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Tag: 御言葉

魂と霊の切り分け―マトリックスからの離脱のカギ

本日の癒しの証2題

本日のせレブでの証。件のバイク事故の兄弟、4日に退院、その後別の病院で検査したところ、医者が、どこを骨折したのですか?と。跡がないんだそうだ。外には傷が残っているけれども・・・。WOW!!! はて、何が起きたのでしょうか?ちなみに本日のメッセではご本人のS兄弟が登場して証してくださるので、後ほど楽しみに。

もうひとりの姉妹、小学生の頃、馬跳びで70キロの友人に乗っかられて、脊柱を骨折。半身不随の可能性の診断を受けた。が、それは一応治ったが、後遺症が30年以上残っていた。それはかなり辛いもので、これは神を忘れないようにするために神が自分に与えたものだと思い込んできた。が、それは偽りと分かり、リナウンスした。するとすべての後遺症が消え去った、と。WOW!!! 

共にマインドのマトリックスから離脱すること。マインドの地平線を広げ、御言葉(dabar)と霊を送っていただくこと。するとそれらは共に働いて、神は何かを創造をなさるのだ(Ps 104:30)。カギは聞いた御言葉にフェイスを混ぜること(Heb  4:2)。PTL!!!

フェイスとは

何度も繰り返しているが、「信仰」という単語はあまりよろしくない。日本語で聖書を考えるといわゆるニッポンキリスト教ができると指摘している。原語のpistis、英語のFaithは、別に使徒信条告白ぅ、「われはコレを信ず、アレを信ず・・・」と社是訓を唱えることではない。

今、フェイスとは願うことのサブスタンス(実体あるいは実体化)、目に見えないことの立証(証明あるいは現出)である。-Heb11:1(私訳)

スピリチュアルなサブスタンスをこの五感の領域、物理的時空間に現出させることなのだ。iPS現象は肉体的生命現象、Faithは霊的生命現象。その霊的 実体がこの物理的時空間において証明されること。これがフェイス。それは電磁波という物理的サブスタンスを目によって実体化することと同じ。霊的サブスタ ンスは霊によって実体化される。その霊の機能がフェイス、すなわちシックスセンスなのだ。

聖書を宗教本にすることなかれ。いわゆるキリスト教のマトリックスから解かれよ。それは所詮五感の領域のオハナシ。クルシチャンを産むだけ。まことに必要なのはフェイスの覚醒である。

(続)癒される人・癒されない人

この厳粛な差はどこに由来するのか? これまでの経験からの事実をまとめてみると―

今回の方は以前に、やはりガンで亡くなったある姉妹から受ける雰囲気や印象と非常に似ていることに気がついた。両者ともとても育ちがよく、従順、教育程度も高く、医師の言うことがよく理解できて、自分でも自ら学んで医学的知識を持っておられる。自分が処方されているクスリも実によく知っている。常識をよくわきまえており、気配りもできる普通の社会人としてはまことに模範的。要するに状況に自ら適応する傾向が強い。

対して末期ガンや難病が癒された人たちの場合、いわゆる模範的社会人像からはかなり外れている。末期ガンが癒されたご婦人などは病院に行かず、患部を自分で切開して膿を絞り出しておられた。難病がふたつ癒された兄弟などは社会的には完全に破綻していた。前にも書いたが、韓国のある姉妹は2010年に肺に5センチくらいの腫瘍があり、胸水も貯留していたが、なんの治療も受けずにいまだに元気である。当時、私は彼女のX線写真を見せられてかなり驚いたものだ。

英国のKingdom FaithColin Urquhartも2002年ごろに胃ガンを患った。一時はビデオで見ても衰弱が著しく、もうダメかと思った。癒しの務めは彼のミニストリーの重要な部分なのだ。が、彼は完全に癒されて、今もなお主にあるミニストリーを継続している。

一方、私が学んだJohn Mckeyは2001年にガンで召された。彼は元々神学者であり、大学の講師もしていたが、Colinと出会っていわゆるオツムだけの「信仰」から解放され、大学も辞して、Colinと共にKingdom Faithの主要なコース"The Way of the Spirit"を運営していた。彼の著書は文体もペダンティックであり、一読して学者のものしたものと分かる。対してColinのものは英文も簡単。

