神の器たちから学ぶ
- 2015/07/07 19:30
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:マモン
過去のいわゆる信仰のヒーローたちの物語は実に参考になる。神は、ある者は霊性、ある者は経済面、ある者は癒し、ある者は預言・・・とそれぞれに強調点というか、委ねた任務あるいは配剤が異なるのだ。私は若い頃からウォッチマン・ニーの助けを受けているが、彼はある部分を委ねられたに過ぎない。また彼の生き方を再現しようとしても、それは無理だ。ジョージ・ミューラーにしても同じ。彼はカネ自体を追求していなかったが、生涯に50万ポンドを神から託された。今日の価値にして、1ポンドはだいたい3万円。ニーにしても組織に頼らず、主にのみ頼る生活であったが、決して貧困だったわけではない。むしろ多くの同労者を援助していた。
私もここまで生きてきて感じることがある。40歳くらいのある兄弟がポツリといったセリフが印象に残っている。人間って、本当に必要な本ってそんなにないって分かってきた。聖書と生活に必要な情報ブックくらいで十分だ、と。これは明言。私も本で足の踏み場がなく、その中に埋もれていた方だが、最近はどんどんブックオフに通っている。その他、家具備品、洋服なども無駄なものが山ほどあることに気がついた。そこで断捨離。曹洞宗の禅寺では食器と僧服、そして畳1畳ですべての生活を行う。それで十分。パウロも言っている:
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
衣食があれば、それで満足すべきです。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。
ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。-1Tim 6:6-10
確かにこの地上を生きるために必要なものはほんと少なくて済む。しかし、これはカネを得ることが悪だと言っているのではない。主は不義のカネ(マモン)を用いても友を作っておけと言われるし、ここでもカネを愛することが悪の根だと言っている。カネは元々フェイクに過ぎないが(誰も北朝鮮の紙幣などは欲しくない)、この世をしのぐためには手段としてあるに越したことはない。というより、神の国の発展のためにはマストなのだ。はっきり言うが、貧困は呪いだ。それは貧困の霊による。アブラハムもイサクもヤコブもみな富んでいた。
が、カネがあっても貧困の霊に捉えられることがある。カネを自分の才覚で稼ぐとそこにプライドが生まれる。私などもそうであったろうが、それは卑しい。前にも書いたが、ヨハネの祈り、魂が繁栄しているようにあらゆることで繁栄し、健やかであることは、魂のエクセレントさのことを言う。カネを自分のアイデンティティーの物差しにすることは決してエクセレントではない(確かにカネは向上へのモチベーションになる。よって若い人にはどんどん稼げとエールを送るが。)
これからの鍵は何か。それは神からどれほど委託されるかということ。ジョージ・ミューラーなどはまさに神の信頼を勝ち得て、あれだけのカネを任されたのだ。私もケタを上げたいと言うのはそのことだ。ニッポンキリスト教の一部の卑しさは言わずもがな、特に什一献金を諸悪の根源のように断罪する。ああ、なんという貧しさ。まことに貧困の霊がなせるわざだ。これははっきりと証しできるが、捧げることは大いなる祝福。魂のエクセレントさを味わうことである。得るためにはまず捨てること。手放すこと。捨てた者は得る。
イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」-Luke 18:29-30
神の国のために捨てた者はこの世にあってもその幾倍かを得るのだ!捧げることの祝福を味わうことは、実は特権なのかもしれない。