Dr.Lukeの一言映画評
- 2016/10/22 17:24
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:映画, 信仰
- Tag:日常
うーん、いったい彼のブレインはいかなる構造になっているのか。論理の連鎖で定理にたどり着くのではない、ただ見えるのだ。数式は絵みたいなもの、またナマギーリ女神が舌の上においてくれると・・・。そして美しいと。
対するハーディ教授は証明できないものは信じないとする典型的無神論者。だが彼は、ラマヌジャンの神は信じないが、友情のゆえに彼自身を信じると。それも証明できるわけではないのだが。
さらに定理や公式は作り出すものではなく、すでに存在するものであり、それをラマヌジャンのような頭脳が発見するのであろうと。まさにそのとおり。ちなみに仏師も言う、木を彫って仏を造るのではなく、木の中に埋もれている仏を掘り出すのだ、と。そして極めつけは、愛は証明できないが・・・と。
では、誰がどこにそのような愛や美や真理を備えたのか。そもそもフェイスに証明は不要。わかるからわかる。I know that I know. 数学とフェイスは紙一重のところにあるのだ。
ちなみに前に聖書の創世記1章1節とヨハネ福音書1章1節にそれぞれπとeが埋もれていることを紹介したが(⇒http://www.dr-luke.com/freo/view/20160718145146)、まことに聖書の数字もかなりディープの意味を持つのだ。例えば、取れた魚が153匹とか。この数字も数学的には実に深い。いや、単なるグーゼンでしょ、グーゼン。これがほとんどのニッポン人の反応であろうが・・・。
しかし、いつも思うが、天才の人生はなぜかくも不幸なのだろうか・・・。
追記:私も見えることがある(⇒http://www.dr-luke.com/diarypro/archives/2141.html)。それは理屈を超える。