もちろんColinもKings Collegeを出て、聖公会の地区牧師であったが、70年代に組織に頼る働きに限界を覚え、巡回説教者として自立、現在に至る。そもそもKingdom Faith Churchが設立されたのは93年。それまではミニストリーのみだった。89年ころ、偽預言者がColinの働きは終わったと宣言して、それを信じた者たちが彼の元を去り、12人だけが残った。ほとんど存続が危ぶまれる事態に陥った。が、その後彼の働きは大いなる祝福を受けている。死と復活の原則を経たのだ。私は90年から彼の下に入った。

話を戻すと、ColinとJohnの差はどこにあるのか?

この世界には波動が満ちていることは私の『神の新創造-聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー』でも指摘している。神のバイブレーションと言葉(ミレア)は全地に満ちるとある(Ps 19:5)。一方でサイエンスとか人間の言葉、さらには敵の言葉のバイブレーションも満ちている。それらはちょうど電波と同じなのだ。この世界には諸々の周波数の電磁波が混在している。霊的には普通の人は神のレーマを聞くことはできない。なぜ? センサーとしての霊が死んでいるから。が、空中の存在による影響は受けている(Eph 2:2)。人のマインドは霊の世界と物理的世界の接点にあるからだ。

一般的に、従順で、教育程度も高く、常識的な人のマインドがどちらに共鳴し易いかは言うまでもない。つまり癒しを受ける人と受けない人の差はマインドの構造による部分が大きいのだ。医師の診断と御言葉の診断のどちらにより容易に共鳴し得るか? カギはここにある。ゆえに主は言われた-

あなたがたはどう聞くかによくよく注意しなさい。-Luke 8:18

フェイスは聞くことから、聞くことはキリストの言葉(レーマ)による(Rom 10:17)

癒しを受ける人はみな自らこのレーマを聞いている。別に私が祈ったからとか、誰かのミニストリーを受けたからではない。彼ら自身が聞いているのだ。そして分かる、あ、自分は癒された、と。それがフェイスの瞬間、つまりレーマにチューニングされるのだ(⇒信仰と希望について)。これをもっとも阻害するのが、恐れの霊である。ゆえに主は繰り返し、「恐れるな」と言われたのだ。

癒しは希望によるのではない、フェイスによる。フェイスは願うことのサブスタンス(Heb 11:1)。希望からフェイスに突き抜ける瞬間があるのだ! そしてこれはそれぞれのマインドの構造によって、タイミングも、程度も、状況もまったく異なるものとなる。ある意味で、肉体の病状の進行とフェイスへの突き抜けの競争となるのだ。

カギは何か? 繰り返すが、レーマにチューニングされること。そのためには

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、思い(原語)を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。-Rom 12:2

マインドが世に倣うほどにフェイスを失う。世とは別に六本木のディスコを言うのではない。高尚なサイエンスや学問や思想などすべて神の言葉に対立するものである。私たちのサブコンシャスのレベルにはそのようなサタンの要塞が構成されている。私はこれを「霊感情観念複合体」と呼んでいる(⇒サタンの要塞について)。ゆえにパウロはこう訴えるのだ。

わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ・・・-1Cor 10:3-5

マインドの再構成(メタモルフォーシス、トランスフォーメーション)フェイスの覚醒。今回の件を通して、このプロセスがさらに触媒されたことを感じている。

からし種一粒のフェイスとは?

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するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの同様の信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」-Matt 17:20

この削除線を引いた部分は邦語訳の問題点。「足りないから」ではなく「ないから」、「ほどの信仰」ではなく「と同様の信仰」。この部分はしばしば信仰のサイズの問題として取り上げられる。アブソリュートリー・ノー!サイズを気にする人々はよく、自分の信仰は小さいから、でもからし種一粒でもあれば祈りを聞いてもらえる、と思い込んで、しばしばかなえられない経験に落ちて失望するのだ。なぜ?サイズの問題ではないから。DNAの有無の問題なのだ。からし種はサイズは小さいが、からしの木の全DNAを含んでいる。その小さな種の中にからしの木の全運命が含まれているのだ!これが種。砂粒ほどのフェイスでは無効なのだ。

