時間はイリュージョンである@アインシュタイン

この記事はおもしろい。われわれは常に時間を意識、時間に追われていると感じている。だが、現代物理学の最前線では時間は幻想であると言う。過去・現在・未来は共にあるのだ。

われわれのフェイスも時空間を超える永遠のNOW。創世記の「はじめに」は時間の端点だが[1]この「はじめに」はベレシート、その中に全福音がコード化されていることは著書でも紹介している(☞「初めに神は」の秘密@YouTube)。、ヨハネの「はじめに」は時空を超える。我々は世(時空連続体)にはいるが、イエシュアと同じに世のものではない(ヨハネ17:14)。このデュアリティを意識することが世に飲み込まれない秘訣。

キリスト教なども世に属する宗教にすぎない。エクレシアはキリストの充満(Eph 1:23)、エロヒムの増殖(Col 2:19)。それはフィジカルな時空間を超えるスピリチュアルな生命現象である。世で何かを達成しようとか、世で自分を建て上げようとか、もがくのはやめよ、それは病むだけだから。スピリチュアルなアイデンティティを確立すること。

この完成している永遠のスピリチュアルなリアリティーを<今・ここ>で実体化することこそがフェイスである。すなわちそれは永遠が時空間に切り込む瞬間ともいえる。

道元の時間論は前後ありといえども裁断せり。現在に生きること。これを鈴木大拙はやはり永遠が切り込むと表現している。ただし彼の永遠はわれわれの意味での永遠ではないが。意識の流れを言うのだ。さらさらと流れ、何物にも心を留めおくことのない状態である。心は何かに固着する時に煩悶するものだ。

ちなみに左脳の梗塞でその機能を失った脳科学者の体験についてはこちらを参照されたい。左脳はシーケンシャルであるが、右脳は一瞬ですべてを把握する。過去を悔い、未来を案ずるのは左脳のシーケンシャルな機能のためだ。この意味でフェイスするときには多分脳の機能にも何か特徴的な現象が出現するものと思われる。

かくして私たちがキリストのうちにインプラントされ、キリストがうちに生きる経験は、まさに<今・ここ>におけるリアリティーであり、それは永遠の領域において生きているともいえるのだ。なぜならキリストは今、いのちを与える霊として(1Cor 15:45)、<今・ここ>に介入してくださるからである(Gal 2:20)。

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1 この「はじめに」はベレシート、その中に全福音がコード化されていることは著書でも紹介している(☞「初めに神は」の秘密@YouTube)。

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