神の国はロゴスにではなく、デゥナミスにある
キリスト教という業界ではしばしば不毛な神学論争なるものが展開される。有名どころでは「カルヴァン主義対アルミニウス主義」とか、半ペラギウス主 義がどうのこうの・・・とか。はあ、自然科学系の小生にとってはほとんど小学生の言い合いとしか・・・、あ、怒られるなぁ・・・。
これ、佐藤優氏も言っているが、認識論の問題に過ぎない。リアリティーのモデルがいわゆるセオリーであって、この図にあるようにリンゴが落ちるというリア リティーを、いかに落ちるか、つまり時間と空間の関係式で記述したものがニュートンの運動方程式であり、引力の法則だ。その数式をいじくるのがいわゆる理 論物理学者。リアリティーにタッチしてあれこれ実験するのが実験物理学者。いずれにしろ、彼らは物理的サブスタンスを対象としている。
人文系になると人間の精神活動などを対象とし、社会科学系は社会システムを対象とする。これらはわれわれの体の五感と魂(知・情・意)で観測できる領域にすぎない。
対して聖書が対象とするのは霊的領域であり、霊的サブスタンスである。その領域にもニュートンの発見した自然界と同様の霊的法則がある。ローマ書やガラテ ヤ書にくわしいが、その法則を知ることはひとつのこと。その法則を使う、あるいは法則に従うことは別のことだ。物理の運動法則を極めた天才的物理学者で も、体操選手のようにE難度の実技ができるとは限らない。
ロゴスの世界を抜けて、リアリティーにタッチすること。霊的サブスタンスをゲットすること。これがフェイス。まことに
今、フェイスとは願うことのサブスタンス、見えないことの立証である。ヘブル書11章1節
わけのわからないナントカ神学やカントカ神学を極めたところで、実技ができなければ無意味。理論物理学者は実験できなくても食っていけるが、フェイスはサ ブスタンスをゲットしなければ絵に描いた餅、まったくナンセンス。パリサイ人などはリクツの世界の住人に過ぎなかったが、ジーザスは神の国の実践者だった のだ。だから彼らは嫉妬した。ジーザスは神の国をこの物理手時空間、五感の領域においてデモンストレーションしたからだ。まことに
神の国は言(ロゴス)の中ではなく、力(デュナミス)にある。-1コリント4章20節
オツムからのエクソダス。それはナチュラル・マインドを脱ぎ捨てること。かくしてパウロは奨めている:
むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され・・・ローマ書12章2節(岩波訳)
マインドのメタモルフォーシス(再構成)が必要となるのだ。聖書をナチュラル・マインドで読む限り、神の国はあなたの、そして私のものとはならない。まこ とにマインドの取り扱いこそが、神の国を味わうカギなのだ! クリスチャンはすでにキリストのマインドを有しているのだから、それがナチュラル・マインド によって阻害されなければ、その可能性は無限。ジーザスは言った
信じる者はわたしと同じわざをし、さらに大いなるわざをする。わたしが父のもとに行くからである。-ヨハネ14章12節
WOW! 物理的時空間を超え、その因果関係や自然法則を超越するフェイスにはすべてが可能なのだ! これがわれわれの有するポテンシャルだ。