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Tag: デュナミス

神の国は言葉(ロゴス)にではなく、力(デュナミス)にある

いわゆる神学議論や聖書解釈論議など、ああでもない、こーでもない、という時代は終わっている。ジーザスが神学論を唱えたことなど一度もない。彼は愛によって働くフェイス(Gal 5:6)をデモンストレーションされた。正統神学とか教義とか、まあ、ケンケンガクガクやりたい人たちはご自由にだが、フェイスは行いによって完成される。今はデモンストレーションの時代。永遠のNOWを今、ここに現出させること。それは霊的領域のサブスタンス、神の霊のバイブレーションをフェイスによって実体化し、この時空間に現像・焼き付けすることだ。まことに―

わたしを信じる者はわたしと同じわざを行い、さらに大いなるわざを行う。わたしが父の元に行くからである。わたしの名によって求めるものは、何でもわたしがかなえてあげよう。―ヨハネ14:12

「敵」を祝福すると・・・

昨日の兄弟姉妹の証。ある事件で相手の罪が原因であるにもかかわらず、相手は訴訟に訴えてきた。彼らは追い詰められた。さて、どうするか?・・・相手を祝福したのだ。すると・・・これが実に痛快なのだが、まだ進行中ゆえ、ここまで。

曹操は言った:敵に怒るな、目が見えなくなる;敵を憎むな、判断が狂う。ジーザスは言われた、自分を呪う者を祝福せよ。これは神のパワー、デュナミスを解き放つ。すると人間的にはあり得ないことが起きる。天の法廷ではすでに判決が降りた。相手も真の悔い改めによって主に立ち返ることでしょう。

Glory to God!!!

砕かれるべきは偽りの要塞

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自己を否み~、自我を砕きぃ~。これもクルシチャン症候群を発症する宗教マトリックス。自我を砕いてどうするの? WW2時には日本基督教団は、自分の十字架を負いて、自己を否んで八紘一宇に邁進すべし、とアジったのだ。

砕かれるべきは何気に刷り込まれ、マインドに巣くっている御言葉に反する偽りの思い・考え・価値観・神像や自己像など。それは要塞。偽りこそが敵の策略であると知るべきなのだ。

ただ、困ったことは、すでに聖書自体があまり信用できないこと。今の邦語訳はたいていアレキサンドリア系、特にウエスコット・ホースト版は意図的に改ざん されている。まあ、邦語訳は写本の問題以前に訳が恣意的。間違った訳の上に乗せられて、あーでもない、こーでもないと聖書を弄り回しているのが現状。まこ とに、お疲れさま~だ。

神の国は言葉(ロゴス)にではなく、力(デゥナミス)のうちにある。―1Cor 4:20

今必要なのはデゥナミスのデモンストレーション。ジーザスがなしたように! オツムの空転的「信仰」から解放されよ!

神の国はロゴスにではなく、デゥナミスにある

キリスト教という業界ではしばしば不毛な神学論争なるものが展開される。有名どころでは「カルヴァン主義対アルミニウス主義」とか、半ペラギウス主 義がどうのこうの・・・とか。はあ、自然科学系の小生にとってはほとんど小学生の言い合いとしか・・・、あ、怒られるなぁ・・・。

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これ、佐藤優氏も言っているが、認識論の問題に過ぎない。リアリティーのモデルがいわゆるセオリーであって、この図にあるようにリンゴが落ちるというリア リティーを、いかに落ちるか、つまり時間と空間の関係式で記述したものがニュートンの運動方程式であり、引力の法則だ。その数式をいじくるのがいわゆる理 論物理学者。リアリティーにタッチしてあれこれ実験するのが実験物理学者。いずれにしろ、彼らは物理的サブスタンスを対象としている。

人文系になると人間の精神活動などを対象とし、社会科学系は社会システムを対象とする。これらはわれわれの体の五感と魂(知・情・意)で観測できる領域にすぎない。

対して聖書が対象とするのは霊的領域であり、霊的サブスタンスである。その領域にもニュートンの発見した自然界と同様の霊的法則がある。ローマ書やガラテ ヤ書にくわしいが、その法則を知ることはひとつのこと。その法則を使う、あるいは法則に従うことは別のことだ。物理の運動法則を極めた天才的物理学者で も、体操選手のようにE難度の実技ができるとは限らない。