われわれも同じ。私たちは神の種から生まれた。

あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言(ロゴス)によったのである。-1Pet 1:23

種とはロゴス。ロゴスは神の第二格位なる存在。つまり私たちは神のロゴスから生まれた。ゆえに私たちは神のDNAを有しているのだ!人から生まれた者がチンパンジーのDNAを持つことはあり得ない。私のうちには神が成長している!要するに神の国の全運命を含む神のDNAをインプラントされているのだ。Are you with me? これはただフェイスによった(Eph 2:8)。フェイスはDNAをインプラントするのだ。

結論を言おう。フェイスはサイズの問題ではない。質の問題、つまり神の国のDNAを有しているか否か、である。イエスは神フェイスを持てと言われる(Mark 11:22)。「神を信じなさい」ではない!「神のフェイス(Faith of God)」だ。それは神の国のDNAを有するフェイス。そのフェイスには時系列(クロノス)の中で成就するあらゆる事象を含んでいる。そのDNAを持つことは神の国のすべてを有することを意味するのだ。まことにパウロが言うとおり:

ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。-1Cor 3:21-23

WOW! からし種と同様のフェイスとはDNAを有するフェイス。サイズの問題ではない。神から得た霊のDNAを発現させよ。それはサブスタンスの出現、すなわちフェイスの覚醒(Heb 11:1)。フェイスは霊のDNAを活性化するのだ!かくして神は私たちのうちで育ち、私たちの肉、すなわち人間性を通して現れる。これが敬虔(邦語訳はあまりよくない。英語では"Godliness")の奥義である(1Tim 3:16)。イエスはそれを初穂としてデモンストレーションされた。まことにわれわれは神属人類なのだ!

リアリティーはブレインが作り出す-視覚の例

聖書の先にあるものを見よ!

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聖書は神の言葉である。いやしくも福音派レベルの人であれば、当たり前だよ、そんなことは知っている、と答える。信仰箇条にも、私たちは聖書66巻が原典において神の真正な言葉であると信じます、と看板を掲げている。ところがここに罠がある。ブルース・リーが弟子に月を指さすと、弟子は指を見つめてしまい、リーが彼の頭をポンと叩くシーンがある。そう、われわれは聖書そのものに注目して、それを最初から終わりまで勉強して事足れりとする罠に落ちるのだ。日本語訳はあまりよろしくないと言うと、ギリシャ語やべブル語で読むこと自体が目標となる罠に落ちる者もいる。

が、聖書は普通の本ではない。白黒の文字としては単なる本であるが、それは霊的リアリティーを指し示す。目の前のリンゴについて、「これはリンゴである」と言っても、"This is a apple."と言っても同じこと。いや、文法が間違ってるではないか、母音前では"an"が正しいのだ!と言われる向きもあるだろう。偏差値教育で洗脳されたニッポン人の得意とするところである。海外ではそんなことはドッチでもよい。ちゃんと通じる。本質は目の前のリンゴを見るかどうか、だ。メッセでも語った日基の牧師はこの白黒の世界の住人なのだ。

聖書が示すのも目の前のリンゴと同じように現存する世界、領域、スフィアである。車の教習所で運転の手順を学ぶことは必要だろう。が、教習所どおりの運転をされたら実際の道路ではかえって危険だ。臨機応変、瞬間瞬間、状況を認知し、決定し、行動する必要がある。霊的領域でも同じこと。車に乗ったら誰も教則本を手に取りはしない。霊的領域でも同じだ。「聖書を学ぶ」罠に落ちると、目の前に霊的事件が起きているのに、それに気がつかないまま、勉強を続けるといった倒錯が起こる。車の運転では絶えず現在の状況にいる必要がある。フェイスも同じ。フェイスはつねにNOWなのだ。

この霊的認知ができれば、霊的動機が生まれる。それによってエリヤもエリシャも、そしてジーザスも、絶えずNOWにおいてわざをなした。もちろんフェイスによって、だ。義人はフェイスによって生きる。私たちも同じ。

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。-John 14:12-14

NOWに生きること、それはフェイスの世界。フェイスに覚醒せよ、そしてフェイスを使え!

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