機能のどこかにあるのではないか。(MKさん)

そうですね、サブスタンスを共有できたとき、「得た」と分かるのかもしれません。祈りで神に求めるとき、神の信仰の領域にサブスタンスが形成され、それはまた神によって修正されたりしつつ、私たちの霊の領域、あるいは信の領域にも形成される。それが見事に一致したとき、願いがかなうという経験になるのでしょう。

神は決して一方的にいわゆる御心を押し付けませんし、私たちの願いや意志を最大限尊重してもくださる。彫刻をするときに二人が共同しつつ、刻み上げるといったイメージでしょうか?

 

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