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信仰とは何か?

信とは願っている事柄のサブスタンス、見えないものの立証である。-Heb 11:1

江戸時代には労咳(結核)は不治の病だった。その宣告はただちに死を意味していた。それが江戸人のリアリティー。彼らはしばしば真言密教などの護摩祈祷や厄払いを試みたり、信心に励んでお百度参りや滝行をしたりした。が、どんなに頑張っても、どんなに厳しい修行をしても徒労に終わった。

ところがここにひとりの人がいた。彼は20世紀から江戸時代にワープした20世紀の人だった。彼は抗生物質を持っていた。彼は言った、わたしの元に来てこれを飲みなさい。恐れないでただ信じなさい。彼の元に来た者はみなその抗生物質を飲んだ。理由は不明であるが、効果は劇的だった。しかし漢方医は嫉妬と妬みで彼の薬はインチキであると吹聴した。種痘なども牛の膿を塗ると牛になると大衆は信じていた。だから抗生物質も拒絶した。労咳が治るわけはないと。こうして激論が起きたのだ。

抗生物質は労咳の癒しのサブスタンス。それがあれば癒されたと分かる。しかし信仰は行いによって完成される。それを飲むのだ。これで癒しが立証される。信じたらそれに相応しくアクションを起こすこと。ここに紹介するCLIPはT.L.オズボーンの娘さんの証。この男は38年間ポリオで両足が麻痺し、骨のようになっていた両足で立ち上がるのだ。癒されてから立つのではない。信じて立ち上がると癒しが現れるのだ。

-Amazing Healing Stories | LaDonna Osborn

自分は聖書に通じ、霊的に深い何かを知っており、価値のある、より深い霊性を求めるとするクリスチャンの発言としてよく言われるセリフがある:しるしや不思議や癒しなどは低レベルの事柄。自分はもっと深い本質的なことを追求しているのだ、と。かつての私もこの部類だったが、何を追求しているわけ?あるいはそのようなことを追求すると別の霊が働き、真理から逸らされるとか、悪霊が働くから癒しを求めてはならないと明言する向きもある。彼らはイエスよりも霊的に深いことを追求しているのだ。このようなことを語る人々には、しばしば信仰の欠如や裏切られた期待が潜んでいる。自己の正当化。

あなたは何を追求しているのか?あなたは何が欲しいのか?あなたは父の御心はどのようなものと信じているのか?・・・今、私はこう問われている。

追記:自分は第一にキリストに似ることを追求しているのだとするお言葉をいただきました。私たちは決してキリストに似ることはできません。キリストがうちに形づくられる事はメタモルフォーゼ(Gal 4:19、ここも邦訳が不適切ですが)、つまりトランスフォーメーションですが、それはマインドから始まります。そしてキリストが形作られるならばキリストと同じ業をより一層容易にすることができるでしょう。病を癒し、死者を活かし、悪霊を追い出し、癩病をきよめ・・・と。

追記の追記:very prophetic!!!

-It's the Seventh Day

 

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victorman

神の言葉がリアルに語られているので、主に感謝しています。過去のブログも見たところ、「追記:自分は第一にキリストに似ることを追求しているのだとするお言葉をいただきました。私たちは決してキリストに似ることはできません。」とありました。コリントⅡ3:18に「主と同じ姿に変えられる」とあり、現実にキリストのように変えられる人がいなくても、み言葉は変えられません。多くの、キリストに似ることを追及している人々に、自分の思いではなく、み言葉をもって、語っていただきたい。

  • Mail
  • 2016/03/17 09:42:30

Dr.Luke Karasawa (唐沢治)

こんにちは。いつも申しておりますが、日本語で考えるとニッポンキリスト教なる宗教が生まれます。キリストに似ることを追及するといった・・・。私は「キリストが形作られる」と書いていますよね?私たちはすでにキリストのマインドを持っていますが、うちにメタモルフォーされるキリストのマインドや感情が私たちの魂に反映するのです。2コリント3:18でもそのように書いてあるはずですね。

  • 2016/03/17 11:08:47

victorman

コメントありがとうございます。
キリストのように変えるお方は御霊であって、にっぽんキリスト教ではありません。新しい人、復活の形は、古い人が少しでも入ってはならないのです。
ガラテヤ4:19のキリストの形に関して、ギリシャ語の権威織田氏は、パウロの産みの苦しみの言葉から、一度霊において生まれたキリスト者が肉に歩んでいることに対して、再びキリストの形、霊に生きるように産みに苦しみをしていると解釈しています。コリントⅡ3:18については、キリストのような人は現実にいないのですから、難解な箇所であるとして、「神の目にはキリストのように変えられたものとして、見ていてくださるのかも知れない。」そうでなければ御言葉が成り立たないと言う見解と受け取りました。

  • Mail
  • 2016/03/18 07:58:43

Dr.Luke Karasawa (唐沢治)

うーん、お疲れ様です。

  • 2016/03/18 08:18:12

victorman

キリストに似る似ないは、言葉の使い方のズレだと思います。たぶん同じ方向に向かっていると思います。ガイオン婦人が、「神の圧倒される力(聖霊)の中で、自己を失うとき、神のようになると言っています。」この言葉(訳)にもズレが生じると思いますが。「霊精神身体医学」の中で、「特に"肉"を自己と同一視すると、しばしば深刻な葛藤に陥る。"」とありますが、どのような意味か、又どのように深刻な葛藤に陥るのでしょうか。肉も自己=自我も十字架に架けられ、葬られていることは、福音の土台ですが、ある人は、新しい人には新しい自我があって、自我はなくならないと言います。新しい自我をキリストとすることが、深刻な葛藤に陥ると言うことでしょうか。

  • Mail
  • 2016/03/23 11:53:41

Dr.Luke Karasawa (唐沢治)

「自我」って単語、ニッポンキリスト教では多用されますが、聖書にはないですよね。聖書ではエゴ、それは私そのものです。「自我を砕き~」とかいう説教、語ってる本人が分かっていないと思いますよ。

ガラテヤ2章20節をお読みください。私も生きているのです。ただその私はアダム系列ではない私。つまりニュークリーチャー、新創造されたキリスト系の私です。大脳の記憶(≒肉)によるアイデンティティーを持つと葛藤するのです。新しい私=エゴに開眼することが自由への道です。

  • 2016/03/23 20:22:58

victorman

新しい私があるということはわかりましたが、新しい私とはどのようなものでしょうか。コロサイ3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」新しい私は隠されており、キリストしか見えません。新しい私の形はキリストですね。コロサイ3:4 「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」新しい私が現れるのは将来ということでしょうか。

  • Mail
  • 2016/03/24 11:30:35

Dr.Luke Karasawa (唐沢治)

・・・おひとりでどうぞ。

  • 2016/03/24 12:03:20

victorman

ルカさんのブログを見ていて、キリストに似ることを求めなくても、すでにキリストに似た者とされていることがわかりました。ありがとうございました。

  • Mail
  • 2016/03/25 19:51:35

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