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本日の一冊

ファイル 914-1.jpgツヴァイクの『権力と戦う良心』(みすず書房)。実は本書は、社会学のDr.でもあるヴィオロン様にお借りしたもの。改革派神学者のカルヴァンがいかなる人物であったか、カステリオンとの論争と、カルヴァンによる批判者セルヴェートの虐殺を巡る彼の歴史を克明に記録している。

前に私は神学なるものはその提唱者の精神病理の反映に過ぎないと指摘し、カルヴァンは偏執的サディズム傾向を有すると指摘したが、どうもこの診たては当たっているようだ。ツヴァイクの言葉を引用すると

カルヴァンの花崗岩のような性格、鉄のような頑迷さにつきあたるのである。この偉大な狂信者にとっては、一生を通じて和解ほど無縁なものはなかった。彼は中道ということを知らなかった。彼が知っていたのはただひとつの真理、彼自身の真理だけだった。彼にとっては、すべてか、無か、完全な権力か完全な放棄か、であった。

自分自身に憑かれたカルヴァンは、誰かが自分の意見と違う意見を表明したりすると、そのつど、はげしい怒りにおそわれた。ひとに反駁されると、カルヴァンは一種の神経症の発作をひきおこし、肉体の内部ふかくで精神的な興奮が転移すると、胃がむかついてきて胆汁を吐き出すのだった。相手がその反論をどんなに客観的に、どんなに学問的に展開して見せてもむだだった。相手が大胆にも自分と違った考え方をしたいうただその事実だけで、カルヴァンは彼を自分の不倶戴天の敵であるばかりか、世界の敵、神の敵とした。

かくして自分と違う意見を表明し、自分を批判したセルヴェートに対して死刑を宣言し、とろ火の中に吊るすことにより、彼を生きたまま焼き殺した。

火焔が四方に燃え上がったとき、拷問の責め苦を受けるセルヴェートがぞっとするような叫び声を上げたので、あたりにいた人々は一瞬、戦慄して面をそむけた。まもなく煙と焔とが苦痛に身もだえしている肉体をつつんでしまったが、生身の肉体をゆっくりむさぼりつくしていく火焔の中からは、言語に絶する苦しみにさいなまれている人間の鋭い叫び声がたえまなく、そしてますます鋭く聞こえていた。そしてついに、救いを求める最後の激しい叫び声が耳をつんざいた。「イエス、永遠の神の子よ。われをあわれみたまえ!」この筆舌につくしがたい残酷きわまる断末魔の戦いは、半時間におよんだ。そのあと・・・

この後の現場の描写はあまりにも惨い。かくしてカルヴァンの独善的教義とその行いに対してカステリロンは良心に基づいて戒めを行う。しかしカルヴァンはその非を指摘されるほどに頑なになるのだった。かくしてジュネーブには粛清と恐怖の独裁政治がひかれ、異端者や神の冒涜者はたちまちに摘発されて拷問を受けた。そしてついにカルヴァン主義に反対して宗教的寛容を解いたカステリオンも司法の場に引き出され、異端者として裁かれたのだ。このときのカルテリオンの言葉は

わたしは自分がいとも貧しく、名もなく、卑しい人間であることをよく承知しています。しかし、神はまさにこのような卑しい人間の上にそのまなざしをそそいでおられるので、もし彼らの血が不当に流されるようなことがあれば、それをつぐなわずに放っておかれるようなことは絶対ないでしょう。したがって、わたしはカステリオンは、この裁判をよろこんで承認します。わたしに投げつけられた告訴のうちにどれかひとつでも事実であることが証明されたならば、その当然の償いのために、わたしはみずからすすんでこの首を差し出すでしょう。

だった。かくして異端者のレッテルを貼られた彼はヨーロッパの各地を放浪し、安住の地を見出そうとするも、カルヴァン側の情報が各地に届けられており、どこにおいても異端者としての処遇を受け、文字通り枕するところもなく、確実にその肉体も衰弱し、ついに死の時を迎える。時に1563年12月29日、享年48歳。彼に同情を寄せていた友人の言葉によると「神の助けによって、敵どもの爪のなかから奪い返された」瞬間だった。

この歴史を読むとき、最後に物事を判断するのは、いわゆるカルヴァン神学でもなければ、その延長上にある再建主義でもない。それは神がご自身の手によって私たちの心の中に書き込まれた良心なのだ。ローマ書に次のようにあるとおり:

彼ら(=律法を持たない者たち)はこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。

しかしカルヴァン主義のあだ花とも言える再建主義では、人間の良心はまったく当てにならず、それは単なるヒューマニズムに堕しており、神の直接的統治を実現するためにモーセ律法による石打ち刑も、当時よりははるかに厳密なヴァージョンアップされた形で適用されるべきなのだ。神学や教義が良心よりも優先されるとき、カルヴァンのサディズムはその本質を一挙に発現したのだ。しかるに彼はその著『キリスト教綱要』においてこう書いている:

異端者を殺すことは犯罪である。処刑刀や火焔によって異端者を亡きものとすることは、人間性のあらゆる原理を否定することに他ならない

と。これを乖離性と言う。しかるにパウロはこう証している:

私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。・・・この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。

私は現ニッポンがキリスト教国ではないことを主イエスに感謝すると共に、今後ともキリスト教があくまでも1%のマイナーな宗教にとどまり続けることを祈るものである。

追記:前に裁判員制度に関する山谷さんの記事を紹介したが、そこでコメントしたとおり、果たして再建主義者がめでたく裁判員に選出された場合、彼らは何を頼りとして被告人に裁きを下すのであろうか。その内面のプロセスに実に関心が覚える。

神学の罠
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