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トップ > 2009年06月03日

本日の一冊

ファイル 884-1.jpgやや専門書になりますが、『脳と心的世界-主観的経験のニューロサイエンスへの招待』(星和書店)。精神分析は元々は神経生理学者であったフロイトが、彼の意識の上では大脳生理学の根拠の上に臨床的観察から構築した理論体系だった。しかしある時点から思想となり、やや机上の空論的色彩も強まった。が、これは私自身の確信でもあるのだが、精神分析には必ず神経生理学的根拠がある。

本書でもほとんど同じ問題意識から、精神分析の諸々の概念の神経生理学的根拠を(まだ仮説だが)、興味深く提示している。「私」の意識とはどのようなニューロ回路によって発生するのだろう。著者は「私」の意識は、内臓意識と環境意識によって成り立つとしている。この二つの意識を結合させる意識を中核意識と呼び、これが「私」の精神過程の基礎であるとする。さらに情動や欲求などの問題、言語の考察、精神分析と神経生理学の将来像を提示する。

人間の存在にとって本質的な部分は、私が指摘しているとおり、大脳辺縁系にあるのだ。これを無視したウェスレー的「まったききよめ」とかカルヴァン的救済論(TULIP)がいかに人間疎外を生むか、そして人を狂気へともたらすか、人間性を忘れた神学の恐ろしさを知ることもできるだろう。不毛な神学論争をやめて本書を読むべきだろう。というわけで、私の講義でも大体同じような問題意識で進めているが、実に参考になる。関心のある方には強くお勧めする。

mixiコミュの「霊精神身体医学研究会」の参考書としても使えますね。

memo(. .)〆

面白コピーがありましたので、ちょっとメモっておきます:

・メールのノリは20台(*^ ^*)、メークのノリは30台(> <)
・いつもの電車には乗れたが、今朝もメークは乗らなかった

で、昔「毎日、毎日、僕らは鉄板の、上で焼かれて嫌になっちまうよ」と言う大ヒットを飛ばしたボヤキ歌がありましたが、同じこともイチロー・ヴァージョンでは実にカッコイイのだ:

(Q)イチローはなぜ、同じ毎日を繰り返しているのに未来をつくれるのか?
(A)確かな1歩の積み重ねでしか、遠くには行けない

毎日を普通のおじさん・おばさんとして当たり前を当たり前にしてコツコツと「そうこうして」生きること、もちろん主と共に、これでしか真の御国には行けない、のです。

神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません

「ただキリストのみ」とは

この標語は私もメッセージでよく使うし、私たちの祝された地上の生活の秘訣でもあるのだが、実は罠にもなる。いわゆる「この世を捨てる」とか、「自我に死ぬ」とか、「魂を否む」などの標語の誤った解釈により、何の喜びもない、砂漠のような殺伐とした生活にひたすら耐える"クルシ(苦し)チャン"がニッポンキリスト教には実に多い。しかもそれに長年耐えているうちに、それがその人の一部となり、プライドとなり、アイデンティティとすらなっているのだ。特に「ホーリネス」あたりに。

私は常々、自分の髪を引っ張って空を飛ぼうとするような愚かなことをするな、と言っているのだが、それをしている人はかえって怒り出す。「自分は神のためにこれだけ頑張っているのだ!」と。まあ、私的にはご自由にどうぞなのだが・・・。一方でキリスト教の堕落を回復するにはモーセ律法の適用により、石打刑を復活せよとマジメに主張する人々もいる。

かくしてこのニッポンキリスト教には、神から離れて自分で自分を何とかしようとするニンゲンのあり方の病理標本が実に豊富なのだ。彼らのひとつの特徴は、マジメ、真剣、熱心、真っ直ぐ、純粋なこと。ある種の殺気を感じるほど。聖書に「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」とあるとおり。その結果として、自分の世界にすっぽりとはまり込み、メタ視点を喪失して自己を相対化できず、カプセル化する。このような閉鎖集団では必ず先鋭化と倒錯現象が起きることは、例えば連合赤軍の自己総括による集団リンチ殺人事件でも良く分かる。かくしてローカルチャーチなどでこのところ盛んになってきている有害分子の「検疫」によって、そのカプセルの中の"純度"を維持しようと躍起になる。これが場所と時代によっては「粛清」となるのだ。スターリンしかり、ポルポトしかり、毛沢東しかり、そして小泉氏しかり。

彼らからすると私のアイドリング生活などは、まさに堕落の極みなのであろう。その堕落したDr.Lukeがあえて言いますと、もっと力を抜いたら、と思うだ。ある場面では文字通りキリストのために、自分の何か、あるいは自分自身を捨てる必要も迫られるだろう。しかし主が求めていない時にアレコレ捨てる必要もない。かくして創世記に戻りましょう。神は「すべての木から取って食べてよい」と言われたのだ。現経綸においても、神は私たちをあらゆる良き物をもって私たちを楽しませて下さる。パウロもこう言っている:

「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。

というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。

ペテロは天からつるされた布の中のモーセ律法による汚れた動物を避けようとしたが、神は「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と言われたのだ。そしてこうも言われている

清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。

信じない者にとっては何一つ清いものがない、つまり信仰の問題なのだ。罪とはすべて信仰によらないことなのだ。ローマ14章、1コリント98章をよくお読みいただきたいが、良心が弱い(=過敏)な人は偶像に捧げたものによって容易に良心が汚れを受ける(=クラッシュする)。しかし良心が強い(=主の血に信頼している)人は別段何の影響もない。私はJAZZフェスも映画も温泉もカラオケも夜の六本木も、それらによって別段良心がクラッシュすることもない。主と共に十分に楽しむことができる。聖霊派が糾弾するディズニーランドで悪霊に取り憑かれることもないし、彼らの言う悪霊の巣窟である神社仏閣の落ち着いた風情は、私は大好きなのだ。

「ただキリストのみ」とは神が備えて下さったあらゆる木々を楽しみつつ、その木々の実体なるキリストへとすべてが収斂されていくこと。自己の動機から離れて、神が備えてくださるもの、与えてくださるもの、そして神ご自身をあらゆる機会に、あらゆる場所で、あらゆる事柄において楽しむこと。自分で努力せずとも神が備えて下さるのだから、自分はアイドリング状態でいられるわけなのだ。このとき、ジル博士も言っているとおり、私たちは右脳モードに入るし、β-エンドルフィンも分泌され、視床下部からはよきホルモンも放出されて、ストレスフリーとされ、外見も若々しく、楽しげに生きることができるのだ。

あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

かくして主観的聖とは霊・魂・体がキリストにあってひとつに統合され、調和の中にそれぞれのパーツが生き生きと機能すること。このような状態を戦後非業の自死を遂げた道元の『正法眼蔵』の研究者でもあった東大生理学教授橋田無適は「全機」と呼んでいる。この個人レベルの「全機」の拡大がキリストの体エクレシアにあって生き生きと表現されていく。要するに普通の言葉で言えば、聖とは霊・魂・体の統合された中にある健やかなのだ。

私的には、この刺々しい空気の蔓延してきたニッポンキリスト教から離れて、主にお任せした脱力系クリスチャンとなられんことをお勧めする次第であります。(あ、でも、無理にとは申しませんが・・・)

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