再建主義者による批判はストローマンの手法である

しかし、私にとって、前千年王国説と無千年王国説は「意図的な不忠実」に見える。

1.前千年王国説

前千年王国説は「再臨までの間、全世界が平和と正義に支配され、キリストが王として地上を統治する期間は到来しない」と考える。

これは「地を従えよ」「すべての国民をわたしの弟子とせよ」の命令と矛盾する。

前千年王国説は「再臨までの間、全世界が平和と正義に支配され、キリストが王として地上を統治する期間は到来しない」と考えてはいない。「完全には現れていない」と言えば正確である。キリストはすでに王であり、われわれを通してその統治を実現させる。これはすべてフェイスによる。その御業はこれから私たちの何かによって達成されるものではなく、すでに達成されていることである(☞フェイスの定義)。

もっとも神の業は天地創生の時以来完成されていたのである。-Heb 4:3

さらに富井氏は続ける-

さらに、「再臨がない限り、キリストが王として地上を統治する期間は到来しない」との教えは、サタンに対して隙を作る。

「再臨がない限り、キリストが王として地上を統治する期間は到来しない」などとは考えていない。キリストは今・ここで統治されている。

われわれの敵であるサタンは、われわれの信仰の「隙」をいつも狙っている。

われわれが不信仰な思いを抱き、不信仰な言葉を発するならば、サタンはそれに「すぐに」飛びつく。

彼は、われわれの不信仰な言動を利用して、われわれから力を奪おうとしている。

もしわれわれが主に対する信仰を堅く保っていれば、驚くような力を発揮する。

これはそのとおりである。この「隙」がいわゆる前千年王国説であるとするわけだが、その論理的つながりが不明。われわれはイエスにあってYahawehエロヒムが成し遂げられた霊の事実から目を離すことなく、その事実に従って生きている。

「再臨がなければ、どんなに努力しても無駄だ。反キリストによって世界政府を作られてしまう。これは聖書に記された運命なのだ」というような思想で、どうして勝利できるのだろうか。

前千年王国論者は、このような不信仰によって「すでに力を失っている」。

不信仰な彼らに対して、神の力を発揮することを期待できない。

「再臨がなければ、どんなに努力しても無駄だ。反キリストによって世界政府を作られてしまう。これは聖書に記された運命なのだ」といったことを誰が言っているのであろうか。反キリストにより世界政府が作られたとしても、なお、キリストが主であり、統治されている。

共産主義国の悪を見ても「他人事」である。

なぜならば「善と悪は同時並行で進む」と考えているからである。

積極的に悪と戦い、悪魔の勢力を滅ぼそうとしない。

「さあ、悪と戦おう。われわれは勝利するから!」というヨシュアとカレブの信仰を今日の教会に見ない。

明らかに「地の塩」の役割の放棄である。

前千年王国説も無千年王国説も、聖書の「勝利の信仰」と矛盾する教えなので、誤謬であると断言できる。

C国の不義については「他人事」とは思っていないし、常にC国の裁きを祈っている。「悪と積極的に高い、悪魔の勢力を滅ぼそうとしない」というより、すでに彼らは滅ぼされている。イエスが来られたのは、

神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。-1John 3:8

聖書の「勝利の信仰」とはそもそも何か?

なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。-1John 5:4-5

「勝利の信仰」があるわけではない。信仰(本当はフェイスといいたいが)が勝利なのだ。そして、勝利する者はイエスを神の子と信じる者である。別に世界統一政府があろうとなかろうと関係ないのだ。

われわれは終末論において、後千年王国説以外に正しい教えは存在しないと考える。

まあ、どう考えるのもそれは自由だが、「勝利」とか、「統治」の意味を限りなく考え違いしていると感じざるを得ない。富井氏はあの有名な尾山礼二牧師の教会の出身であるようだが、そこで聞いたいわゆる「プレ・ミレの教え」をプレ・ミレの教えとして理解しているのではなかろうか。それは本来のプレ・ミレの教えのストローマン(藁人形)であるのだが。

何よりも現経綸においては、神の国はわれわれの内側にあるものであり、それを拡大・増殖すること、すなわちエロヒムの増殖こそが福音である。このエロヒムの領域においてまずYahawehエロヒムのいのちによる統治が実施され、周囲に平安と喜びとともに拡大する。そして次の経綸でジーザスご自身がこの地上に御国を物理的に設立されるのだ。われわれは今はまだ-

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。-1Cor 13:12

「そのときには」とはいつのことであろうか? 彼の論のすべてのスタートは「ゲネア」の解釈である。これを30-40年の物理的期間とすることから無理な解釈が生じるのだ(☞ゲネアについてはこちらを)。こうして人生をあるドグマに入れ込むと先に行くほどにズレが大きくなる。まことに罪の原語はハマルティア、その意味は「的外れ」である。

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