マーレー・クオート:”肉の卑しさこそ御霊が働く領域である”(エウセベイアの奥義)-1テモテ3:16

アンドリュー・マーレー:『キリストの御霊』第20章より


天地創造のみわざにおいて、神の霊は自ら暗黒と生命のない混沌とした事物をおおい、その生かす力によって、命と繁殖の力をお与えになりました。それらのものが神の霊によって生かされたのちにのみ、神の言葉はこれに形を与え、私たちが今見るような命と美の各様の形状を呼び出すことができたのです。

人間の創造においても同様で、地のちりによって造られた体の中に吹き入れられたのは霊であって、人はこれにより生きたもの(原語・魂)となりました。そのようにイエスの人格においても、その肉体は御霊の働きによって備えられ、御霊によってイエスのからだは再び墓の中からよみがえりました。

私たちにしても同様で、肉体は御霊によって神の宮とされ、キリストの肢体とされたのです、私たちは聖霊を、物質の弱さから遠くへだたった神的な存在とばかり考えやすく、その働きが自分で物質的なものと結合し、これを霊化し、完全な最高の型である霊体にまで至らせることであるのを忘れています。

御霊の働きについてのこの見解は、あがないの事実において彼が占めている位置を理解する上において重要です。このわざには聖三位一体の各位にそれぞれ定められた特別な位置があります。

御父においてはすべてのものの創造者である見えない神を知ることができます。

御子によって神は見える姿で現れて私たちに近づきました。イエスは神の姿なのです。

また、御霊によって私たちは内住の神を持つことができました。神の力が人のからだに宿り、そのうちに働いて、御父と御子が私たちのために持っているものを与えてくださるのです。

肉の弱さと卑しさ、そうです、肉の卑しさこそ御霊が働く領域です。個人ばかりでなく、教会全体としても、御父の定められたもの、御子の得てくださったものを肉に宿しているキリストの手足である者たちの中に実現するのは、ただ、聖霊の不断の仲介と活動によるのです。


まさにここに説かれていることは、敬虔の奥義である。

肉の卑しさこそ御霊が働く領域です-これはなんという憐れみ、恵み、そして励ましであろうか。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。-Phil 2:6-8

ゆえにこう招いてくださるのです:

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。-Heb 4:15-16

そしてこの究極の約束があります:

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。-Phil 3:21

今、私たちが経験することができる奥義は―

行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。敬虔の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、神(ビザンチン写本)は肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。-1Tim 3:15-16

文脈を見れば、「神の家=生ける神のエクレア」について語っており、その説明として、「敬虔の奥義」を定義しているのである。この「敬虔」と訳された単語は”eusebeia”であり、日本語で理解してはならない。聖句は聖句で定義すること。すなわち、エクレシアとは敬虔の奥義であり、神が肉において現れることである[1] … Continue reading

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1 原文は関係代名詞で受けている。ここを「キリストは」とするアレキサンドリア系写本は、この奥義を理解することができなかったため、改変したと思われる。

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