規格化されないこと
- 2016/11/26 11:08
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:ニッポンキリスト教
ニッポンキリスト教と関わって一番不思議だったことは、日曜礼拝なるもの。何でも午前10時からのが正式とか言われるむきもあるそうだ。あの式次第があって、「使徒信条」告白から始まって、賛美歌(聖歌)何番、立ったり座ったり、祈りも当番があって、決まりきったセリフで、頌栄とか交読とかやって、献金袋が回ってきて、最後に牧師の祝祷とかで、アーメンと。ああ、ようやくお務めオワリと
私も一応祝祷のセリフは覚えさせられて、やったこともありますが、正直、なんじゃコレと・・・。私のメッセを聞かれる方がよく言われることは、ユニークだとか、型破りだとか、独特だとか、個性的だとか・・・。規格化された世界から見るとそう見えるのでしょう。この業界、「かっみっさまわ~」というあのイントネーションまでもみな同じだからね。臭いはその部屋にいる人には分からないが、外部者にはすぐわかる。家庭の臭いなども。
ニッポンが戦後、ここまで来られたのは工業製品の規格化によることは事実。私がドク論の指導を受けた増山元三郎先生はフィッシャーのお弟子さんで、ニッポンの統計学の父だが、まさに品質管理を導入された方。が、その先生が『コンピューターの部品になりたくない学生諸君へ』(みすず書房)という本を書いているのだ! 社会システムに組み込まれて1枚の歯車として生きるなんて、食うためにただ時間と労力をカネと交換しているだけでしょう。要するに自分という存在を売っているわけ。まことに主は言われた―
だから何を食べ、何を着ようかと、自分の体のことで思い煩うな。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。天の父がよくしてくださらないことがあろうか。―マタイ福音書
御言葉をカナメとして、いろいろな物差しを持つこと―これ、人生を楽しむコツ。
注:増山先生は実に博学多彩、東大物理の出身だが、あらゆる分野に通じ、英語、フランス語、ロシア語に堪能で、論文も3か国語で書かれた。その本の中で、いわゆるアシュケナジー・ユダヤ人についても触れておられる。つまりハザール人説だ。宇野正美氏が紹介した第13氏族説は別に新しいことではない。ただ、アシュケナジー(偽ユダヤ人)とスファラディ(本物)って二分することはできなでいあろう。まさに神のみぞ知る。今のイスラエルがロスチャの陰謀で生まれて、聖書預言の成就ではないとするクリたちもいるが、私はあの地は神の地であり、あの国にはアブラハムの子孫が守られている信じている次第。アイ・ブレス・ジェルサレム!
satake
こんにちは。
アダムとイブの失楽園の話は、
神からの分離の象徴だといわれています。
私たちの霊は、
この世の存在ではないという真理があるとしても、
依然として肉体はこの世にあるし、
社会(世)と関わって生活して、
自立していき、立派な大人になることを求められます。
でも、その反面、
苦しみの根本原因を探っていくと、
世、自立、肉体・・にたどり着きます。
つまり、
神からの自立(神と自己を切り離して、自分で能力を高めて、社会的に自立して、世の中で、サバイバルの中、食っていかなくてはならない。)と、
肉体のことに集約されます。
もっと突き詰めると、
神から分離した、一人のか弱き個人の存在が、
苦しみの原因です。
この、
世、自立、肉体というのは、一体なんなのでしょうか・・・。
この矛盾を超越して、
一見、世に属して普通の生活をしながらも、
死の影を感じさせず、穏やかで明るく過ごすことが目標です。
フェイスは行いを持って完成するということなので、
コツを掴みたいと興味津々です。
ありがとうございます。