同意と拒絶
- 2015/06/18 20:49
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:真理, 偽り, ソウル・タイ
私がある種の発言にこだわる理由はこうだ。よくクリスチャンは自分の体験や聖書の解き明かしを"分かち合う"。特に自分は聖書を深く理解し、解き明かしすることができると思っている人々は、その自分の感性やコモンセンスをモノサシとしている。が、これが罠なのだ。
例えば、癒しは今日は神はなさらないとか、サタンに立ち向かうことは物事をかえって複雑にするとか、その人の体験から生まれた発言は、はっきりと言う、偽りだ。御言葉は明確にイエスの傷により私たちは癒されたとあり、サタンに立ち向えと書いてある。真の信仰の働くとき、癒しは必ず起きる。なぜ?信仰はサブスタンスだから。また当然、いじっ子に立ち向かうのだ。なぜ?そこに働く霊はあの者の霊だから。
それぞれの体験を尊重し、それぞれの証を無条件に受け入れることは尤もらしいが、クリスチャンの交わりではない。そもそも証って何?逆に実にリスクをはらんでいる。偽りに同意することを意味するからだ。同意すれば、その実は当然に刈り取ることになる。真理はいろいろとか、それぞれの理解の仕方があるとか、いろいろと人は自己弁護をする。まあ、そのように思う人々はどうぞ、互いに受け入れ合えば良い。私は偽りは明確に拒絶する。私たちの言葉は、しかりか、否か。グレーゾーンはない!
人間として親しくしているとか、おもしろい人だからとか、そのようなものは魂レベルの関係であり、ソウル・タイなのだ。主は父や母を自分より愛する者は神の国にふさわしくないと言われた。イエスとその御言葉よりも尊重されるべき人間関係は不健全なソウル・タイである。私たちの生と死は私たちの口による。特に何気ない会話、あるいは親しい関係における会話はきわめて危険であると、最近特に感じている。
私たちは何をどう聞くか、そして何に同意し、何を拒絶するか、それが私たちの霊的歩みを決定するのだ。