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Tag: 恐れの霊

(続)癒される人・癒されない人

この厳粛な差はどこに由来するのか? これまでの経験からの事実をまとめてみると―

今回の方は以前に、やはりガンで亡くなったある姉妹から受ける雰囲気や印象と非常に似ていることに気がついた。両者ともとても育ちがよく、従順、教育程度も高く、医師の言うことがよく理解できて、自分でも自ら学んで医学的知識を持っておられる。自分が処方されているクスリも実によく知っている。常識をよくわきまえており、気配りもできる普通の社会人としてはまことに模範的。要するに状況に自ら適応する傾向が強い。

対して末期ガンや難病が癒された人たちの場合、いわゆる模範的社会人像からはかなり外れている。末期ガンが癒されたご婦人などは病院に行かず、患部を自分で切開して膿を絞り出しておられた。難病がふたつ癒された兄弟などは社会的には完全に破綻していた。前にも書いたが、韓国のある姉妹は2010年に肺に5センチくらいの腫瘍があり、胸水も貯留していたが、なんの治療も受けずにいまだに元気である。当時、私は彼女のX線写真を見せられてかなり驚いたものだ。

英国のKingdom FaithColin Urquhartも2002年ごろに胃ガンを患った。一時はビデオで見ても衰弱が著しく、もうダメかと思った。癒しの務めは彼のミニストリーの重要な部分なのだ。が、彼は完全に癒されて、今もなお主にあるミニストリーを継続している。

一方、私が学んだJohn Mckeyは2001年にガンで召された。彼は元々神学者であり、大学の講師もしていたが、Colinと出会っていわゆるオツムだけの「信仰」から解放され、大学も辞して、Colinと共にKingdom Faithの主要なコース"The Way of the Spirit"を運営していた。彼の著書は文体もペダンティックであり、一読して学者のものしたものと分かる。対してColinのものは英文も簡単。

もちろんColinもKings Collegeを出て、聖公会の地区牧師であったが、70年代に組織に頼る働きに限界を覚え、巡回説教者として自立、現在に至る。そもそもKingdom Faith Churchが設立されたのは93年。それまではミニストリーのみだった。89年ころ、偽預言者がColinの働きは終わったと宣言して、それを信じた者たちが彼の元を去り、12人だけが残った。ほとんど存続が危ぶまれる事態に陥った。が、その後彼の働きは大いなる祝福を受けている。死と復活の原則を経たのだ。私は90年から彼の下に入った。

話を戻すと、ColinとJohnの差はどこにあるのか?

この世界には波動が満ちていることは私の『神の新創造-聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー』でも指摘している。神のバイブレーションと言葉(ミレア)は全地に満ちるとある(Ps 19:5)。一方でサイエンスとか人間の言葉、さらには敵の言葉のバイブレーションも満ちている。それらはちょうど電波と同じなのだ。この世界には諸々の周波数の電磁波が混在している。霊的には普通の人は神のレーマを聞くことはできない。なぜ? センサーとしての霊が死んでいるから。が、空中の存在による影響は受けている(Eph 2:2)。人のマインドは霊の世界と物理的世界の接点にあるからだ。

一般的に、従順で、教育程度も高く、常識的な人のマインドがどちらに共鳴し易いかは言うまでもない。つまり癒しを受ける人と受けない人の差はマインドの構造による部分が大きいのだ。医師の診断と御言葉の診断のどちらにより容易に共鳴し得るか? カギはここにある。ゆえに主は言われた-

あなたがたはどう聞くかによくよく注意しなさい。-Luke 8:18

フェイスは聞くことから、聞くことはキリストの言葉(レーマ)による(Rom 10:17)

癒しを受ける人はみな自らこのレーマを聞いている。別に私が祈ったからとか、誰かのミニストリーを受けたからではない。彼ら自身が聞いているのだ。そして分かる、あ、自分は癒された、と。それがフェイスの瞬間、つまりレーマにチューニングされるのだ(⇒信仰と希望について)。これをもっとも阻害するのが、恐れの霊である。ゆえに主は繰り返し、「恐れるな」と言われたのだ。

癒しは希望によるのではない、フェイスによる。フェイスは願うことのサブスタンス(Heb 11:1)。希望からフェイスに突き抜ける瞬間があるのだ! そしてこれはそれぞれのマインドの構造によって、タイミングも、程度も、状況もまったく異なるものとなる。ある意味で、肉体の病状の進行とフェイスへの突き抜けの競争となるのだ。

カギは何か? 繰り返すが、レーマにチューニングされること。そのためには

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、思い(原語)を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。-Rom 12:2

マインドが世に倣うほどにフェイスを失う。世とは別に六本木のディスコを言うのではない。高尚なサイエンスや学問や思想などすべて神の言葉に対立するものである。私たちのサブコンシャスのレベルにはそのようなサタンの要塞が構成されている。私はこれを「霊感情観念複合体」と呼んでいる(⇒サタンの要塞について)。ゆえにパウロはこう訴えるのだ。

わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ・・・-1Cor 10:3-5

マインドの再構成(メタモルフォーシス、トランスフォーメーション)フェイスの覚醒。今回の件を通して、このプロセスがさらに触媒されたことを感じている。

癒される人・癒されない人

この厳粛な差は何によるのであろうか?

