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聖書の先にあるものを見よ!

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聖書は神の言葉である。いやしくも福音派レベルの人であれば、当たり前だよ、そんなことは知っている、と答える。信仰箇条にも、私たちは聖書66巻が原典において神の真正な言葉であると信じます、と看板を掲げている。ところがここに罠がある。ブルース・リーが弟子に月を指さすと、弟子は指を見つめてしまい、リーが彼の頭をポンと叩くシーンがある。そう、われわれは聖書そのものに注目して、それを最初から終わりまで勉強して事足れりとする罠に落ちるのだ。日本語訳はあまりよろしくないと言うと、ギリシャ語やべブル語で読むこと自体が目標となる罠に落ちる者もいる。

が、聖書は普通の本ではない。白黒の文字としては単なる本であるが、それは霊的リアリティーを指し示す。目の前のリンゴについて、「これはリンゴである」と言っても、"This is a apple."と言っても同じこと。いや、文法が間違ってるではないか、母音前では"an"が正しいのだ!と言われる向きもあるだろう。偏差値教育で洗脳されたニッポン人の得意とするところである。海外ではそんなことはドッチでもよい。ちゃんと通じる。本質は目の前のリンゴを見るかどうか、だ。メッセでも語った日基の牧師はこの白黒の世界の住人なのだ。

聖書が示すのも目の前のリンゴと同じように現存する世界、領域、スフィアである。車の教習所で運転の手順を学ぶことは必要だろう。が、教習所どおりの運転をされたら実際の道路ではかえって危険だ。臨機応変、瞬間瞬間、状況を認知し、決定し、行動する必要がある。霊的領域でも同じこと。車に乗ったら誰も教則本を手に取りはしない。霊的領域でも同じだ。「聖書を学ぶ」罠に落ちると、目の前に霊的事件が起きているのに、それに気がつかないまま、勉強を続けるといった倒錯が起こる。車の運転では絶えず現在の状況にいる必要がある。フェイスも同じ。フェイスはつねにNOWなのだ。

この霊的認知ができれば、霊的動機が生まれる。それによってエリヤもエリシャも、そしてジーザスも、絶えずNOWにおいてわざをなした。もちろんフェイスによって、だ。義人はフェイスによって生きる。私たちも同じ。

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。-John 14:12-14

NOWに生きること、それはフェイスの世界。フェイスに覚醒せよ、そしてフェイスを使え!

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