ロゴスの世界を抜けて、リアリティーにタッチすること。霊的サブスタンスをゲットすること。これがフェイス。まことに

今、フェイスとは願うことのサブスタンス、見えないことの立証である。ヘブル書11章1節

わけのわからないナントカ神学やカントカ神学を極めたところで、実技ができなければ無意味。理論物理学者は実験できなくても食っていけるが、フェイスはサ ブスタンスをゲットしなければ絵に描いた餅、まったくナンセンス。パリサイ人などはリクツの世界の住人に過ぎなかったが、ジーザスは神の国の実践者だった のだ。だから彼らは嫉妬した。ジーザスは神の国をこの物理手時空間、五感の領域においてデモンストレーションしたからだ。まことに

神の国は言(ロゴス)の中ではなく、力(デュナミス)にある。-1コリント4章20節

オツムからのエクソダス。それはナチュラル・マインドを脱ぎ捨てること。かくしてパウロは奨めている:

むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され・・・ローマ書12章2節(岩波訳)

マインドのメタモルフォーシス(再構成)が必要となるのだ。聖書をナチュラル・マインドで読む限り、神の国はあなたの、そして私のものとはならない。まこ とにマインドの取り扱いこそが、神の国を味わうカギなのだ! クリスチャンはすでにキリストのマインドを有しているのだから、それがナチュラル・マインド によって阻害されなければ、その可能性は無限。ジーザスは言った

信じる者はわたしと同じわざをし、さらに大いなるわざをする。わたしが父のもとに行くからである。-ヨハネ14章12節

WOW! 物理的時空間を超え、その因果関係や自然法則を超越するフェイスにはすべてが可能なのだ! これがわれわれの有するポテンシャルだ。

復活のデュナミスを味わえ!

メッセでも語ったが、イエスはラザロをよみがえらせるとき、すでに自分は復活であると宣言した(John 11:25)。はあ?イエスよ、あなたはまだ十字架についていないではありませんか?とナチュラルなマインドは考える。ノー!イエスはその後肉体をもって十字架につかれた。しかし神のサブスタンスとしてはすでに復活だったのだ!何度も言うが、フェイスは時空間を超える永遠のNOW!イエスはつねにフェイスによって生きていた。彼はクロノスではなく、カイロスに生きていたのだ。事実、

And all that dwell upon the earth shall worship him, whose names are not written in the book of life of the Lamb slain from the foundation of the world. -Rev 13:8

世界の基が置かれる時からほふられていた小羊の書に名の記されていない者は・・・が正解。いつも言うが日本語訳はよろしくない。世界の基が置かれる時にすでに小羊はほふられていたのだ!復活は別にイースターに起こったわけではない。それは単にイエスが肉体を持って復活された日であって、霊的リアリティーとしてはすでに彼は復活だったのだ!

私たちはそのキリストの死と復活に包括されて、死んで、復活した存在。これから未来において復活するのではない。すでに私たちも復活したのだ。Are you with me? その復活のパワー、デュナミスはどれほどのものであるかを知れとパウロは言う。デュナミスはダイナマイト、それは爆発するのだ!

また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。-Eph 1:19-21

われわれはこのキリストといっしょに天の座につかされているのだ(Eph 2:6)!まことにこれはスーパーナチュラル。そのデユナミスに与るカギは、自分を絶えず脱ぎ捨てること。脱皮だ。自分を大事大事している人は恐れの霊の餌食になる。おくびょうな者は神の国に入ることはできないのだ。

だから、古い人の会話を脱ぎ捨て、それは情欲の欺きによるものであり、思いの霊から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を着て、真理に基づいた義と真の聖なる生活を送るようにしなければなりません。-Eph 4:22-24(私訳)