すべての人を偽りとしても神を真実とせよ。-Rom 3:4

本日、ガンを患っておられたある方が召されたと連絡をいただいた。半年くらい前に癒しを祈ってほしいと言って来られた。かなり前の原発ガンの再発ガンで、すでに末期状態にあったが、お話を伺ってとにかく共に祈った。昔の私はそのような関わりは避けていたが、今はとにかく逃げることはしないで祈る。私はいわゆるフェイス・ヒーラーではないし、かつては癒しのフェイスもなかったのだ。とても主に対して開いている方で、忠実に祈られた。兄弟姉妹と共に手を置いて祈ったりもした。手を置いた際、主の愛が迫り、主がこの方に触れたいと願っておられるのはよく分かった。

が、極私的には腑に落ちない感覚が残ってしまった。手ごたえがないのだ。何かが抜けない。先に紹介した末期ガンが癒された老婦人の場合、ガンの霊に対する明確な手ごたえを感じ、癒されたことが分かった。今回はそれがなかった。ある姉妹に、状況を聞かれたとき、首をかしげてしまった自分をいぶかしがった。癒されたと言い切れない内的感覚に自分自身が当惑していたというところが偽りのない本音だ。マシュマロに向かっているような、ざるに水を入れるような、あるいは自転車のスタンドをしたままペダルをこぐ感覚だった。このもどかしさは何なのだろう?

あるときには強い不安に襲われて急遽電話して来られた。その際は恐れの霊に向かって命じたところ、ああ、心が温かくなり、楽になりましたぁ、と脱力したように言われた。霊に対する手ごたえを私も感じた。それが私との最後の会話となってしまった。その後もずっと気になっていたが、先に感じた違和感はそのまま残っていた。実は理由が不明のまま、今週はブログを書く気持ちがまったく出なかった。が、本日、それが明らかになった。その方は主治医から余命3カ月と宣告されて、もの凄い恐怖感に囚われておられたと言うのだ。その恐れを無防備に受け入れてしまっておられたのだ。それはちょうどピストルを向けられて手を挙げてしまった状態と言える。つまり恐れにサレンダーしてしまっておられたのだ。これが手ごたえのない理由と分かった・・・。結局、主治医の宣告どおりの結果となってしまった。

その最期の時期に少しでも関われたことは主の配剤であると思うが、極私的には非常に悔しさを覚えている。私自身、もっと徹底的に恐れの霊と対決すべきであったと感じている。ガンの発生は事実ではあるが、決してサイエンスの診立てを無防備に受け入れてならない。恐れの霊はそれをチャネルとして侵入する。一度侵入を許すと追い出すのは非常に困難になる。特にガンのような目に見え、感覚に訴える、明確な症状がある場合、サタンはそれを証拠として執拗に突き付けてくる。イエスの十字架の効力を否定するために・・・。現象は事実(Fact)だ。しかし、それは真理(Truth)ではない。真理は、イエスの打たれた傷により私たちは癒されたのだ(1Pet 2:24)。

この方は激しい痛みに責め苛なまれておられた。それに対するオピオイドの副作用、加えて放射線による神経の損傷が原因の腕のマヒにも苦しんでおられた。私たちの肉体はガンダムスーツのようなもの、いずれ誰もが脱ぎ捨てるものではある。これをわがフェイスの欠如の言い訳や自己憐憫としたくはないが、この方もその物理的なスーツの苦痛からは解かれて、今、主の御元で休んでおられる。今はただ、ご家族の上に聖霊による平安と慰めがあることを祈る次第です。主を賛美します。

恐れこそを恐れよ

これ、確か、アメリカの大統領の発言だったと思う。恐れとフェイスは互いに背反だとメッセでも語っている。完全な愛は恐れを取り除く。恐れる者には愛がまっとうされていない。この聖句、真に受ける必要がある。恐れる者には次々に問題や病が降りかかる。これ本当に不思議な事であり、厳粛な事。

昨日の大腸ガンの兄弟にとっては死の可能性はあるも、彼にとっては死のトゲはすでに抜かれてしまっている。フェイスが働いていることが彼との応答の中でわかる。彼には恐れがない。ニューエイジでは「引き寄せの法則」というが、恐れは確かにその対象を招き寄せるのである。ヨブが証言したとおりだ、自分の恐れていたことが降りかかった、と。それはフェイスの穴、アリの一穴ダムをも崩す。

