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本日の一冊

ファイル 424-1.jpg三島由紀夫とアンドレ・マルロー』。う~ん、これは一気に読んでしまった。三島由紀夫アンドレ・マルロー。社会との関わりでは対比的なこの二人の取り合わせが面白いが、時代はニッポンとフランスで、ユングの言うシンクロニシティーが起きていたのかも知れない。とりあえずマルローについては自分で読んでいただくこととして、三島について―。

三島は「などてすめろぎは人間となりたまいし」と呻き、マルローはニーチェの「神は死んだ」世界にレジスタンスとして生きた。共に「神」を喪失していたのだった。三島についてはここでも何度も触れているが、それは私の内なる三島由紀夫が共鳴しているからだ、とこの本ではっきりと分かった。

このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなってその代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。

この「無機的な経済大国」が私の言うニッポンである。

外国の金銭は人らを走らせ、もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し、
若人らは咽喉元をしめつけられつつ、怠惰と麻薬と闘争に
かつまた望みなき小志の道へ羊のごとく歩みを揃え
魂は悉く腐食せられ、清純は商われ、淫蕩は衰え、
ただ金よ金よと思いめぐらせば、人の値打ちは金よりも卑しくなりゆき、
大ビルは建てども大義は崩壊し、その窓窓は欲求不満の蛍光灯に照り輝き、
血潮はことごとく汚れて平和に澱み、
ほとばしる清き血潮は枯れ果てぬ
かかる日に、などて・・・

とつながる。まさに閉塞した今日の霊的真空地帯ニッポンの様である。

そして三島は「武士道といふは、死ぬことと見つけたり」の『葉隠れ』と『陽明学』に傾倒していく。著者は指摘する、「『葉隠れ』とは不思議な書物で、実践論として読むと、これほど具体的で面白いものはないのだが、ひとたび観念論で捉えると、極めてファナティックに見えてくる。戦前軍国教育に利用されたのも、その危険な陥穽を示している」と。三島はその知的世界において、『葉隠れ』を自らの「生」そのものとして読んだのだろう。それは「主体的死」は死ではなく、むしろ新生を意味するからだ。

彼の心底は「たしかにニ・ニ六事件の挫折によって何か偉大な神が死んだのだった」と、すでに11歳の時に感じている。同時に彼は何と空飛ぶ円盤に関心を深めるのだ。さらに霊的世界に没頭する。それもニ・ニ六事件の英霊に、である。その気持ちも大いに理解できる。彼にとってそれらは、ニッポンと対峙する苦痛から逃れ、一抹の心の安らぎを得る場だったのだ。

時代の欺瞞性を指摘する彼にとって、実は敗戦後の欺瞞に満ちたニッポンに生きた彼の「生」そのものも、「私の中の25年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど『生きた』とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ」と独白する。さらに「それほど否定してきた戦後民主主義の時代25年間を、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷となっている」と、自らの「生」を自己欺瞞と断じる。

ファイル 424-2.jpgかくして『憂国』において、若き近衛歩兵武山信二中尉の切腹とその妻の殉死のエロス的耽溺美を描いた。それは、実は、彼自身であったのだ。彼がボディビルに入れ込んだのも、単に肉体性の追求ばかりではなく、実は自分を真の「神」なる存在へと供するためであった。その死をもって彼は自分の生を証明したのだ。

ファイル 424-3.jpg1970年、あの日の事は、虚無感に呻吟し、その窒息感の中でのたうちまわっていた中学3年の私にとって、実に新鮮な驚きだった。「こんな生き方があるんだ!」と。が、時を経て、まったく意図せざるも私は真の神を見つけ、この肉体をその方に供することができれば、何というエクスタシーであろうかと夢想している。しかし三島はこの方を見出し得なかった。私と三島はほとんど似ていて、しかし間一髪の違いで、私は、今、ここに、こうしている。

しかし実に惹かれるのだ、三島由紀夫的生き方。彼が古式に従って、綺麗に腹を切ることができたことに、少なからぬ嫉妬を覚えている。いつか、私も自らこの「主体的死」へと入りたい。

追記:思うに三島は「神」が人になったことで「生」の意味を喪失した。対して私は神が人になったことで「生」の意味を獲得した。それは実に僅差なのだ。

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