忌まわしきかな日本基督教団-白き墓とは分離せよ-

このポストは先のこの記事の続編として具体的事例を紹介する。天下のニッポンキリスト教の象徴たる日本基督教団の歴史である。

ここで主はあえてどんな野菜よりも大きくなると指摘する。考えてみよ、なぜあえてどんな野菜よりもと言われるのか。比較対象として野菜はまことにふさわしくない。なぜなら野菜は決して巨大化はしないからだ。ここで主が指摘されたいことは巨大な木へと変質することである。その木には鳥が安全な場所、つまり自己の生存の担保を求めて集まるのだ。John Darbyは次のようにコメントする:

That which had been sown as a grain of mustard-seed becomes a great tree; a symbol that represents a great power in the earth. The Assyrian, Pharaoh, Nebuchadnezzar, are set before us in the word as great trees. Such would be the form of the kingdom, which began in littleness through the word sown by the Lord, and afterwards by His disciples. That which this seed produced would gradually assume the form of a great power, making itself prominent on the earth, so that others would shelter themselves under it, as birds under the branches of a tree. This has, indeed, been the case.

We next find that it would not only be a great tree in the earth, but that the kingdom would be characterised as a system of doctrine, which would diffuse itself — a profession, which would enclose all it reached within its sphere of influence. The whole of the three measures would be leavened. I need not dwell here on the fact that the word leaven is always used in a bad sense by the sacred writers; but the Holy Ghost gives us to understand that it is not the regenerative power of the word in the heart of an individual, bringing him back to God; neither is it simply a power acting by outward strength, such as Pharaoh, Nebuchadnezzar, and the other great trees of scripture. But it is a system of doctrine that should characterise the mass, pervading it throughout. It is not faith properly so called, nor is it life. It is a religion; it is Christendom. A profession of doctrine, in hearts which will bear neither the truth nor God, connects itself always with corruption in the doctrine itself.

(DeepL訳)一粒のからし種として蒔かれたものが大樹となり、地上の大きな力を表す象徴となったのです。アッシリア、パロ、ネブカデネザルは、このみことばの中で、大きな木として私たちの前に描かれています。主が蒔かれ、その後弟子たちが蒔いた言葉によって、小さなうちに始まった王国は、そのような姿をしていることでしょう。この種が生み出すものは、次第に大きな力を持つようになり、地上で目立つようになり、他の人々は木の枝の下に鳥がいるように、その下に身を隠すようになる。実際、このようなことがあった。

次に、この王国は地上の大木となるだけでなく、教義の体系として特徴づけられ、それ自体が拡散し、その影響力の範囲内にあるすべてのものを取り囲む職業となることが分かる。3つの対策全体が澱んでしまうのです。しかし、聖霊は、澱という言葉が個人の心の中にあって、その人を神のもとに連れ戻す再生力ではないこと、ファラオやネブカドネザル、その他の聖書の巨木のように、単に外側の力によって作用する力ではないことを私たちに理解させてくれるのである。しかし、それは大衆を特徴づけるべき教義体系であり、大衆全体に浸透している。それは、いわゆる信仰でもなければ、生命でもない。それは宗教であり、キリスト教である。真理も神も信じない心で教義を公言することは、常に教義そのものの腐敗と結びついているのです。

まことにこの指摘通りのことがニッポンキリスト業界に起きたのだ。すなわち戦中の日本基督教団である。ちょっと調べればわかることだが、その欺瞞の度合いは唾棄すべきレベルである。以下、WIKIからの引用:

その始まりは伊勢神宮への参拝からだ―

・1941年:6月24日に、日本基督教団が成立する。11月24日附で宗教団体法に基づく宗教団体として文部大臣より認可。教派ごとに部を構成して11部制を採る。

・1942年:教団統理、富田満が伊勢神宮に参拝して日本基督教団の設立を報告し、発展を希願する。12月15日、第1回日本基督教団総会にて部制廃止、皇軍将兵に対する感謝を決議。

まさに自己欺瞞の極み、精神分裂病である。その主義はなんとこうある!(よくもまあ、ぬけぬけと言えるものだが)

公会主義(こうかいしゅぎ)とは、いかなるキリスト教の教派にも属さないキリスト教無教派の理念、理想。日本基督教団は公会主義を継承する唯一の団体である。

いやビックリ。これで柏手叩いて、主にある兄弟を官憲に売ったのだ。自己欺瞞の極致。そして日本基督教団統理富田満曰く、「われら天皇の臣民は自己を否み、自らの十字架を負うて八紘一宇、大東亜共栄圏の建設に邁進すべし」と。柏手を打つ。

忌まわしき教団、戦後はGHQにすり寄って生き延び、靖国反対、九条改正反対と左傾化して自己欺瞞を正当化し、種々の利権を得て今日に至る。天皇制廃止、靖国反対、平和憲法維持、九条改正反対と振り子が左へ振れた。自我分裂の典型的症例、根底にあるのは自己欺瞞。自己欺瞞を隠蔽するために表向きは「正義」を掲げ、同じことを繰り返す強迫反復に陥る。まさに白い墓である。対して異端であるエホバの証人などは自身の信条にあくまでも忠実であったため迫害を受けたのだ。

一応彼らの言い訳を聞いてあげましょう―

そもそもニコライ派(教団教職制度)はイエシュアが憎みかつ自ら戦うと言われる。彼らの立つところは恐るべき場なのだが、無視するか、自己正当化するか、真にメタノイアするかが問われるわけ。彼らはすでに主の裁きの元に置かれている。重々しいガウンをまとい、キリストの名を盾に講壇に立ち、自分勝手な説教をする度に主の裁きの燃える炭火を自らの頭の上に積む商売人が牧師なる連中だ。

まことに現在われわれが見ているニッポンキ業界(のみならず世界的にも)の光景は、世において大きな木へと変質し、邪悪な(特に動機において)鳥が自己のアイデンティティやプライド、そして生存の担保を求めて集まる光景そのものである。

だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。-Matt 23:8

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」-Mark 23:38-40

表向きの看板とその内実が見事に乖離している、まさに白く塗られた墓である。このふたつの絵がニッポンキリスト教の本質を表している。

岸田秀氏の指摘通り日本は自我分裂しているが、その集約的縮図がニッポンキ業界である。その病理については真のメシア・家シュアを否定して自己欺瞞に堕ちたユダヤ人と似ているが、詳細は私の論文を参照されたい。

現在、日本基督教団の牧師たちが嬉々としてワク接種を受けていることから、かつての事態が再現されるであろうことは容易に分かる。彼らは世との結婚(ペルガモ)により、世の価値観とシステムにはめ込まれているのだ。心ある兄弟姉妹よ、忌まわしき者からは自らを分離せよ。キ業界において分離主義者だとかラベルを貼られることは幸いである。なぜなら主はこう言われるからだ-

また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。-Rev 22:10-12

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