聖書を日本語マトリックスから解放せよ
2020-02-12
極私的にはemunah;pistisなども、「信じて仰ぐ」と考えて、「信仰」にしたのだろうと推測する。これでニッポンキリスト教が作られたのだ。これでは「Yahawehのpistis」や「御子のフェイス」などは意味不明となる。なんで神(これもエロヒムに当てはめているが見当はずれだが)が信仰を?とか言い出すであろう。
emunahにせよ、pistisにせよ、そのようなオリジナルな意味はない。それはシックスセンスであり、spiritの作用だからだ。既成の概念にはないのだ。
そもそもニッポンキ業界では霊(pneuma)と魂(pshche)、さらには心(kardia)の区別さえないわけで、そこで「信仰にハゲメー!」とかやり出すわけ。だいたい、「霊と魂の分離」などは僕くらいしか語っていない。あるイケイケ系ボクシなどは「ジーザスは魂のロッカーだあ!」とか言い出す始末。嗚呼。
これで延々とお偉いセンセイたちがリバイバルを夢想しつつ伝道に励んでこの業界を建て上げてきた。が、多分、キリストの御座の裁きでは木・草・藁とされるであろう。一言、ハマルティアだから。
言語マトリックスを抜けた者は幸いである。
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