情欲の欺きとは別に動物的欲求のことだけを言うのではない。先週のメッセでも語ったが、五感の欺きである。また邦語訳では「心の底から新たにされて」とあるが、これも違う。思いの霊が新たにされるである。われわれのマインドは霊から自立したがるが、そのマインドに霊が染み込むことを言うのだ。私たちのマインドは常に何か会話をしている。それが自分の言動に現れる。これが生き方である。つまりマインドに霊の浸透を受けて、そのアダム系の会話を改めることが新しい人を着ること。そのときキリストのマインドが私たちのマインドを支配するのだ。

正直に言うが、イースターを祭るって、ああ、この人は復活のパワーを知らないなあ、と分かってしまう。日々、瞬間瞬間が復活だ。それはスーパーナチュラルな五感を超えた世界の経験なのだ。WOW! そのとき、神のデュナミスをわれわれは経験する。それは内に仕掛けられたダイナマイト、スイッチを入れて自爆せよ!

 

マインドのパワー-ふたつの証-

昨日のセレブ後、二人の方の証を伺った。

Aさん-子供の頃から親などから、お前はアレルギー体質だから気をつけよと言われて育ち、つねにそれを意識してきた。幸いアレルギー反応は出ていなかった。ところが最近、あるきっかけで全身アレルギー反応が出て、呼吸困難まではいかなったが、救急車を呼ぼうかとさえ思った。原因がわからなかったが、ふと気がついたことがある。最近TVでアレルギーの解説を聞いて、何気にそれを受け入れ、無意識のうちにその内容に同意していたのだ。それを主の前で捨て去ったところ、反応は即座に消えた。

Bさん-家事をするときに手にアレルギー反応が出ることがよくあった。自分はそのような体質であると、自然とその事実を受け入れてきた。癒しを求めることすら考えなかった。最近、そのことに気がつき、家事をしているときに、ハッと騙されてきたことがわかった。そして自分は癒されたのがパッと見えた。すると反応は消失した。自分のアイデンティティーの一部としてそれに同意し、受け入れてきたことに気づき、マインドのロックが外れた瞬間がわかった。ああ、自分は欺かれていたのだ・・・・と。

これらの証を普通の医学的観点からは心因性アレルギー反応として診る。いわゆる精神身体医学的視点からの解釈である。が、これらをいかに解釈するにせよ、ふたりは自分が欺かれてきたことに気がつき、マインドのロックが外れると症状も消失したことは事実である。私も自分は花粉症であると30年近く信じ込んできた。それはごく自然なアレルギー体質として、自分のアイデンティティーの一部として構成されていたのだ。が、この3月、そのロックが外れた。事実はアレルギー体質かもしれない。が、真理は違う。十字架で主の打たれた傷により癒されたのだ。これはサブスタンス。永遠の、ある、だ。霊的サブスタンスは物質界と相互作用をする。否、物質界は神のレーマ、すなわち霊のバイブレーションによってフレーム化された(Heb 11:3)。それは弦、その神の言葉は響き。物理学でも超弦理論が唱えられる昨今、聖書はすでにそのことを指摘している(Ps 19:4)。

出エジプトの時代、モーセとエジプトのマジシャンたちは争った。彼らもしるし・不思議をなし得たのだ。霊的パワーの操作方法を知ると、それは現代でも起きる。たとえば、これらのビデオ。彼らは単なるトリックによるのか、それとも何か別の次元のパワーによるのか。最初の人物の目に注目して欲しい。

主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたをパロに対して神とする。あなたの兄弟アロンはあなたの預言者となるであろう。 ・・・」。モーセとアロンはそのように行った。すなわち主が彼らに命じられたように行った。彼らがパロと語った時、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。・・・それで、モーセとアロンはパロのところに行き、主の命じられたとおりにおこなった。すなわちアロンはそのつえを、パロとその家来たちの前に投げると、それはへびになった。そこでパロもまた知者と魔法使を召し寄せた。これらのエジプトの魔術師らもまた、その秘術をもって同じように行った。すなわち彼らは、おのおのそのつえを投げたが、それらはへびになった。しかし、アロンのつえは彼らのつえを、のみつくした。-Exo 7:1-12

