癒される人・癒されない人
この厳粛な差は何によるのであろうか?
すべての人を偽りとしても神を真実とせよ。-Rom 3:4
本日、ガンを患っておられたある方が召されたと連絡をいただいた。半年くらい前に癒しを祈ってほしいと言って来られた。かなり前の原発ガンの再発ガンで、すでに末期状態にあったが、お話を伺ってとにかく共に祈った。昔の私はそのような関わりは避けていたが、今はとにかく逃げることはしないで祈る。私はいわゆるフェイス・ヒーラーではないし、かつては癒しのフェイスもなかったのだ。とても主に対して開いている方で、忠実に祈られた。兄弟姉妹と共に手を置いて祈ったりもした。手を置いた際、主の愛が迫り、主がこの方に触れたいと願っておられるのはよく分かった。
が、極私的には腑に落ちない感覚が残ってしまった。手ごたえがないのだ。何かが抜けない。先に紹介した末期ガンが癒された老婦人の場合、ガンの霊に対する明確な手ごたえを感じ、癒されたことが分かった。今回はそれがなかった。ある姉妹に、状況を聞かれたとき、首をかしげてしまった自分をいぶかしがった。癒されたと言い切れない内的感覚に自分自身が当惑していたというところが偽りのない本音だ。マシュマロに向かっているような、ざるに水を入れるような、あるいは自転車のスタンドをしたままペダルをこぐ感覚だった。このもどかしさは何なのだろう?
あるときには強い不安に襲われて急遽電話して来られた。その際は恐れの霊に向かって命じたところ、ああ、心が温かくなり、楽になりましたぁ、と脱力したように言われた。霊に対する手ごたえを私も感じた。それが私との最後の会話となってしまった。その後もずっと気になっていたが、先に感じた違和感はそのまま残っていた。実は理由が不明のまま、今週はブログを書く気持ちがまったく出なかった。が、本日、それが明らかになった。その方は主治医から余命3カ月と宣告されて、もの凄い恐怖感に囚われておられたと言うのだ。その恐れを無防備に受け入れてしまっておられたのだ。それはちょうどピストルを向けられて手を挙げてしまった状態と言える。つまり恐れにサレンダーしてしまっておられたのだ。これが手ごたえのない理由と分かった・・・。結局、主治医の宣告どおりの結果となってしまった。
その最期の時期に少しでも関われたことは主の配剤であると思うが、極私的には非常に悔しさを覚えている。私自身、もっと徹底的に恐れの霊と対決すべきであったと感じている。ガンの発生は事実ではあるが、決してサイエンスの診立てを無防備に受け入れてならない。恐れの霊はそれをチャネルとして侵入する。一度侵入を許すと追い出すのは非常に困難になる。特にガンのような目に見え、感覚に訴える、明確な症状がある場合、サタンはそれを証拠として執拗に突き付けてくる。イエスの十字架の効力を否定するために・・・。現象は事実(Fact)だ。しかし、それは真理(Truth)ではない。真理は、イエスの打たれた傷により私たちは癒されたのだ(1Pet 2:24)。
この方は激しい痛みに責め苛なまれておられた。それに対するオピオイドの副作用、加えて放射線による神経の損傷が原因の腕のマヒにも苦しんでおられた。私たちの肉体はガンダムスーツのようなもの、いずれ誰もが脱ぎ捨てるものではある。これをわがフェイスの欠如の言い訳や自己憐憫としたくはないが、この方もその物理的なスーツの苦痛からは解かれて、今、主の御元で休んでおられる。今はただ、ご家族の上に聖霊による平安と慰めがあることを祈る次第です。主を賛美します。