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律法はバージョンUPされて超民族化されたと再建主義者

富井氏とDr.Lukeの聖書理解の違いのシェーマ

新約時代において「祭司が変化した」ので「律法も変化した」。 祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません(ヘブル7・12)

今日祭司は「キリストとクリスチャン」である。

ユダ族のイエス・キリストは大祭司である。 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、(ヘブル9・11)

旧約時代、大祭司はレビ族に限定されていたが、新約時代そのような縛りは存在しない。

クリスチャンは祭司である。 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(1ペテロ2・9)

このように祭司制度が変化したので、律法も変化した。

古代ユダヤに特有の民族的・時代的性格は取り除かれ、普遍化された。


なぜならば、大宣教命令において「全民族の弟子化」が命令されているからである。 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、(マタイ28・19)

ここで「あらゆる国の人々」と訳されている原語はパンタ・タ・エスネーであり「すべての民族」である。

それゆえ、安息日も「すべての民族」が守れるように普遍化されなければならない。

祭司制度が変わった―まことに同意できる主張であり、事実、聖書がそう語っている。ところが、下線部は、いつもながら???である。ヘブル7章を引用するのであれば、これを忘れてはならない。

そしてこの事は、メルキゼデクと同様な、ほかの祭司が立てられたことによって、ますます明白になる。 彼は、肉につける戒めの律法によらないで、朽ちることのないいのちの力によって立てられたのである。 
それについては、聖書に「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」とあかしされている。 
Heb 7:18  このようにして、一方では、前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、(律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。-Heb 7:15-19

7章はレビ系に対してメルキゼデク系が優位にある事を論証する。アブラハムの腰の中にレビはいたが、その時にアブラハムはメルキゼデクに十分の一の捧げものをし、彼の祝福を受けている。つまりレビもメルキゼデクに捧げ、また祝福を受けた。祝福は大なる者が小なる者に与えるもの、ゆえに「メルキゼデク>レビ」と論証している(Heb 7:1-10)。

そしてそのメルキゼデク系祭司として、イエスは律法ではなく、いのちの力によって立てられた律法は弱くかつ無益であったために、無効となったと明言されている! 富井氏がここをもし読んでいないとすれば、まさに認知の選択的透過性と言える。

彼は祭司制度の変更は認め、律法の変更も認めるが、その意味は「古代ユダヤに特有の民族的・時代的性格は取り除かれ、普遍化された」ということ。ゆえにモーセ律法を今日も適用すべしとするのだ。

今、モーセ律法は廃止されたが、その動機はYHWHエロヒムの愛であり、律法自体は聖なるものであり、良いものであるが(Rom 7:14;16)、いのち(Zoe)を与えることがない(Gal 3:21)。

Is the law then against the promises of God? God forbid: for if there had been a law given which could have given life, verily righteousness should have been by the law. -Gal 3:21

ここは仮定法で訳されている。つまり、いのちを与えることができなかったのだかくして新約においては、いのちを与える霊となられたキリストご自身が聖霊により私たちの霊のうちで(1Cor 15:45)、私のいのちとなってくださる(Col 3:4)。このときに愛によって働く新しい律法がいのちの御霊の法則である(Rom 8:2)。そしてこれはモーセ律法の上位互換、つまり

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。-Rom 8:2-4

お分かりであろうか?かつPCはMS-DOSの時代があった。真っ黒な画面にコマンドを打ち込んでワープロなどを使った。よってコマンドを正確に覚えていなかったり、タイプミスするとアウト。神経を使ったものだ。

が、Windows95の時代になり、MS-DOSはその中に吸収された。Windowsのアイコンをクリックするだけでワープロが使えた。コマンドは不要。このとき、意識しなくてもMS-DOSも作動している。時にはDOS窓を開くとMS-DOSも使える。

モーセ律法といのちの御霊の法則の関係も同様である。これが私の言う、いのちの御霊の法則はモーセ律法の上位互換であるの意味である。事実、時にパウロも律法を引用しているが、これはWindowsでMS-DOSを使うのと同様である。よって私は無律法主義を唱えているのではない。

これはかつて富井氏と議論したときの記録が残っているので、関心のある方は参照されたい。ちなみに彼もこの議論を機に「上位互換」なる用語を使い出したと記憶している。その意味はまったく違うが・・・。

かくのごとく、一度あるドグマにハマると、聖書の読みも選択的になり、自分の脳内マトリックスに不適当なものは自ずと排除することになる。これを認知的不協和最小化の法則と言う。不適当なものは心理的に不快感を生じる。それを最小化するためには、人は、自分のマインドを守るため情報を選択する(認知の選択透過性)、あるいは自分自身のマインドを変える。もちろん、私たちが取るべき態度は・・・。

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