聖書の世界と漢詩の世界:バイブレーションの共鳴

頬を刺す空気の冷たさ、実に気持ちがイイ✨五感の刺激が魂に共鳴する時、漢詩を詠みたくなる。そう、自然の美しさや神秘に触れる時に、私の内には何らかの感動が起こり、それを表現したくなるのだ。音楽家は音楽で、絵描きは絵画という媒体を用いてその感動を表現する。

さて、この際に一つの罠があるのだ。つまり私は日本人故、日本語の世界観、あるいは日本語にまつわる価値観や、日本語の意味論や統語論に従って漢詩を作ろうとしてしまうのだ。この時、はっきり言うと漢詩は作れないし、見かけ上漢字をならべても、意味は通じるかもしれないが、それはJapalishと同様の和臭のするものとなってしまう。

つまりソレは日本語に従ってその感動を表現しただけ、漢詩ではないのだ。しかし、初心者である私にも、漢語がピタッとハマル瞬間は、私が漢語の世界に入れたと分かるのだ。漢語の世界観に従って、私の内なる感動を表現し得た時、何とも言えない解放感を覚える。これが芸術家ではない私が言うのはおこがましいが、創作の喜びかも知れない。

今、私が言いたいことは分かると思う。ここで何度も何度も指摘してきたが、聖書の真理を日本語の世界観や価値観で理解してはならないのだ。たとえばよくニッポンキ業界で言われる「ありのままのあなたが高価で尊い」も、まことにニッポンキリスト教臭のするシロモノ、世界ではとても通用する代物ではない[1] … Continue reading。あくまでも日本語的世界観からの産物なのだ。この意味で、新約聖書を理解するためには旧約聖書の世界の具体例が必要であり、旧約聖書を理解するためには新約聖書の世界の霊的光を必要とする[2] … Continue reading

すなわち、旧約のレビ系の祭司制度は新約のメルキゼデク系祭司制度の型であり、その本体はキリスト御自身なのだから(Heb 10:1)。本人を紹介する履歴書が旧約聖書、本人の到来が新約聖書の世界だ。例えば幕屋はキリストの絵であり、私たち自身の絵でもある。祭司の仕事はキリストの御業の型であり新約の私たちの奉仕の型でもある。旧約のイスラエルの歴史はキリストの到来までの歴史であり、新約の私たちの個人的な霊的経験のタイプである[3] … Continue reading旧約聖書も新約聖書もその理解においては日本語の価値観を用いてはならない。もちろんこれは他の国語でも同じ。霊の事は霊の言葉によるべきなのだ

神はこれを、霊によって私たちに啓示されたのです。霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の霊のほかにはだれも知りません。
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、霊に教えられたことばを用います。その霊のことばをもって霊のことを解くのです
魂的な(原語)人間は、神の霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、霊のことは霊によってわきまえるものだからです。
霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの思い(原語)があるのです。-1Cor 2:10-16

魂(Soul)は知・情・意からなるが、これらは私たちであれば日本語の世界に特徴づけられ、束縛された日本人性に汚染されている。よって魂的によって真理はつかめないのだ。漢詩を作るためには漢語の世界に入る必要があるように、霊的真理を理解するためには霊の世界に入る必要がある。これが御言葉による霊と魂の切り分けである。

この故に私たちは魂を否む必要があるのだ。それは魂の機能を停止するのではない。そう自分勝手に曲解して自滅する者がいるが、愚かなものだ。魂は霊に服する時、その元々の機能を発揮し得るのだから。魂は霊から自立するものではないが、これが自立する時、パウロは「肉(flesh)」と呼ぶ[4] … Continue reading。サタンはクリスチャンがこの霊と魂の違いに目覚めることを最も恐れているようだ。昨今のネットにおけるこの点に対する敵の狂気の入った攻撃の異常さを見れば明らかであろう。敵はクリスチャンを「ありのまま」に寝かしておきたいのだ(苦笑)

私たちの魂(精神)は言葉の体系から構成されている。日本語の体系で構成された私たちの生まれながらの魂は、霊の世界の御言葉の体系で再構成されていく(Rom 12:1-2)。これが神学の言葉を弄すれば、聖化である。それは「清く・正しく・貧しく」といった宗教ではない。むしろ漢詩ができるときに味わうあの自由と解放感をもたらすものなのだ。真理はあなたがたを自由にするのだから。

それは自分の魂からの解放、日本人性からの解放、究極にはこの旧い体からの解放をもたらす。それはすでに成し遂げられている十字架におけるキリストと共なる旧い私の死の現在における実体化であり、キリストの復活の現在における実体化でもある[5]信仰とは見えない霊的事実の実体化である(Heb 11:1)。死と復活の原則によりこの復活のいのちに生きることが旧約の聖徒が切望した私たちの特権なのだ。ヘブル11章の最後をよく読まれたい。信仰の巨人や偉人がリストされた後、筆者はこう結論している:

この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした
神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。-Heb 11:39-40

何と言うこと!あの旧約聖書の信仰の偉人たちが得なかったものを私たちが得るとは!神よ、あなたは何ということをなされるお方なのでしょうか!

GLORY BE TO GOD!!!

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1 旧い自己を正当化し、弁護するためのものであり、自己憐憫に満ちた病んだ心から生まれたものである。それは窮極的には自分を”神”とするセルフ教の象徴である。本当にありのままで安息している人はあえて叫ぶまでもないだろうに(苦笑)
2 真理そのものは言語を超える。例えば万有引力の法則は日本語で表現しようと英語で表現しようと同一である。言語はある個物や事実や道理を指し示す媒体に他ならない。しかし言葉に霊が乗るとそれはパワーを帯び、光といのちとをもたらす(John 6:63)。
3 主の再臨や携挙の時期についても、ユダヤの祭りとの関連で見る必要があることはすでに10年以上前から指摘している。2011,2014,2019年などはダニエル書の最後の7年の開始時期としての条件を満たすことも指摘している。中でも2014年は面白いことも。
4 それは別にこの肉体自身だけのことではない。霊か肉かの二元論志向はグノーシスであるする向きもあるが、彼らはそもそもパウロの肉の定義を知らない、愚かなものである。
5 信仰とは見えない霊的事実の実体化である(Heb 11:1)。

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