どちらの側もフェイスによって行っている。ヘブル11章1節のフェイスの定義は定冠詞がない(Heb 11:1)。クリスチャンの信仰に限らないのだ。それはシックスセンス。この時空間、つまり五感を越える能力である。私もそうであったが、よくニッポンキリスト教で言われるセリフがある。サタンや悪霊もしるしや不思議や癒しをなし得るからそれらの現象については要注意だ。これ、実はしばしば言い訳というか弁明に用いられるのだ、自分の信仰の欠如の・・・。これは自分がそうであったゆえに証言できる。主は言われたであろう、「死者を生かし、病を癒し、悪霊を追い出し、らい病を清めよ!」と(Matt 10:8)。これは命令である。神の国のパワーを忘れた福音は単なる抜け殻。ましてやそれを神学で飾っても何の役に立たないであろう。自分の不信仰を悔い改める者は幸いである。

そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。 それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力(デュナミス)によるものとなるためであった。-1Cor 2:4-5

(注)霊が物質を動かしたりする現象をポルターガイスト現象と呼ぶ。欧米ではよく知られている。

アクティベーション(覚醒)の時

聖書を道徳、倫理、人生論、生き方論、古文書、歴史書、予言書などなど、いろいろな視点から捉えることができることは間違いない。が、それだけでは結局ポイントを外す。聖書はこの世のものではないのだ。つまり五感で理解できるものでは、本来ない。

しかし、聖書に書いてあるとおり、/「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、/人の心に思い浮びもしなかったことを、/神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」/のである。
・・・・
いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
・・・・
生れながらの魂の人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。-1Cor 2:9-14

魂は五感に服する。ゆえに、魂の機能である知性・感情・意志では理解できないのだ。私は今回の著書の中では明確に、信仰とはシックスセンスであると書いた。実は、これ、Meyerがへブル書11章1節の解説で指摘していた。彼は言う。

Faith is the sixth sense. It makes us as sure of unseen or future things, which we know about only through the divine Word, as we are of things which we can see and touch. When we are aware of the reality of these things, we naturally take them into account when we act.

さらに私はクリスチャンとは「霊の再生された者たち」、にとどまらず、新しい人類であり、ニュー・クリーチャーであり、ネオ・ホモ・サピエンスであると書いた。これについてはいろいろと刺激されて、キリスト教の業界においては物を言いたくてウズウズする人々が出るであろうと思っている。なんとか神学や、かんとか主義とかでオツムが凝り固まった人々は、まず自分のマインド・セットあるいはブリーフ・システムを防御する姿勢が先立つからだ。

今回は業界はまったく対象として考えていない。聖書を何も知らない人々に御言葉で直球勝負してみたいのだ。三つの出版社の編集者たちの感想は、かなりグッド。いわく、「日本人にとって聖書はほとんど未知の領域。解説本は山ほどあるが、どれも結局は何を言う書物なのか、分からない。ほとんど聖書を理解することは諦めているのが普通の日本人であろう。が、聖書の芯が見えた」と。白紙のオツムは幸いだ*1

聖書は、宗教の本ではない。生命現象の本なのだ。われわれはネオ・ホモ・サピエンス。そのうちには神の国が存在し、キリストを甦らせたデュナミスが宿っている。この力を経験的に見出すこと(Eph 1:18-19)。先に紹介した映画『ルーシー』と同様の経験をする存在がクリスチャンなのだ。クリスチャンが覚醒すること。アクティベーションだ。これはサタンにとっては脅威であろう。だから、セルフの中に眠らせておきたいのだ。そしてサタンはこれまでそれに成功してきている。しかし、時はかなり煮詰まっている。この終末の時代、覚醒できない者は容易に世の中に飲み込まれていくであろう。

*1:『不思議なキリスト教』なるポイントを外した本が、内容に初歩的な誤りだらけであるにも関わらず、30万部を突破することから、理解したいというニーズはあるのだろう。

デュナミスの現れ

昨晩、あるご婦人からコールを受けた。この方はガンで余命二年と診断を受けたとのこと。いろいろとお話をされだしたが、今までの経験から話を聞き過ぎるとそれに飲み込まれて、信仰を用いることができなくなる。そこで話を強引に打ち切り、「イエスの名によって、ガン細胞を呪う。ただちに腐れ落ちよ!」と一言二言、命じた。何か手応えがあった感じで、内側でケリがついたと分かった。理由は不明、ただ分かった。