主イエスの教えの中でもっとも繰り返されたこと、それは「恐れるな!」。はあ、人間は弱いものだから、恐れるのは当たり前でしょう・・・。はい、どうぞ、それにアーメンしてください。恐れはあなたを正当に支配するでしょう。あなたがその権限を恐れの霊に与えてしまったのだ。何度も言っているが、自分が同意した対象は自分の上に権威を行使する正当な権限を許すことになる。

フェイスによらない愛は罪だ。それはヒューマニズム。愛のないフェイスはむなしい(罪といっているのではない!)。すべてフェイスによらないことは罪なのだ。ゆえに愛によって働くフェイスが大切だとパウロは言う(Gal 5:6)。つまり愛が働きかつフェイスが働く、ならば恐れはまったくあるべきではない!恐れる人は自分を大事大事している人。彼らは自分を投げ出すことができない。ペテロのように舟から荒波に一歩を踏み出すことができない。自分の小さなコンフォートゾーンに閉じこもるのだ。恐れの霊はそのような人を格好のターゲットにする。霊的書物もよく読み、ポジティブコンフェッションとかもよく実行している。が、彼らの根底には恐れがある。ヨブと同じだ。

この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。-Job 1:5

恐れから出たものはどんなに信仰深く見えてもフェイクである。それには実効力がない。私たちの得た霊は恐れの霊ではなく、愛と力と健全な思いの霊である。健全な思いとは恐れから解放された思い。私たちのすべての言動は愛にある安息と平安から生み出されるべきものなのだ。

神の国に入れない者の筆頭は

しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。-Rev 21:8

この聖句は実に厳粛。信じない者や人殺し、姦淫する者にまさっておくびょうな者がリストされている。おくびょう者は恐れの霊にやられている人。たとえば、メッセでも語ったが、癒しをすっと受ける人は自分を手放している人だ。福音のために自分を注ぎ出す人。対して次々に病に襲われる人は自分を大事にしている人。主のことよりも自分を優先する。セレブよりも病院通いを先にと。自分を大事大事にしている人はどうも逆に敵に弄ばれてしまう。見かけは信心深いようでも、実は主よりも自分を選んでいるのだ。これは究極の自己欺瞞。聖書はよく知っているし、あれこれの霊的書物もよく読んでいる。が、自分を手放せない。不思議なものだが、おくびょうな人は敵の格好のターゲットになってしまうようだ。

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょう(恐れ)の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。-2Tim 1:7

恐れはサタンのパワーを誘発し、フェイスは神のパワーを、だ。自分を愛するほどに恐れの霊は力を得る。自分を救おうとするれば失い、自分を失えば得る。勝利への第一歩は自分を手放すこと、自己放擲(ほうてき)にある!

では、ちょっと温泉にてボディのメンテをしてまいります。

注:慎しみの霊は不正確。健全な思いの霊が正解。日本語で理解してはならない。

恐れの霊の侵入を許すな

再建主義の富井氏がそのとおりのことを書いておられる。今週の私のメッセとも関係するので紹介しておこう。

tomi 2015/10/18(日) 20:12

「被造物をいっさい恐れません」と宣言してほしい 「悪霊に憑依されることなんてあるわけない。」と思うかもしれない。 しかし、心に隙があれば、入る。 ヘビメタを聞いても入る。 昔、ロックをやっていたのでわかるが、バンド練習が終わるとものすごく疲れる。 その疲れ方が、スポーツの練習をやった疲れとまったく違う。 いや~な疲れ方なのだ。 ヘビメタを聞いてから、ずっと気持ちが晴れないということがないだろうか。 いつも気持ちが重いとか。 うつ状態にあるとか。 悪霊が入っている可能性がある。

「イエス・キリストの御名により、私のうちにいる悪霊どもよ、縛る。そして底知れぬところに行け。蓋を閉め、封印する」と祈ると軽くなる。 ただし、半信半疑でやらないこと。 かえって悪霊どもがバカにして、悪化することがある。 確信を持ち、疑わずに祈ることである。 とにかく恐れとか自信のなさが一番の敵である。 弱気になるといじめてくる。 悪霊は基本、いじめっ子なのである。 信仰がないもの、信仰が弱いものを見つけては、いじめて喜ぶ。 幽霊を怖がる人には幽霊が現れる。 人を恐れる人のところに、いじめる人が現れる。 やくざは相手が怖がっていると、よけいに脅しにくる。

「神以外の存在、つまり、被造物をいっさい恐れません」と宣言してほしい。 このことを宣言し、毎日、自分があらゆる被造物に対して強気になる訓練をしてほしい。 そうすれば、恐怖の奴隷にしようとする悪霊、そして、その悪霊に憑依された人間は現れない。

心にスキマを作らないこと。御言葉を疑うことは致命的。新神学とか、高等批評とか、近代主義とか、神の言葉を人間のオツムでアレコレ。どうぞ私の心に入ってきてください、と敵に許可を宣言するようなものだ。

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