で、本日、セレブから帰ると自宅に報告があったとのこと。いわく、患部を覆っていた醜いガン組織がはがれ落ちて、痛みも消えたと。小生の反応、「マジかよ!?」。一応、東大の医学博士号(こんなものは霊の世界ではなんの役にも立たないがアッカンベー)を持つ者としてこの手の話は眉に唾をつける習慣があるのだ。が、今回の当事者は自分だ。実は、自分の耳や足の麻痺、花粉症の癒しも「ホントかよ・・・」が正直な感想だったのだ。うーん、何か実感がわかず、人ごとのような感じなのだ。

今、テレビで『ベン・ハー』を放映していた。主イエスの血が流れることにより癩病が癒される。そう、天のサブスタンスが地に現出するのだ。それは私がどうのこうのとは関係ない。天のリアリティだから。自分が成長しているとか、まったく関係ない。ただ御言葉に従えばよろしい。今、私たちはこのことをリアルに見ている。

GLORY BE TO GOD!

追記:本日ある御夫妻が見えられ、メッセージも入門的な内容になった。彼らの証が素晴らしかった。奥様はずっといわゆる教会を離れていたが、私たちのPodcastを聞いて、何でも神に祈れと語られて、祈ったと。するとご主人のフランスでのビジネスの道が、まったく予期しないあり方で開かれたとのこと。私たち神様に見放されていなかったんだと証してくださった。神はジェホバ・ジレ(ジャイラ)、備え主。主の山に備えありだ。彼らのビジネスが大いに繁栄しますように!

結局はマインドの構成の問題

クリスチャンの間で聖書解釈に致命的な違いが出ることがある。一番典型的なのが、プレミレとポストミレだ。イエスの再臨が千年期の前か後か。つまり現在が千年期なのか、否か。これはかなり本質的な相違だ。なぜ同じ聖書を読んでいて、かくも真反対の意見の対立が生まれるのか・・・。実に不思議だ。

が、極めれば、マインドの構成のあり方の差に帰着するのだ。われわれのマインドがいかなるパラダイムにより、いかなるデータベースを構築し、いかなる物差しによって物事を測るのか。これにより感情が影響され、意志決定がなれる。同じ事態に立ち至っても、人によって行動がまちまちになるのだ。もし神の国の直接的介入を信じていなければ、ステージ4のガンになれば、ほとんど絶望だ。死を少しでも伸ばして、そのときを待つのみとなる。しかし神の国の介入を信じる者はステージ4のガンをも支配できる。

神は言われた、「地を治めよ」と(Gen 1:28)。「地」とはこの物質空間のことだ。最初のアダムはその権威を失ったが、最後のアダム(キリスト)はそれを終わらせ、第二の人イエスは天と地のあらゆる権威を得た。そのキリストのうちに私たちは置かれ、またキリストは私たちのうちにいます。神の国はロゴスにではなく、デゥナミスにある(1Cor 4:20)。その復活の力(デュナミス)がわれわれのうちに働くのだ(Eph 1:19-20)!神の国はすでに、今、ここに、現存する。私たちはそのリアリティーあるいはサブスタンスのうちに生きているのだ。そしてこれが私たちを通して流れ出るならば、私たちの行くところどこでも神の国が臨在するようになる。キリストはそのことをエクレシアに託されたのだ(Eph 1:21-23)。

神の国の現出があるところでは、ハンカチに触れただけで、あるいは影に触れるだけであらゆる病が癒され、悪霊が追い出された(Acts 5:15;19:12)。クリスチャンたちがそろそろ言葉遊びはやめて、真にこの神の国のデュナミスを追求し、それを証明するべき時が来ていると最近深く感じている。マインドが異なる者同士がいかに議論したところで、同じ結論になるはずもない。再度、神の国はロゴスにではなく、デュナミスのうちにある。その証はサタンにとってはもっとも恐るべきこと。だからクリスチャンをして不毛な議論に閉じ込めておこうとするのだ。その力の現れこそ、終わりの時代に生きるわれわれの召命の本質である。

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